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No. | 資料の名称(画像タイトル) | 内容(キャプション) | 撮影場所 | 撮影年(西暦) |
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1 | 菅島しろんご祭1-1 | 鳥羽市菅島町に祀られる白髭明神の祭礼として、数百年もの間続けられていると言う「しろんご祭」である。かつては旧暦6月11日に実施されてきたが近年では新暦7月11日に執り行われる。白髭明神社は全国に分布し、「猿田彦」とも言われることから山神・海神的意味が強く、ここ菅島では島の守護神として祀られる。「しろんご」の語源は、白髭(しろひげ)が訛ったものだとされるが、この日は村の海女全員が神域として禁漁区にされている白髭明神下の磯に潜り、一番早く雌雄一対の鮑を採った物を神社にお供えする。そして、その鮑を採った海女は、その年の海女頭として敬われる。参考文献:在中調査メモ「菅島のシロンゴ祭」/『ふるさと菅島』(以下キャプションは同文献を参照)。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
2 | 菅島しろんご祭1-2 | 白浜(シロンゴハマ)から磯場へと泳ぎ出る海女達。漁業組合の男が岩の上に立ちホラ貝を吹くと、海女達は雌雄一対の鮑を求めて一斉に沖の磯場へと泳ぎ出す。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
3 | 菅島しろんご祭1-3 | 白浜(シロンゴハマ)から磯場へと泳ぎ出る海女達。漁業組合の男が岩の上に立ちホラ貝を吹くと、海女達は雌雄一対の鮑を求めて一斉に沖の磯場へと泳ぎ出す。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
4 | 菅島しろんご祭1-4 | 白浜(シロンゴハマ)から磯場へと泳ぎ出る海女達。漁業組合の男が岩の上に立ちホラ貝を吹くと、海女達は雌雄一対の鮑を求めて一斉に沖の磯場へと泳ぎ出す。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
5 | 菅島しろんご祭1-5 | 白浜(シロンゴハマ)から磯場へと泳ぎ出る海女達。漁業組合の男が岩の上に立ちホラ貝を吹くと、海女達は雌雄一対の鮑を求めて一斉に沖の磯場へと泳ぎ出す。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
6 | 菅島しろんご祭1-6 | しろんご祭が行われる白鬚神社下の白浜。祭の日以外は禁漁区となっているが、祭りの日には県内外からも研究者や多くのカメラマンが訪れる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
7 | 菅島しろんご祭1-7 | 菅島の白髭神社の一ノ鳥居。写真中央の小高い丘の山頂に白髭明神を祀る白鬚神社が建てられている。以前は、現在地より500m程離れた岬に祀られていたが、長い年月による風波の浸食で土砂が崩れ、今の場所に再建したのだと言う。以前の境内もそうであったが、今の神社もその両裾からは土器類が出土する。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
8 | 菅島しろんご祭1-8 | 菅島の白髭神社の一ノ鳥居。写真中央の小高い丘の山頂に白髭明神を祀る白鬚神社が建てられている。以前は、現在地より500m程離れた岬に祀られていたが、長い年月による風波の浸食で土砂が崩れ、今の場所に再建したのだと言う。以前の境内もそうであったが、今の神社もその両裾からは土器類が出土する。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
9 | 菅島しろんご祭1-9 | しろんご祭が行われる白鬚神社下の白浜。祭の日以外は禁漁区となっているが、祭りの日には県内外からも研究者や多くのカメラマンが訪れる。「白髭大明神」と記された幟の後ろは一ノ鳥居。この左上、小高い丘の山頂に白鬚神社が建てられている。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
10 | 菅島しろんご祭1-10 | 菅島の白髭神社の一ノ鳥居。写真中央の小高い丘の山頂に白髭明神を祀る白鬚神社が建てられている。以前は、現在地より500m程離れた岬に祀られていたが、長い年月による風波の浸食で土砂が崩れ、今の場所に再建したのだと言う。以前の境内もそうであったが、今の神社もその両裾からは土器類が出土する。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
11 | 菅島しろんご祭1-11 | しろんご祭が行われる白鬚神社下の白浜。祭の日以外は禁漁区となっているが、祭りの日には県内外からも研究者や多くのカメラマンが訪れる。「白髭大明神」と記された幟の後ろは一ノ鳥居。この左上、小高い丘の山頂に白鬚神社が建てられている。スライド枠には「63.7.11」と記される。スライド枠に「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
12 | 菅島しろんご祭2-1 | 午前9時の祭の開始を待つ海女達。一年間、不孝事が無かった家の海女達は、白のシャツ、磯足袋、磯手拭いを身に付け、徒人は磯づたいの道を、舟人は夫がトマイをする船外機で白浜に集まる。年配の海女達の頭に被った磯手拭いには、魔除けとされる☆印(セーマン)が描かれ、海女の信仰深さが今も色濃く残されていることがわかる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
13 | 菅島しろんご祭2-2 | 午前9時の祭の開始を待つ海女達。一年間、不孝事が無かった家の海女達は、白のシャツ、磯足袋、磯手拭いを身に付け、徒人は磯づたいの道を、舟人は夫がトマイをする船外機で白浜に集まる。年配の海女達の頭に被った磯手拭いには、魔除けとされる☆印(セーマン)が描かれ、海女の信仰深さが今も色濃く残されていることがわかる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
14 | 菅島しろんご祭2-3 | 午前9時の祭の開始を待つ海女達。一年間、不孝事が無かった家の海女達は、白のシャツ、磯足袋、磯手拭いを身に付け、徒人は磯づたいの道を、舟人は夫がトマイをする船外機で白浜に集まる。年配の海女達の頭に被った磯手拭いには、魔除けとされる☆印(セーマン)が描かれ、海女の信仰深さが今も色濃く残されていることがわかる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
15 | 菅島しろんご祭2-4 | 午前9時の祭の開始を待つ海女達。一年間、不孝事が無かった家の海女達は、白のシャツ、磯足袋、磯手拭いを身に付け、徒人は磯づたいの道を、舟人は夫がトマイをする船外機で白浜に集まる。年配の海女達の頭に被った磯手拭いには、魔除けとされる☆印(セーマン)が描かれ、海女の信仰深さが今も色濃く残されていることがわかる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
16 | 菅島しろんご祭2-5 | 午前9時の祭の開始を待つ海女達。一年間、不孝事が無かった家の海女達は、白のシャツ、磯足袋、磯手拭いを身に付け、徒人は磯づたいの道を、舟人は夫がトマイをする船外機で白浜に集まる。年配の海女達の頭に被った磯手拭いには、魔除けとされる☆印(セーマン)が描かれ、海女の信仰深さが今も色濃く残されていることがわかる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
17 | 菅島しろんご祭2-6 | 午前9時の祭の開始を待つ海女達。一年間、不孝事が無かった家の海女達は、白のシャツ、磯足袋、磯手拭いを身に付け、徒人は磯づたいの道を、舟人は夫がトマイをする船外機で白浜に集まる。年配の海女達の頭に被った磯手拭いには、魔除けとされる☆印(セーマン)が描かれ、海女の信仰深さが今も色濃く残されていることがわかる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
18 | 菅島しろんご祭2-7 | 午前9時の祭の開始を待つ海女達。一年間、不孝事が無かった家の海女達は、白のシャツ、磯足袋、磯手拭いを身に付け、徒人は磯づたいの道を、舟人は夫がトマイをする船外機で白浜に集まる。年配の海女達の頭に被った磯手拭いには、魔除けとされる☆印(セーマン)が描かれ、海女の信仰深さが今も色濃く残されていることがわかる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
19 | 菅島しろんご祭2-8 | 午前9時になると、海上安全と豊漁を祈願して菅島神社の宮司による祓いが行われる。祭事に参加する海女達は、砂浜に正座し豊漁と操業の安全を祈願する。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
20 | 菅島しろんご祭2-9 | 午前9時になると、海上安全と豊漁を祈願して菅島神社の宮司による祓いが行われる。祭事に参加する海女達は、砂浜に正座し豊漁と操業の安全を祈願する。スライド枠に「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
21 | 菅島しろんご祭2-10 | 午前9時になると、海上安全と豊漁を祈願して菅島神社の宮司による祓いが行われる。祭事に参加する海女達は、砂浜に正座し豊漁と操業の安全を祈願する。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
22 | 菅島しろんご祭2-11 | 午前9時になると、海上安全と豊漁を祈願して菅島神社の宮司による祓いが行われる。祭事に参加する海女達は、砂浜に正座し豊漁と操業の安全を祈願する。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
23 | 菅島しろんご祭2-12 | (不明・しろんご祭とは別の写真か?)。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
24 | 菅島しろんご祭2-13 | (不明・しろんご祭とは別の写真か?)。スライド枠に「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
25 | 菅島しろんご祭2-14 | (不明・しろんご祭とは別の写真か?)。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
26 | 菅島しろんご祭2-15 | (不明・しろんご祭とは別の写真か?)。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
27 | 菅島しろんご祭3-1 | 大漁旗を立て白浜に集まった島の漁師船。海女の操業を沖合から見守る。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
28 | 菅島しろんご祭3-2 | 白鬚神社に一番鮑(雌雄一対)を供える海女。かつては一番鮑を獲った海女は高々と片手を上げて名乗り出て、舟板に雄貝と雌貝をのせ濡れた磯着のまま鳥居をくぐり、白鬚明神に奉納した。これを「まねきアワビ」と称して、他のアワビをまねき、豊漁が約束されると伝えられている。現在は、青年部の女子が正装をしてお供えに行く。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
29 | 菅島しろんご祭3-3 | 磯メガネを掛け、手袋をし、海に入る準備を進める海女。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
30 | 菅島しろんご祭3-4 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温める。前には、磯桶や発泡スチロールで作った浮き輪の下にスカリを付けた「タンポ」や磯メガネが置かれている。昭和50年代初期は全て磯桶だったと言うが、撮影時期には発砲スチロール製のタンポが6割程を占めるとの事である。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
31 | 菅島しろんご祭3-5 | 磯メガネの手入れをしながら海に入る準備を進める海女。眼鏡の曇り止めに、ツワブキの葉やヨモギ等が使われる。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
32 | 菅島しろんご祭3-6 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温める。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
33 | 菅島しろんご祭3-7 | 白浜(シロンゴハマ)から磯場へと泳ぎ出る海女達。漁業組合の男が岩の上に立ちホラ貝を吹くと、海女達は雌雄一対の鮑を求めて一斉に沖の磯場へと泳ぎ出す。磯メガネを掛け、手にはそれぞれ磯桶やタンポが抱えられている。昭和50年代初期は全て磯桶だったと言うが、撮影時期には発砲スチロール製のタンポが6割程を占めるとの事である。スライド枠には「シロンゴ 63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
34 | 菅島しろんご祭3-8 | 雌雄一対の鮑を求めて操業する海女達。徒人は水深6~7m程の磯場で、舟人はその沖の深いところを潜る。菅島の舟人は、他の地区とは異なり、引き上げの時滑車を使わず、引き竿を使用する。途中まで上がってきた海女は、夫の差し出す竿に掴まり手繰り寄せられる。一潜の操業は約1時間程である。スライド枠には「しろんご① 63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
35 | 菅島しろんご祭3-9 | 一潜目を終えたのか、祭事が終了したのか、磯桶を頭に頂き浜辺を移動する海女。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
36 | 菅島しろんご祭3-10 | 獲ってきた鮑を組合員の秤にかける海女。この日獲った鮑は全て漁協組合員に差し出され、白髭神社の収入とされたが、近年は水揚げの3割~5割程度が神社資金として徴収され、残りは自分の収入になると言う。ただ、一番鮑を獲った海女だけは、その後潜水して獲った水揚げの全てが自分の収入になるという決め事は今も昔も同じだと言う。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
37 | 菅島しろんご祭3-11 | 船上から見た菅島(佐田浜側から菅島を見る) | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
38 | 菅島しろんご祭3-12 | 白鬚神社に一番鮑(雌雄一対)を供える海女。かつては一番鮑を獲った海女は高々と片手を上げて名乗り出て、舟板に雄貝と雌貝をのせ濡れた磯着のまま鳥居をくぐり、白鬚明神に奉納した。これを「まねきアワビ」と称して、他のアワビをまねき、豊漁が約束されると伝えられている。現在は、青年部の女子が正装をしてお供えに行く。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
39 | 菅島しろんご祭3-13 | 一番鮑が奉納されると、氏子総代や漁協、町内会等、村の代表者達が正装をし居並ぶ中で、菅島神社の宮司による祝詞奏上、玉串奉奠が行なわれ、式典が挙行されていく。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
40 | 菅島しろんご祭4-1 | 若者の子どもだろうか。法被姿で祭に参加した子ども。左手には紅白の餅、右手には七色の紙で作られた「シダレヤナギ」と呼ばれる縁起物が握られている。七色はそれぞれ天空・太陽・月光・雨水・草木・人間・土地を表す縁起物とされ、祭が終わると漁師達はこの「シダレヤナギ」を持ち帰り、家の床の間などに飾り置くと言う。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
41 | 菅島しろんご祭4-2 | 法被姿で祭に参加した子ども。左手には紅白の餅、右手には七色はそれぞれ天空・太陽・月光・雨水・草木・人間・土地を表す縁起物とされ、祭が終わると漁師達はこの「シダレヤナギ」を持ち帰り、家の床の間などに飾り置くと言う。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
42 | 菅島しろんご祭4-3 | 雄貝、雌貝一対の鮑を獲った海女が合図を送ると、役人船が出向いて一番鮑を受け取り、白布に包んで数人の青年代表に手渡す。青年は、それを大切に受け取り、浜で待つ白の磯着に☆印(セーマン)の磯手拭い被り正装した女子に届ける。娘は、その鮑を漁協役員の元に届け出た後、舟板に一対の鮑を乗せ、鳥居をくぐり白鬚神社の石段を登っていく。神社に着くと社殿前に設えた祭壇に鮑を供える。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
43 | 菅島しろんご祭4-4 | 雄貝、雌貝一対の鮑を獲った海女が合図を送ると、役人船が出向いて一番鮑を受け取り、白布に包んで数人の青年代表に手渡す。青年は、それを大切に受け取り、浜で待つ白の磯着に☆印(セーマン)の磯手拭い被り正装した女子に届ける。娘は、その鮑を漁協役員の元に届け出た後、舟板に一対の鮑を乗せ、鳥居をくぐり白鬚神社の石段を登っていく。神社に着くと社殿前に設えた祭壇に鮑を供える。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
44 | 菅島しろんご祭4-5 | 雄貝、雌貝一対の鮑を獲った海女が合図を送ると、役人船が出向いて一番鮑を受け取り、白布に包んで数人の青年代表に手渡す。青年は、それを大切に受け取り、浜で待つ白の磯着に☆印(セーマン)の磯手拭い被り正装した女子に届ける。娘は、その鮑を漁協役員の元に届け出た後、舟板に一対の鮑を乗せ、鳥居をくぐり白鬚神社の石段を登っていく。神社に着くと社殿前に設えた祭壇に鮑を供える。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
45 | 菅島しろんご祭4-6 | 雄貝、雌貝一対の鮑を獲った海女が合図を送ると、役人船が出向いて一番鮑を受け取り、白布に包んで数人の青年代表に手渡す。青年は、それを大切に受け取り、浜で待つ白の磯着に☆印(セーマン)の磯手拭い被り正装した女子に届ける。娘は、その鮑を漁協役員の元に届け出た後、舟板に一対の鮑を乗せ、鳥居をくぐり白鬚神社の石段を登っていく。神社に着くと社殿前に設えた祭壇に鮑を供える。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
46 | 菅島しろんご祭4-7 | 午前9時の祭の開始を待つ海女達。一年間、不孝事が無かった家の海女達は、白のシャツ、磯足袋、磯手拭いを身に付け、徒人は磯づたいの道を、舟人は夫がトマイをする船外機で白浜に集まる。年配の海女達の頭に被った磯手拭いには、魔除けとされる☆印(セーマン)が描かれ、海女の信仰深さが今も色濃く残されていることがわかる。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
47 | 菅島しろんご祭4-8 | 白鬚神社に一番鮑(雌雄一対)を供える海女。かつては一番鮑を獲った海女は高々と片手を上げて名乗り出て、舟板に雄貝と雌貝をのせ濡れた磯着のまま鳥居をくぐり、白鬚明神に奉納した。これを「まねきアワビ」と称して、他のアワビをまねき、豊漁が約束されると伝えられている。現在は、青年部の女子が正装をしてお供えに行く。スライド枠に「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
48 | 菅島しろんご祭4-9 | 一番鮑が奉納されると、氏子総代や漁協、町内会等、村の代表者達が正装をし居並ぶ中で、菅島神社の宮司による祝詞奏上、玉串奉奠が行なわれ、式典が挙行されていく。スライド枠に「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
49 | 菅島しろんご祭4-10 | 白鬚神社に一番鮑(雌雄一対)を供える海女。かつては一番鮑を獲った海女は高々と片手を上げて名乗り出て、舟板に雄貝と雌貝をのせ濡れた磯着のまま鳥居をくぐり、白鬚明神に奉納した。これを「まねきアワビ」と称して、他のアワビをまねき、豊漁が約束されると伝えられている。現在は、青年部の女子が正装をしてお供えに行く。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
50 | 菅島しろんご祭4-11 | 白鬚神社に一番鮑(雌雄一対)を供える海女。かつては一番鮑を獲った海女は高々と片手を上げて名乗り出て、舟板に雄貝と雌貝をのせ濡れた磯着のまま鳥居をくぐり、白鬚明神に奉納した。これを「まねきアワビ」と称して、他のアワビをまねき、豊漁が約束されると伝えられている。現在は、青年部の女子が正装をしてお供えに行く。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
51 | 菅島しろんご祭4-12 | 白鬚神社に一番鮑(雌雄一対)を供える海女。かつては一番鮑を獲った海女は高々と片手を上げて名乗り出て、舟板に雄貝と雌貝をのせ濡れた磯着のまま鳥居をくぐり、白鬚明神に奉納した。これを「まねきアワビ」と称して、他のアワビをまねき、豊漁が約束されると伝えられている。現在は、青年部の女子が正装をしてお供えに行く。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
52 | 菅島しろんご祭4-13 | 白鬚神社に一番鮑(雌雄一対)を供える海女。かつては一番鮑を獲った海女は高々と片手を上げて名乗り出て、舟板に雄貝と雌貝をのせ濡れた磯着のまま鳥居をくぐり、白鬚明神に奉納した。これを「まねきアワビ」と称して、他のアワビをまねき、豊漁が約束されると伝えられている。現在は、青年部の女子が正装をしてお供えに行く。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
53 | 菅島しろんご祭4-14 | 白鬚神社に一番鮑(雌雄一対)を供える海女。かつては一番鮑を獲った海女は高々と片手を上げて名乗り出て、舟板に雄貝と雌貝をのせ濡れた磯着のまま鳥居をくぐり、白鬚明神に奉納した。これを「まねきアワビ」と称して、他のアワビをまねき、豊漁が約束されると伝えられている。現在は、青年部の女子が正装をしてお供えに行く。スライド枠に「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
54 | 菅島しろんご祭5-1 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温める。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
55 | 菅島しろんご祭5-2 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温める。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
56 | 菅島しろんご祭5-3 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温める。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
57 | 菅島しろんご祭5-4 | 磯入り前に行われる、菅島神社の宮司による祓いの式典に出るのであろう。暖を取っていた海女達は、磯桶等の海女用具を置いて白鬚神社下の白浜へと急ぐ。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
58 | 菅島しろんご祭5-5 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温める。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
59 | 菅島しろんご祭5-6 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温める。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
60 | 菅島しろんご祭5-7 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温める。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
61 | 菅島しろんご祭5-8 | 磯入り前に行われる、菅島神社の宮司による祓いの式典に出るのであろう。暖を取っていた海女達は、磯桶等の海女用具を置いて白鬚神社下の白浜へと急ぐ。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
62 | 菅島しろんご祭5-9 | 獲った漁獲物を組合に差し出し、祭事を終えると海女達は来た時と同様に磯桶やフゴに道具を入れ、おもいおもいに帰途に着く。昔ながらの磯桶を使用する年配の海女達は、道具を入れた桶を頭上に乗せて運搬する。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
63 | 菅島しろんご祭5-10 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
64 | 菅島しろんご祭5-11 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
65 | 菅島しろんご祭5-12 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
66 | 菅島しろんご祭5-13 | 磯メガネの手入れをしながら海に入る準備を進める海女。眼鏡の曇り止めに、ツワブキの葉をやヨモギ等が使われる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
67 | 菅島しろんご祭5-14 | 沖合で操業する海女。海面に出た海女は、磯桶に捕まりながら息を整え、次の潜水に備える。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
68 | 菅島しろんご祭5-15 | 磯入り前に行われる、菅島神社の宮司による祓いの式典に出るのであろう。暖を取っていた海女達は、磯桶等の海女用具を置いて白鬚神社下の白浜へと急ぐ。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
69 | 菅島しろんご祭5-16 | 磯入り前に行われる、菅島神社の宮司による祓いの式典に出るのであろう。暖を取っていた海女達は、磯桶等の海女用具を置いて白鬚神社下の白浜へと急ぐ。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
70 | 菅島しろんご祭5-17 | 磯入り前に行われる、菅島神社の宮司による祓いの式典に出るのであろう。暖を取っていた海女達は、磯桶等の海女用具を置いて白鬚神社下の白浜へと急ぐ。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
71 | 菅島しろんご祭5-18 | 操業を終え、磯桶を抱えて岸に上がってきた海女。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
72 | 菅島しろんご祭6-1 | 白鬚神社の社殿前に設えた祭壇に、奉納された一番鮑(雄貝・雌貝一対)。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
73 | 菅島しろんご祭6-2 | 白鬚神社の社殿前に設えた祭壇に、奉納された一番鮑(雄貝・雌貝一対)。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
74 | 菅島しろんご祭6-3 | 白鬚神社の社殿前に設えた祭壇に、奉納された一番鮑(雄貝・雌貝一対)。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
75 | 菅島しろんご祭6-4 | 白鬚神社の境内からしろんご祭の海上を見る。海女達が潜く沖合を大漁旗を立てた漁船の船団が円を描くように走る。写真右手の遊覧船は、教護船や報道関係者、視察団、観光客用のものかと思われる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
76 | 菅島しろんご祭6-5 | 白鬚神社の境内からしろんご祭の海上を見る。海女達が潜く沖合を大漁旗を立てた漁船の船団が円を描くように走る。写真右手の遊覧船は、教護船や報道関係者、視察団、観光客用のものかと思われる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
77 | 菅島しろんご祭6-6 | 白鬚神社の境内からしろんご祭の海上を見る。海女達が潜く沖合を大漁旗を立てた漁船の船団が円を描くように走る。写真右手の遊覧船は、教護船や報道関係者、視察団、観光客用のものかと思われる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
78 | 菅島しろんご祭6-7 | 獲ってきた鮑を組合員の秤にかける海女。この日獲った鮑は全て漁協組合員に差し出され、白髭神社の収入とされたが、近年は水揚げの3割~5割程度が神社資金として徴収され、残りは自分の収入になると言う。ただ、一番鮑を獲った海女だけは、その後潜水して獲った水揚げの全てが自分の収入になるという決め事は今も昔も同じだと言う。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
79 | 菅島しろんご祭6-8 | 一番鮑を運ぶのか?。沖から戻った役員船。紋付・羽織に正装した男達が乗り込んでいる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
80 | 菅島しろんご祭6-9 | 一番鮑を運ぶのか?。沖から戻った役員船。紋付・羽織に正装した男達が乗り込んでいる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
81 | 菅島しろんご祭6-10 | しろんご祭に参加するため、大漁旗と国旗を立てて白浜に集まった漁船団。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
82 | 菅島しろんご祭6-11 | しろんご祭に参加するため、大漁旗と国旗を立てて白浜に集まった漁船団。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
83 | 菅島しろんご祭6-12 | しろんご祭に参加するため、大漁旗と国旗を立てて白浜に集まった漁船団。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
84 | 菅島しろんご祭6-13 | しろんご祭に参加するため、大漁旗と国旗を立てて白浜に集まった漁船団。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
85 | 菅島しろんご祭6-14 | しろんご祭に参加するため、大漁旗と国旗を立てて白浜に集まった漁船団。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
86 | 菅島しろんご祭7-1 | 一番鮑が奉納されると、氏子総代や漁協、町内会等、村の代表者達が正装をし居並ぶ中で、菅島神社の宮司による祝詞奏上、玉串奉奠が行なわれ、式典が挙行されていく。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
87 | 菅島しろんご祭7-2 | 一番鮑が奉納されると、氏子総代や漁協、町内会等、村の代表者達が正装をし居並ぶ中で、菅島神社の宮司による祝詞奏上、玉串奉奠が行なわれ、式典が挙行されていく。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
88 | 菅島しろんご祭7-3 | 一番鮑奉納の式典が終わると、村人達は挙って白鬚神社を訪れ、海上安全と豊漁を祈願する。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
89 | 菅島しろんご祭7-4 | 一番鮑奉納の式典が終わると、村人達は挙って白鬚神社を訪れ、海上安全と豊漁を祈願する。白浜の裾から白鬚神社までは急な石段が続く。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
90 | 菅島しろんご祭7-5 | 一番鮑奉納の式典が終わると、村人達は挙って白鬚神社を訪れ、海上安全と豊漁を祈願する。白浜の裾から白鬚神社までは急な石段が続く。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
91 | 菅島しろんご祭7-6 | 白鬚神社の境内から白浜を望む。普段は禁漁区で静かなこの浜も、11日のしろんご祭の日だけは、大漁旗が翻り、挙って村民がお参りに訪れ賑やかな一日となる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
92 | 菅島しろんご祭7-7 | 操業を終え、浜に戻ってきた海女。手に持つタンポには、鮑の大きさを計測するスントリが付けられている。島の子供達にとって、海は生まれたときから格好の遊び場である。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
93 | 菅島しろんご祭7-8 | 操業を終え、浜に戻ってきた海女。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
94 | 菅島しろんご祭7-9 | 操業を終え浜に戻ってきた海女。右手に抱えているのは鮑だろうか。海から上がった海女は組合員の待つ集荷場所へと向かう。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
95 | 菅島しろんご祭7-10 | 操業を終え浜に戻ってきた海女。右手に抱えているのは鮑だろうか。海から上がった海女は組合員の待つ集荷場所へと向かう。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
96 | 菅島しろんご祭7-11 | 操業を終え、浜へと向かう海女。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
97 | 菅島しろんご祭7-12 | 操業を終え浜に戻ってきた海女。沖の方ではまだ操業を続けている海女達の姿も見える。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
98 | 菅島しろんご祭7-13 | 操業を終え浜に戻ってきた海女。左手で抱えたタンポのスカリには鮑か、栄螺が入っているようである。海から上がった海女は組合員の待つ集荷場所へと向かう。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
99 | 菅島しろんご祭7-14 | 操業を終え浜に戻ってきた海女。左手で抱えたタンポのスカリには鮑か、栄螺が入っているようである。海から上がった海女は組合員の待つ集荷場所へと向かう。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
100 | 菅島しろんご祭8-1 | 操業を終え浜に戻ってきた海女。左手で抱えたタンポのスカリには鮑か、栄螺が入っているようである。海から上がった海女は組合員の待つ集荷場所へと向かう。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
101 | 菅島しろんご祭8-2 | 操業を終え浜に戻ってきた海女。左手で抱えたタンポのスカリには鮑か、栄螺が入っているようである。海から上がった海女は組合員の待つ集荷場所へと向かう。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
102 | 菅島しろんご祭8-3 | 操業を終え浜に戻ってきた海女。左手で抱えたタンポのスカリには鮑か、栄螺が入っているようである。海から上がった海女は組合員の待つ集荷場所へと向かう。スカリには、鮑の大きさを計測する「スントリ」が付けられている。鮑は3寸5分(10.6㎝)以下のものは獲ってはいけない決まりになっている。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
103 | 菅島しろんご祭8-4 | 獲った漁獲物を組合に差し出し、祭事を終えると海女達は来た時と同様に磯桶やフゴに道具を入れ、おもいおもいに帰途に着く。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
104 | 菅島しろんご祭8-5 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
105 | 菅島しろんご祭8-6 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
106 | 菅島しろんご祭8-7 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。手前にはタンポや菅島ではイソモンオコシと呼ぶカギノミ、磯桶、磯メガネ、眼鏡箱等が置かれている。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
107 | 菅島しろんご祭8-8 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。手前にはタンポや菅島ではイソモンオコシと呼ぶカギノミ、磯桶、磯メガネ、眼鏡箱等が置かれている。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
108 | 菅島しろんご祭8-9 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。手前にはタンポや菅島ではイソモンオコシと呼ぶカギノミ、磯桶、磯メガネ、眼鏡箱等が置かれている。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
109 | 菅島しろんご祭8-10 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、曇り止めのツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。磯桶やタンポには、獲った鮑の大きさを計測する「スントリ」と呼ばれる木製の用具が括り付けられている。鮑は、この「スントリ」の中に収まってしまうもの、3寸5分(10.6㎝)以下のものは獲ってはいけない決まりになっている。スライド枠に「63.7.11」と記される。スライド枠に「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
110 | 菅島しろんご祭8-11 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。磯桶やタンポには、獲った鮑の大きさを計測する「スントリ」と呼ばれる木製の用具が括り付けられている。鮑は、この「スントリ」の中に収まってしまうもの、3寸5分(10.6㎝)以下のものは獲ってはいけない決まりになっている。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
111 | 菅島しろんご祭8-12 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。前列左の海女は、獲った鮑の大きさを計測する「スントリ」と呼ばれる木製の用具を磯桶に括り付けている。鮑は3寸5分(10.6㎝)以下のものは獲ってはいけない決まりになっている。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
112 | 菅島しろんご祭8-13 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使う曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供えるスライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
113 | 菅島しろんご祭8-14 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
114 | 菅島しろんご祭9-1 | 獲った漁獲物を組合に差し出し、祭事を終えると海女達は来た時と同様に磯桶やフゴに道具を入れ、おもいおもいに帰途に着く。昔ながらの磯桶を使用する年配の海女達は、道具を入れた桶を頭上に乗せて運搬する。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
115 | 菅島しろんご祭9-2 | 獲った漁獲物を組合に差し出し、祭事を終えると海女達は来た時と同様に磯桶やフゴに道具を入れ、おもいおもいに帰途に着く。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
116 | 菅島しろんご祭9-3 | 獲った漁獲物を組合に差し出し、祭事を終えると海女達は来た時と同様に磯桶やフゴに道具を入れ、おもいおもいに帰途に着く。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
117 | 菅島しろんご祭9-4 | 操業を終え浜に戻ってきた海女。右手に磯メガネ、左手にはタンポが持たれている。スカリには鮑か、栄螺が入れられている。思っていた通りの水揚げがあったのか、如何にもうれしそうな笑顔である。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
118 | 菅島しろんご祭9-5 | 操業を終え浜に戻ってきた海女。右手に磯メガネ、左手にはタンポが持たれている。スカリには鮑か、栄螺が入れられている。思っていた通りの水揚げがあったのか、如何にもうれしそうな笑顔である。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
119 | 菅島しろんご祭9-6 | 獲ってきた鮑を点検する。鮑は「スントリ」と呼ばれる木製の計測用具で測られる。スントリの内寸は、3寸5分(10.6㎝)に作られており、それより小さい物は獲ってはいけない決まりになっている。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
120 | 菅島しろんご祭9-7 | 獲ってきた鮑を点検する。鮑は「スントリ」と呼ばれる木製の計測用具で測られる。スントリの内寸は、3寸5分(10.6㎝)に作られており、それより小さい物は獲ってはいけない決まりになっている。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
121 | 菅島しろんご祭9-8 | 獲ってきた鮑を点検する。鮑は「スントリ」と呼ばれる木製の計測用具で測られる。スントリの内寸は、3寸5分(10.6㎝)に作られており、それより小さい物は獲ってはいけない決まりになっている。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
122 | 菅島しろんご祭9-9 | 操業を終え浜に戻ってきた海女。左手に磯メガネ、左手にはタンポが持たれている。スカリには鮑か、栄螺が入れられているようだ。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
123 | 菅島しろんご祭9-10 | 操業を終え浜に戻ってきた海女。右手に磯メガネ、左手にはタンポが持たれている。スカリには鮑か、栄螺が入れられているようだ。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
124 | 菅島しろんご祭9-11 | 操業を終え浜に戻ってきた海女。左手で抱えたタンポのスカリには鮑か、栄螺が入っているようであるが、これから組合員の待つ集荷場所へと向かう。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
125 | 菅島しろんご祭9-12 | 操業を終え浜に戻ってきた海女。左手で抱えたタンポのスカリには鮑か、栄螺が入っているようであるが、これから組合員の待つ集荷場所へと向かう。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
126 | 菅島しろんご祭9-13 | 獲った漁獲物を組合に差し出し、祭事を終えると海女達は来た時と同様に磯桶やフゴに道具を入れ、おもいおもいに帰途に着く。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
127 | 菅島しろんご祭9-14 | 獲った漁獲物を組合に差し出し、祭事を終えると海女達は来た時と同様に磯桶やフゴに道具を入れ、おもいおもいに帰途に着く。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
128 | 菅島しろんご祭9-15 | 獲った漁獲物を組合に差し出し、祭事を終えると海女達は来た時と同様に磯桶やフゴに道具を入れ、おもいおもいに帰途に着く。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
129 | 菅島しろんご祭9-16 | 海女用具・磯桶。近年は発泡スチロールで作った浮き輪にスカリを付けるタンポが多くなってきたと言うが、徒人やノリアイの海女が使用する昔ながらの磯桶である。磯桶には、桶と海女をつなぐロープが付けられている。ロープはそれぞれの海女が潜る深さによって少しづつ長さが異なると言う。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
130 | 菅島しろんご祭10-1 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供えるスライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
131 | 菅島しろんご祭10-2 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。タンポには、獲った鮑の大きさを計測する「スントリ」と呼ばれる木製の用具が括り付けられている。鮑は、この「スントリ」の中に収まってしまうもの、●寸●分( ㎝)以下のものは獲ってはいけない決まりになっている。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
132 | 菅島しろんご祭10-3 | 漁業組合員による合図のホラ貝が吹き鳴らされると、海女達は雄・雌一対の鮑を求めて、一斉に沖合の磯場へと泳ぎ始める。徒人は水深6~7m程の磯場を潜水し、舟人はその沖の深い所を潜る。一回の潜水は平均45~50秒。約1時間の操業が続けられる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
133 | 菅島しろんご祭10-4 | 漁業組合員による合図のホラ貝が吹き鳴らされると、海女達は雄・雌一対の鮑を求めて、一斉に沖合の磯場へと泳ぎ始める。徒人は水深6~7m程の磯場を潜水し、舟人はその沖の深い所を潜る。一回の潜水は平均45~50秒。約1時間の操業が続けられる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
134 | 菅島しろんご祭10-5 | 漁業組合員による合図のホラ貝が吹き鳴らされると、海女達は雄・雌一対の鮑を求めて、一斉に沖合の磯場へと泳ぎ始める。徒人は水深6~7m程の磯場を潜水し、舟人はその沖の深い所を潜る。一回の潜水は平均45~50秒。約1時間の操業が続けられる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
135 | 菅島しろんご祭10-6 | 漁業組合員による合図のホラ貝が吹き鳴らされると、海女達は雄・雌一対の鮑を求めて、一斉に沖合の磯場へと泳ぎ始める。徒人は水深6~7m程の磯場を潜水し、舟人はその沖の深い所を潜る。一回の潜水は平均45~50秒。約1時間の操業が続けられる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
136 | 菅島しろんご祭10-7 | 漁業組合員による合図のホラ貝が吹き鳴らされると、海女達は雄・雌一対の鮑を求めて、一斉に沖合の磯場へと泳ぎ始める。徒人は水深6~7m程の磯場を潜水し、舟人はその沖の深い所を潜る。一回の潜水は平均45~50秒。約1時間の操業が続けられる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
137 | 菅島しろんご祭10-8 | 漁業組合員による合図のホラ貝が吹き鳴らされると、海女達は雄・雌一対の鮑を求めて、一斉に沖合の磯場へと泳ぎ始める。徒人は水深6~7m程の磯場を潜水し、舟人はその沖の深い所を潜る。一回の潜水は平均45~50秒。約1時間の操業が続けられる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
138 | 菅島しろんご祭10-9 | 漁業組合員による合図のホラ貝が吹き鳴らされると、海女達は雄・雌一対の鮑を求めて、一斉に沖合の磯場へと泳ぎ始める。徒人は水深6~7m程の磯場を潜水し、舟人はその沖の深い所を潜る。一回の潜水は平均45~50秒。約1時間の操業が続けられる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
139 | 菅島しろんご祭10-10 | 漁業組合員による合図のホラ貝が吹き鳴らされると、海女達は雄・雌一対の鮑を求めて、一斉に沖合の磯場へと泳ぎ始める。徒人は水深6~7m程の磯場を潜水し、舟人はその沖の深い所を潜る。一回の潜水は平均45~50秒。約1時間の操業が続けられる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
140 | 菅島しろんご祭10-11 | 漁業組合員による合図のホラ貝が吹き鳴らされると、海女達は雄・雌一対の鮑を求めて、一斉に沖合の磯場へと泳ぎ始める。徒人は水深6~7m程の磯場を潜水し、舟人はその沖の深い所を潜る。一回の潜水は平均45~50秒。約1時間の操業が続けられる。スライド枠には「63.7.11」と記される。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
141 | 菅島しろんご祭10-12 | 漁業組合員による合図のホラ貝が吹き鳴らされると、海女達は雄・雌一対の鮑を求めて、一斉に沖合の磯場へと泳ぎ始める。徒人は水深6~7m程の磯場を潜水し、舟人はその沖の深い所を潜る。一回の潜水は平均45~50秒。約1時間の操業が続けられる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
142 | 菅島しろんご祭10-13 | 漁業組合員による合図のホラ貝が吹き鳴らされると、海女達は雄・雌一対の鮑を求めて、一斉に沖合の磯場へと泳ぎ始める。徒人は水深6~7m程の磯場を潜水し、舟人はその沖の深い所を潜る。一回の潜水は平均45~50秒。約1時間の操業が続けられる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
143 | 菅島しろんご祭10-14 | 漁業組合員による合図のホラ貝が吹き鳴らされると、海女達は雄・雌一対の鮑を求めて、一斉に沖合の磯場へと泳ぎ始める。徒人は水深6~7m程の磯場を潜水し、舟人はその沖の深い所を潜る。一回の潜水は平均45~50秒。約1時間の操業が続けられる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
144 | 菅島しろんご祭10-15 | 漁業組合員による合図のホラ貝が吹き鳴らされると、海女達は雄・雌一対の鮑を求めて、一斉に沖合の磯場へと泳ぎ始める。徒人は水深6~7m程の磯場を潜水し、舟人はその沖の深い所を潜る。一回の潜水は平均45~50秒。約1時間の操業が続けられる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
145 | 菅島しろんご祭10-16 | 漁業組合員による合図のホラ貝が吹き鳴らされると、海女達は雄・雌一対の鮑を求めて、一斉に沖合の磯場へと泳ぎ始める。徒人は水深6~7m程の磯場を潜水し、舟人はその沖の深い所を潜る。一回の潜水は平均45~50秒。約1時間の操業が続けられる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
146 | 菅島しろんご祭10-17 | 漁業組合員による合図のホラ貝が吹き鳴らされると、海女達は雄・雌一対の鮑を求めて、一斉に沖合の磯場へと泳ぎ始める。徒人は水深6~7m程の磯場を潜水し、舟人はその沖の深い所を潜る。一回の潜水は平均45~50秒。約1時間の操業が続けられる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
147 | 菅島しろんご祭10-18 | 漁業組合員による合図のホラ貝が吹き鳴らされると、海女達は雄・雌一対の鮑を求めて、一斉に沖合の磯場へと泳ぎ始める。徒人は水深6~7m程の磯場を潜水し、舟人はその沖の深い所を潜る。一回の潜水は平均45~50秒。約1時間の操業が続けられる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
148 | 菅島しろんご祭11-1 | 操業を終え浜に戻ってきた海女。お互いに獲った鮑や栄螺の話でもしているのだろうか。頭に被った磯手拭いには、ドーマン・セーマンの魔除けの印が描かれている。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
149 | 菅島しろんご祭11-2 | 操業を終え浜に戻ってきた海女。お互いに獲った鮑や栄螺の話でもしているのだろうか。頭に被った磯手拭いには、ドーマン・セーマンの魔除けの印が描かれている。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
150 | 菅島しろんご祭11-3 | 操業を終え浜に戻ってきた海女。タンポの横には鮑を計測する「スントリ」が付けられている。鮑は3寸5分(10.6㎝)以下のものは獲ってはいけない決まりになっている。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
151 | 菅島しろんご祭11-4 | 操業を終え浜に戻ってきた海女。右手で抱えたタンポのスカリには鮑か、栄螺が入っているようであるが、これから組合員の待つ集荷場所へと向かう。写真右の海女は、腰にもスカリを付けているようである。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
152 | 菅島しろんご祭11-5 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温める。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
153 | 菅島しろんご祭11-6 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温める。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
154 | 菅島しろんご祭11-7 | 操業を終え浜に戻ってきた海女。左手にもったスカリには鮑か、栄螺が入っているようである。海から上がった海女は組合員の待つ集荷場所へと向かう。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
155 | 菅島しろんご祭11-8 | しろんご祭に参加するため、大漁旗と国旗を立てて白浜に集まった漁船団。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
156 | 菅島しろんご祭11-9 | しろんご祭に参加するため、大漁旗と国旗を立てて白浜に集まった漁船団。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
157 | 菅島しろんご祭11-10 | 獲った漁獲物を組合に差し出し、祭事を終えると海女達は来た時と同様に磯桶やフゴに道具を入れ、おもいおもいに帰途に着く。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
158 | 菅島しろんご祭11-11 | 獲った漁獲物を組合に差し出し、祭事を終えると海女達は来た時と同様に磯桶やフゴに道具を入れ、おもいおもいに帰途に着く。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
159 | 菅島しろんご祭11-12 | 式典に先立ち、米と小豆を混ぜた饌米を白髭神社に届ける青年。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
160 | 菅島しろんご祭11-13 | 式典に先立ち、神酒を白髭神社に届ける青年。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
161 | 菅島しろんご祭11-14 | 白鬚神社に一番鮑(雌雄一対)を供える海女。かつては一番鮑を獲った海女は高々と片手を上げて名乗り出て、舟板に雄貝と雌貝をのせ濡れた磯着のまま鳥居をくぐり、白鬚明神に奉納した。これを「まねきアワビ」と称して、他のアワビをまねき、豊漁が約束されると伝えられている。現在は、青年部の女子が正装をしてお供えに行く。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
162 | 菅島しろんご祭11-15 | 一番鮑が奉納されると、氏子総代や漁協、町内会等、村の代表者達が正装をし居並ぶ中で、菅島神社の宮司による祝詞奏上、玉串奉奠が行なわれ、式典が挙行されていく。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
163 | 菅島しろんご祭11-16 | 一番鮑が奉納されると、氏子総代や漁協、町内会等、村の代表者達が正装をし居並ぶ中で、菅島神社の宮司による祝詞奏上、玉串奉奠が行なわれ、式典が挙行されていく。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
164 | 菅島しろんご祭11-17 | 一番鮑が奉納されると、氏子総代や漁協、町内会等、村の代表者達が正装をし居並ぶ中で、菅島神社の宮司による祝詞奏上、玉串奉奠が行なわれ、式典が挙行されていく。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
165 | 菅島しろんご祭11- | 一番鮑が奉納されると、氏子総代や漁協、町内会等、村の代表者達が正装をし居並ぶ中で、菅島神社の宮司による祝詞奏上、玉串奉奠が行なわれ、式典が挙行されていく。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
166 | 菅島しろんご祭12-1 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。菅島ではイソモンオコシと呼ぶカギノミを挟んだ磯桶や、タンポ等が置かれている。昭和50年代初期は全て磯桶だったと言うが、撮影時期には発砲スチロール製のタンポが6割程を占めるとの事である。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
167 | 菅島しろんご祭12-2 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
168 | 菅島しろんご祭12-3 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
169 | 菅島しろんご祭12-4 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
170 | 菅島しろんご祭12-5 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
171 | 菅島しろんご祭12-6 | 獲った漁獲物を組合に差し出し、祭事を終えると海女達は来た時と同様に磯桶やフゴに道具を入れ、おもいおもいに帰途に着く。村へと続く小道の両側には、海浜植物のクマツヅラ科のハマゴウが生い茂る。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
172 | 菅島しろんご祭12-7 | 獲った漁獲物を組合に差し出し、祭事を終えると海女達は来た時と同様に磯桶やフゴに道具を入れ、おもいおもいに帰途に着く。村へと続く小道の両側には、海浜植物のクマツヅラ科のハマゴウが生い茂る。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
173 | 菅島しろんご祭12-8 | 獲った漁獲物を組合に差し出し、祭事を終えると海女達は来た時と同様に磯桶やフゴに道具を入れ、おもいおもいに帰途に着く。海女の頭の磯手拭いには、額の部分にドーマン・セーマンの印が描かれている。村へと続く小道の両側には、海浜植物のクマツヅラ科のハマゴウが生い茂る。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
174 | 菅島しろんご祭12-9 | 獲った漁獲物を組合に差し出し、祭事を終えると海女達は来た時と同様に磯桶やフゴに道具を入れ、おもいおもいに帰途に着く。昔ながらの磯桶を使用する年配の海女達は、道具を入れた桶を頭上に乗せて運搬する。スライド枠には「63.7.11」と記される。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
175 | 菅島しろんご祭12-10 | 獲った漁獲物を組合に差し出し、祭事を終えると海女達は来た時と同様に磯桶やフゴに道具を入れ、おもいおもいに帰途に着く。昔ながらの磯桶を使用する年配の海女達は、道具を入れた桶を頭上に乗せて運搬する。スライド枠には「63.7.11」と記される。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
176 | 菅島しろんご祭12-11 | 獲った漁獲物を組合に差し出し、祭事を終えると海女達は来た時と同様に磯桶やフゴに道具を入れ、おもいおもいに帰途に着く。昔ながらの磯桶を使用する年配の海女達は、道具を入れた桶を頭上に乗せて運搬する。スライド枠には「63.7.11」と記される。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
177 | 菅島しろんご祭13-1 | 漁業組合員による合図のホラ貝が吹き鳴らされると、海女達は雄・雌一対の鮑を求めて、一斉に沖合の磯場へと泳ぎ始める。徒人は水深6~7m程の磯場を潜水し、舟人はその沖の深い所を潜る。一回の潜水は平均45~50秒。約1時間の操業が続けられる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
178 | 菅島しろんご祭13-2 | 漁業組合員による合図のホラ貝が吹き鳴らされると、海女達は雄・雌一対の鮑を求めて、一斉に沖合の磯場へと泳ぎ始める。徒人は水深6~7m程の磯場を潜水し、舟人はその沖の深い所を潜る。一回の潜水は平均45~50秒。約1時間の操業が続けられる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
179 | 菅島しろんご祭13-3 | 漁業組合員による合図のホラ貝が吹き鳴らされると、海女達は雄・雌一対の鮑を求めて、一斉に沖合の磯場へと泳ぎ始める。徒人は水深6~7m程の磯場を潜水し、舟人はその沖の深い所を潜る。一回の潜水は平均45~50秒。約1時間の操業が続けられる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
180 | 菅島しろんご祭13-4 | 漁業組合員による合図のホラ貝を待つ海女達。磯メガネの曇り止めや、用具の点検などに余念が無い。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
181 | 菅島しろんご祭13-5 | 漁業組合員による合図のホラ貝を待つ海女達。磯メガネの曇り止めや、用具の点検などに余念が無い。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
182 | 菅島しろんご祭13-6 | 漁業組合員による合図のホラ貝を待つ海女。曇り止めを施した磯メガネを顔に合わせる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
183 | 菅島しろんご祭13-7 | 漁業組合員による合図のホラ貝を待つ海女。曇り止めを施した磯メガネを顔に付け手袋をはめる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
184 | 菅島しろんご祭13-8 | 漁業組合員による合図のホラ貝を待つ海女。曇り止めを施した磯メガネを顔に付け手袋をはめる。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
185 | 菅島しろんご祭13-9 | 漁業組合員による合図のホラ貝が吹き鳴らされると、海女達は雄・雌一対の鮑を求めて、一斉に沖合の磯場へと泳ぎ始める。徒人は水深6~7m程の磯場を潜水し、舟人はその沖の深い所を潜る。一回の潜水は平均45~50秒。約1時間の操業が続けられる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
186 | 菅島しろんご祭13-10 | 漁業組合員による合図のホラ貝が吹き鳴らされると、海女達は雄・雌一対の鮑を求めて、一斉に沖合の磯場へと泳ぎ始める。徒人は水深6~7m程の磯場を潜水し、舟人はその沖の深い所を潜る。一回の潜水は平均45~50秒。約1時間の操業が続けられる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
187 | 菅島しろんご祭13-11 | 漁業組合員による合図のホラ貝が吹き鳴らされると、海女達は雄・雌一対の鮑を求めて、一斉に沖合の磯場へと泳ぎ始める。徒人は水深6~7m程の磯場を潜水し、舟人はその沖の深い所を潜る。一回の潜水は平均45~50秒。約1時間の操業が続けられる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
188 | 菅島しろんご祭13-12 | 漁業組合員による合図のホラ貝が吹き鳴らされると、海女達は雄・雌一対の鮑を求めて、一斉に沖合の磯場へと泳ぎ始める。徒人は水深6~7m程の磯場を潜水し、舟人はその沖の深い所を潜る。一回の潜水は平均45~50秒。約1時間の操業が続けられる。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
189 | 菅島しろんご祭14-1 | しろんご祭に参加するため、大漁旗と国旗を立てて白浜に集まった漁船団。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
190 | 菅島しろんご祭14-2 | しろんご祭に参加するため、大漁旗と国旗を立てて白浜に集まった漁船団。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
191 | 菅島しろんご祭14-3 | 沖合で操業する海女。海面に出た海女は、タンポに捕まりながら息を整え、次の潜水に備える。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
192 | 菅島しろんご祭14-4 | 沖合で操業する海女。海面に出た海女は、タンポに捕まりながら息を整え、次の潜水に備える。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
193 | 菅島しろんご祭14-5 | 操業を終え、浜に戻ってきた海女。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
194 | 菅島しろんご祭14-6 | 操業を終え、浜に戻ってきた海女。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
195 | 菅島しろんご祭14-7 | 操業を終え、浜に戻ってきた海女。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
196 | 菅島しろんご祭14-8 | 操業を終え、浜に戻ってきた海女。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
197 | 菅島しろんご祭14-9 | 操業を終え浜に戻ってきた海女。右手に磯メガネを持ち、左手のタンポのスカリには鮑か、栄螺が入っているようであるが、これから組合員の待つ集荷場所へと向かう。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
198 | 菅島しろんご祭14-10 | 操業を終え浜に戻ってきた海女。右手に磯メガネを持ち、左手のタンポのスカリには鮑か、栄螺が入っているようであるが、これから組合員の待つ集荷場所へと向かう。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
199 | 菅島しろんご祭14-11 | 操業を終え、浜に戻ってきた海女。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
200 | 菅島しろんご祭14-12 | 操業を終え、浜に戻ってきた海女。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
201 | 菅島しろんご祭14-13 | 操業を終え、浜に戻ってきた海女。これから組合員の待つ集荷場所へと向かう。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
202 | 菅島しろんご祭14-14 | 操業を終え、浜に戻ってきた海女。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
203 | 菅島しろんご祭14-15 | 操業を終え、浜に戻ってきた海女。これから組合員の待つ集荷場所へと向かう。スライド枠には「63.7.11」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1988.07.11 |
204 | 菅島しろんご祭1-1 | 鳥羽市菅島町に祀られる白髭明神の祭礼として、数百年もの間続けられていると言う「しろんご祭」である。かつては旧暦6月11日に実施されてきたが近年では新暦7月11日に執り行われる。白髭明神社は全国に分布し、「猿田彦」とも言われることから山神・海神的意味が強く、ここ菅島では島の守護神として祀られる。「しろんご」の語源は、白髭(しろひげ)が訛ったものだとされるが、この日は村の海女全員が神域として禁漁区にされている白髭明神下の磯に潜り、一番早く雌雄一対の鮑を採った物を神社にお供えする。そして、その鮑を採った海女は、その年の海女頭として敬われる。参考文献:在中調査メモ「菅島のシロンゴ祭」/『ふるさと菅島』。スライド枠には「しろんご 海女 火にあたる 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
205 | 菅島しろんご祭1-2 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温める。頭に被った磯テヌグイには、魔除印とされる「急々如律令」の文字と、その左右に「ドーマン・セーマン」が記されている。スライド枠には「しろんご 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
206 | 菅島しろんご祭1-3 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温める。頭に被った磯テヌグイには、魔除印とされる「急々如律令」の文字と、その左右に「ドーマン・セーマン」が記されている。スライド枠には「しろんご 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
207 | 菅島しろんご祭1-4 | 操海女用具・磯桶。近年は発泡スチロールで作った浮き輪にスカリを付けるタンポが多くなってきたと言うが、徒人やノリアイの海女が使用する昔ながらの磯桶である。磯桶には、持ち主の屋号を示す焼き印が押され、桶と海女をつなぐロープが付けられている。ロープはそれぞれの海女が潜る深さによって少しづつ長さが異なると言う。スライド枠には「海女の道具 しろんご 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
208 | 菅島しろんご祭1-5 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温める。頭に被った磯テヌグイには、魔除印とされる「急々如律令」の文字と、その左右に「ドーマン・セーマン」が記されている。スライド枠には「しろんご 海女 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
209 | 菅島しろんご祭1-6 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温める。頭に被った磯テヌグイには、魔除印とされる「急々如律令」の文字と、その左右に「ドーマン・セーマン」が記されている。スライド枠には「しろんご 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
210 | 菅島しろんご祭1-7 | しろんご祭が行われる白浜。手前のテントと秤を乗せた船外機船は海女達が獲ってきた鮑等を受け取る漁業組合の集荷所。スライド枠には「しろんご 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
211 | 菅島しろんご祭1-8 | 年配の海女達と共に、浜の式典に参加する子供達。成人して海女を生業とする女性は希で有ろうが、この年代で曲がりなりにも潜水してサザエや貝類を拾うことが出来ると言うのは、祖母や母親の仕事を見て育ってきたこの島ならではの子供達と言えよう。スライド枠には「しろんご 浜の式典 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
212 | 菅島しろんご祭1-9 | 年配の海女達と共に、浜の式典に参加する子供達。成人して海女を生業とする女性は希で有ろうが、この年代で曲がりなりにも潜水してサザエや貝類を拾うことが出来ると言うのは、祖母や母親の仕事を見て育ってきたこの島ならではの子供達と言えよう。スライド枠には「しろんご 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
213 | 菅島しろんご祭1-10 | 午前9時になると、海上安全と豊漁を祈願して菅島神社の宮司による祓いが行われる。祭事に参加する海女達は、砂浜に正座し豊漁と操業の安全を祈願する。スライド枠には「しろんご 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
214 | 菅島しろんご祭1-11 | 祭事の前の祓いが終わると、海女達は「磯入り」の合図に備えて、身支度を調え準備を始める。かつては磯着だけであったが、今はウエットスーツを着込み、その上に白の磯着を身に付ける。スライド枠には「しろんご 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
215 | 菅島しろんご祭1-12 | 祭事の前の祓いが終わると、海女達は「磯入り」の合図に備えて、身支度を調え準備を始める。ウエットスーツの上に白の磯着を身に付け、腰には鉛の重りを付けたベルトを着ける。スライド枠には「しろんご 出漁前 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
216 | 菅島しろんご祭1-13 | 波打ち際で、「磯入り」の合図を待つ海女。腰には磯桶を結わえるためのロープも巻かれている。スライド枠には「しろんご 出漁前2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
217 | 菅島しろんご祭1-14 | 波打ち際で、「磯入り」の合図を待つ海女。腰には磯桶を結わえるためのロープも巻かれている。スライド枠には「しろんご 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
218 | 菅島しろんご祭1-15 | 波打ち際で、「磯入り」の準備をする海女。腰には鉛のベルトや磯桶を結わえるためのロープが巻かれている。磯眼鏡の汚れを落とすために海水を掬おうとする海女。磯桶には、まだ付けてはいない足ヒレも見える。スライド枠には「しろんご 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
219 | 菅島しろんご祭1-16 | 波打ち際で、「磯入り」の合図を待つ海女。スライド枠には「しろんご 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
220 | 菅島しろんご祭1-17 | 波打ち際で、「磯入り」の合図を待つ海女。腰に鉛のベルトを着けている海女と付けていない海女が見られる。深い磯場に潜る海女と浅い磯場を潜る海女によっても、その身支度は異なるのかも知れない。スライド枠には「しろんご 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
221 | 菅島しろんご祭1-18 | 波打ち際で、「磯入り」の準備をする海女。磯眼鏡の曇りを蕗の葉を使って落とす。スライド枠には「しろんご 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
222 | 菅島しろんご祭1-19 | 波打ち際で、「磯入り」の合図を待つ海女。スライド枠には「しろんご 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
223 | 菅島しろんご祭2-1 | 波打ち際で、「磯入り」の合図を待つ海女。かつては徒人やノリアイの海女達は誰もが、このような木製の磯桶を使っていた。今は、ほとんどの海女達は、右手前に写るような発泡スチロール製の浮き輪にスカリを付けた「タンポ」と呼ぶ物を使っていると言う。スライド枠には「しろんご 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
224 | 菅島しろんご祭2-2 | 波打ち際で、「磯入り」の合図を待つ海女。磯眼鏡の吸い付き具合を確認する。顔にうまく合わないと、水中で眼鏡の中に海水が入り込んでくる。スライド枠には「しろんご 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
225 | 菅島しろんご祭2-3 | 波打ち際で、「磯入り」の合図を待つ海女。磯眼鏡の吸い付き具合を確認する。顔にうまく合わないと、水中で眼鏡の中に海水が入り込んでくる。頭に被った磯テヌグイには、魔除印とされる「急々如律令」の文字と、その左右に「ドーマン・セーマン」が記されている。スライド枠には「しろんご 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
226 | 菅島しろんご祭2-4 | 波打ち際で、「磯入り」の合図を待つ海女。スライド枠には「しろんご 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
227 | 菅島しろんご祭2-5 | 波打ち際で、「磯入り」の合図を待つ海女。スライド枠には「しろんご 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
228 | 菅島しろんご祭2-6 | 波打ち際で、「磯入り」の合図を待つ海女。スライド枠には「しろんご 出漁前 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
229 | 菅島しろんご祭2-7 | 波打ち際で、「磯入り」の合図を待つ海女。頭に被った磯テヌグイには、魔除印とされる「急々如律令」の文字と、その左右に「ドーマン・セーマン」が記されている。スライド枠には「しろんご 出漁前 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
230 | 菅島しろんご祭2-8 | 波打ち際で、「磯入り」の合図を待つ海女。スライド枠には「しろんご 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
231 | 菅島しろんご祭2-9 | 波打ち際で、「磯入り」の合図を待つ海女。スライド枠には「しろんご 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
232 | 菅島しろんご祭2-10 | 「磯入り」開始。しろんご祭の日以外は、止め磯(禁漁区)になっている白浜で操業する海女達。海面に浮かぶ磯桶の下では、海女達が操業を続ける。沖合の船は、祭を祝うため大漁旗を立ててパレードをする菅島の漁船団。スライド枠には「しろんご 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
233 | 菅島しろんご祭2-11 | 「磯入り」開始。しろんご祭の日以外は、止め磯(禁漁区)になっている白浜で操業する海女達。沖合の船は、祭を祝うため大漁旗を立ててパレードをする菅島の漁船団。スライド枠には「しろんご 海女潜る 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
234 | 菅島しろんご祭2-12 | 海女達が操業する間、白浜の海浜では菅島町内会祭典委員会や子供達による踊りが披露される。スライド枠はに「しろんご 踊り 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
235 | 菅島しろんご祭2-13 | 海女達が操業する間、白浜の海浜では菅島町内会祭典委員会や子供達、鳥羽市婦人会連合会等による踊りが披露される。スライド枠には「しろんご 踊り 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
236 | 菅島しろんご祭2-14 | 海女達が操業する間、白浜の海浜では菅島町内会祭典委員会や子供達、鳥羽市婦人会連合会等による踊りが披露される。スライド枠には「しろんご 婦人会の踊り 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
237 | 菅島しろんご祭2-15 | 海女達が操業する間、白浜の海浜では菅島町内会祭典委員会や子供達、鳥羽市婦人会連合会等による踊りが披露される。スライド枠には「しろんご 踊り 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
238 | 菅島しろんご祭2-16 | 海女達が操業する間、白浜の海浜では菅島町内会祭典委員会や子供達、鳥羽市婦人会連合会等による踊りが披露される。スライド枠には「しろんご 踊り 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
239 | 菅島しろんご祭2-17 | 一番鮑(雌雄一対)を供えるために白鬚神社に向かう海女。かつては一番鮑を獲った海女は高々と片手を上げて名乗り出て、舟板に雄貝と雌貝をのせ濡れた磯着のまま鳥居をくぐり、白鬚明神に奉納した。これを「まねきアワビ」と称して、他のアワビをまねき、豊漁が約束されると伝えられている。現在は、青年部の女子が正装をしてお供えに行く。スライド枠には「しろんご アワビ奉献 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
240 | 菅島しろんご祭2-18 | 「磯入り」開始。しろんご祭の日以外は、止め磯(禁漁区)になっている白浜で操業する海女達。沖合の船は、祭を祝うため大漁旗を立ててパレードをする菅島の漁船団。スライド枠には「しろんご 2010.7.13」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 2010.07.13 |
241 | 菅島しろんご祭3-1 | 「磯入り」開始。磯場に向かって泳ぎ出す海女達。スライド枠には「川口祐二氏撮」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
242 | 菅島しろんご祭3-2 | 鰒は三重県の水産研究所等による長年の研究の末、完全養殖の技術が確立された。「とる漁業」から「つくり育てる漁業」へと、海女達による自主規制と合わせて、稚貝の放流も行われる。スライド枠には「川口祐二氏撮」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
243 | 菅島しろんご祭3-3 | 鰒は三重県の水産研究所等による長年の研究の末、完全養殖の技術が確立された。「とる漁業」から「つくり育てる漁業」へと、海女達による自主規制と合わせて、稚貝の放流も行われる。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
244 | 菅島しろんご祭3-4 | 鰒は三重県の水産研究所等による長年の研究の末、完全養殖の技術が確立された。「とる漁業」から「つくり育てる漁業」へと、海女達による自主規制と合わせて、稚貝の放流も行われる。海藻はアラメ。鰒の主な餌として欠かせない。スライド枠には「川口祐二氏撮」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
245 | 菅島しろんご祭3-5 | 波打ち際で、「磯入り」の合図を待つ海女。スライド枠には「川口祐二氏撮」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
246 | 菅島しろんご祭3-6 | 祭の開始。海上安全と豊漁を祈願するため菅島神社の宮司による祓いが行われる。祭事に参加する海女達は、砂浜に正座し豊漁と操業の安全を祈願する。スライド枠には「川口祐二氏撮」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
247 | 菅島しろんご祭3-7 | 祭の開始。海上安全と豊漁を祈願するため菅島神社の宮司による祓いが行われる。祭事に参加する海女達は、砂浜に正座し豊漁と操業の安全を祈願する。スライド枠には「川口祐二氏撮」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
248 | 菅島しろんご祭3-8 | 祭事の前の祓いが終わると、海女達は「磯入り」の合図に備えて、身支度を調え準備を始める。ウエットスーツの上に白の磯着を身に付け、腰には鉛の重りを付けたベルトを着ける。頭に被った磯テヌグイには、魔除印とされる「急々如律令」の文字と、その左右に「ドーマン・セーマン」が記されている。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
249 | 菅島しろんご祭3-9 | 祭事の前の祓いが終わると、海女達は「磯入り」の合図に備えて、身支度を調え準備を始める。ウエットスーツの上に白の磯着を身に付け、腰には鉛の重りを付けたベルトを着ける。タンポにも神社のお守りが取付けられ、海女達の信仰心の強さが良く見て取れる。スライド枠には「川口祐二氏撮」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
250 | 菅島しろんご祭3-10 | 一番鮑(雌雄一対)を供えるために白鬚神社に向かう海女。かつては一番鮑を獲った海女は高々と片手を上げて名乗り出て、舟板に雄貝と雌貝をのせ濡れた磯着のまま鳥居をくぐり、白鬚明神に奉納した。これを「まねきアワビ」と称して、他のアワビをまねき、豊漁が約束されると伝えられている。現在は、青年部の女子が正装をしてお供えに行く。スライド枠には「川口祐二氏撮」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
251 | 菅島しろんご祭3-11 | 一番鮑(雌雄一対)を供えるために白鬚神社に向かう海女。かつては一番鮑を獲った海女は高々と片手を上げて名乗り出て、舟板に雄貝と雌貝をのせ濡れた磯着のまま鳥居をくぐり、白鬚明神に奉納した。これを「まねきアワビ」と称して、他のアワビをまねき、豊漁が約束されると伝えられている。現在は、青年部の女子が正装をしてお供えに行く。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
252 | 菅島しろんご祭3-12 | 雌雄一対の一番鮑だろうか。漁協職員によって計量が行われる。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
253 | 菅島しろんご祭4-1 | 「89.7.11 しろんご祭」と記された、タイトル・スライド。鳥羽市菅島町に祀られる白髭明神の祭礼として、数百年もの間続けられていると言う「しろんご祭」である。かつては旧暦6月11日に実施されてきたが近年では新暦7月11日に執り行われる。白髭明神社は全国に分布し、「猿田彦」とも言われることから山神・海神的意味が強く、ここ菅島では島の守護神として祀られる。「しろんご」の語源は、白髭(しろひげ)が訛ったものだとされるが、この日は村の海女全員が神域として禁漁区にされている白髭明神下の磯に潜り、一番早く雌雄一対の鮑を採った物を神社にお供えする。そして、その鮑を採った海女は、その年の海女頭として敬われる。参考文献:在中調査メモ「菅島のシロンゴ祭」/『ふるさと菅島』 | 鳥羽市菅島町 | |
254 | 菅島しろんご祭4-2 | 菅島漁港。しろんご祭のために白浜へ向かう漁協の船かと思われる。右端の灯台らしき3階建ての建物は昭和59年に竣工した菅島小学校である。 | 鳥羽市菅島町 | (1989.07.11) |
255 | 菅島しろんご祭4-3 | 膝上まで海に入り、「磯入り」開始の合図を待つ海女達。 | 鳥羽市菅島町 | (1989.07.11) |
256 | 菅島しろんご祭4-4 | 膝上まで海に入り、「磯入り」開始の合図を待つ海女達。 | 鳥羽市菅島町 | (1989.07.11) |
257 | 菅島しろんご祭4-5 | 海女達が暖を取っていた焚火跡。焚火の回りに置かれているフゴは海女達が道具を入れてきたもの。 | 鳥羽市菅島町 | (1989.07.11) |
258 | 菅島しろんご祭4-6 | 白浜の裾に建てられた白鬚神社の一ノ鳥居。この鳥居の左上、小高い丘の上に社殿が建てられている。「奉納 白鬚大明神」と記された幟の「えびしま」は菅島町で営業をする旅館である。 | 鳥羽市菅島町 | (1989.07.11) |
259 | 菅島しろんご祭4-7 | 白鬚神社の一ノ鳥居横に置かれた立石には、シロンゴ祭で海女が奉納したという大きな雌雄のアワビの殻が貼り付けられている。 | 鳥羽市菅島町 | (1989.07.11) |
260 | 菅島しろんご祭4-8 | 白鬚神社の二ノ鳥居。 | 鳥羽市菅島町 | (1989.07.11) |
261 | 菅島しろんご祭4-9 | 一番鮑が奉納されると、氏子総代や漁協、町内会等、村の代表者達が正装をし居並ぶ中で、菅島神社の宮司による祝詞奏上、玉串奉奠が行なわれ、式典が挙行されていく。 | 鳥羽市菅島町 | (1989.07.11) |
262 | 菅島しろんご祭4-10 | スライド枠には「菅島の運こび 90.9」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1990.09 |
263 | 菅島しろんご祭5-1 | 鳥羽市菅島町に祀られる白髭明神の祭礼として、数百年もの間続けられていると言う「しろんご祭」である。かつては旧暦6月11日に実施されてきたが近年では新暦7月11日に執り行われる。白髭明神社は全国に分布し、「猿田彦」とも言われることから山神・海神的意味が強く、ここ菅島では島の守護神として祀られる。「しろんご」の語源は、白髭(しろひげ)が訛ったものだとされるが、この日は村の海女全員が神域として禁漁区にされている白髭明神下の磯に潜り、一番早く雌雄一対の鮑を採った物を神社にお供えする。そして、その鮑を採った海女は、その年の海女頭として敬われる。参考文献:在中調査メモ「菅島のシロンゴ祭」/『ふるさと菅島』。この写真の撮影年代は不明であるが、操船に櫓が使用されていることと、全て磯桶が使用され、タンポは一つも使用されていない。昭和40年代末~昭和50年代初かと思われる№263~№265、№325~№326、№347~№360は同一時期の撮影かと思われる。 | 鳥羽市菅島町 | (1970年代) |
264 | 菅島しろんご祭5-2 | 操業を終え、磯桶を右脇に抱え浜辺に戻ってきた海女。№263~№265、№325~№326、№347~№360は同一時期の撮影かと思われる。 | 鳥羽市菅島町 | (1970年代) |
265 | 菅島しろんご祭5-3 | 操業を終え、浜辺に戻ってきた海女。№263~№265、№325~№326、№347~№360は同一時期の撮影かと思われる。 | 鳥羽市菅島町 | (1970年代) |
266 | 菅島しろんご祭5-4 | 操業を終え、浜辺に戻ってきた海女。タンポのスカリには獲ってきた鮑やサザエが入っている。この後、漁協職員の待つ集荷所へと向かう。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
267 | 菅島しろんご祭5-5 | 海女用具・磯桶。近年は発泡スチロールで作った浮き輪にスカリを付けるタンポが多くなってきたと言うが、徒人やノリアイの海女が使用する昔ながらの磯桶である。磯桶には、桶と海女をつなぐロープが付けられている。ロープはそれぞれの海女が潜る深さによって少しづつ長さが異なると言う。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
268 | 菅島しろんご祭5-6 | 海女達が操業する沖合を大漁旗を立ててパレードする菅島町の漁船団。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
269 | 菅島しろんご祭5-7 | 一番鮑(雌雄一対)を供えるために白鬚神社に向かう海女。かつては一番鮑を獲った海女は高々と片手を上げて名乗り出て、舟板に雄貝と雌貝をのせ濡れた磯着のまま鳥居をくぐり、白鬚明神に奉納した。これを「まねきアワビ」と称して、他のアワビをまねき、豊漁が約束されると伝えられている。現在は、青年部の女子が正装をしてお供えに行く。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
270 | 菅島しろんご祭5-8 | 一番鮑(雌雄一対)を白鬚神社に供える海女。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
271 | 菅島しろんご祭5-9 | 一番鮑(雌雄一対)を白鬚神社に供え終えた海女。一番鮑が奉納されると、氏子総代や漁協、町内会等、村の代表者達が正装をし居並ぶ中で、菅島神社の宮司による祝詞奏上、玉串奉奠等、式典が挙行されていく。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
272 | 菅島しろんご祭5-10 | 白鬚神社に奉納された雌雄一対の一番鮑。「まねきアワビ」とも呼ばれ、他のアワビをまねき、豊漁が約束されると伝えられている。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
273 | 菅島しろんご祭5-11 | 操業を終え、右手に磯メガネ、左脇にタンポを抱えて浜辺に戻ってきた海女。この後、漁協職員の待つ集荷所へと向かう。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
274 | 菅島しろんご祭5-12 | タンポには島の海女がイソモンオコシと呼ぶカギノミが挟み込まれている。祭事を終えた海女は道具を片付け、帰路につく。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
275 | 菅島しろんご祭5-13 | タンポには島の海女がイソモンオコシと呼ぶカギノミが挟み込まれている。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
276 | 菅島しろんご祭5-14 | タンポには島の海女がイソモンオコシと呼ぶカギノミが挟み込まれている。自分の顔に合わせた磯メガネは海女の大切な用具。使い終われば、割れないように眼鏡箱に入れ保管される。祭事を終えた海女は道具を片付け、帰路につく。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
277 | 菅島しろんご祭5-15 | 冷えた躰を焚火で温める海女。祭事を終えた海女は道具を片付け、帰路につく。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
278 | 菅島しろんご祭5-16 | 「スントリ」と呼ぶ鮑の大きさを計測する用具で、獲ってきた鮑を確認する海女。鮑は3寸5分(10.6㎝)以下のものは獲ってはいけない決まりになっている。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
279 | 菅島しろんご祭5-17 | 沖合から見た、しろんご祭が行われている白浜。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
280 | 菅島しろんご祭6-1 | 菅島の海女が獲ってきた鮑と栄螺。島の海女がイソモンオコシと呼ぶカギノミも入れられている。 | 鳥羽市菅島町 | (1990.06.08) |
281 | 菅島しろんご祭6-2 | 一番鮑(雌雄一対)を白鬚神社に供え終えた海女。一番鮑が奉納されると、氏子総代や漁協、町内会等、村の代表者達が正装をし居並ぶ中で、菅島神社の宮司による祝詞奏上、玉串奉奠等、式典が挙行されていく。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
282 | 菅島しろんご祭6-3 | 操業を終え、右手に磯メガネ、左脇にタンポを抱えて浜辺に戻ってきた海女。この後、漁協職員の待つ集荷所へと向かう。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
283 | 菅島しろんご祭6-4 | 菅島の海女が獲ってきた鮑と栄螺。島の海女がイソモンオコシと呼ぶカギノミや磯眼鏡も入れられている。スライド枠には「菅島の海女 捕獲アワビ 平成2.6.8」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1990.06.08 |
284 | 菅島しろんご祭7-1 | しろんご祭の会場に飾られた七色の紙で作られた「シダレヤナギ」と呼ばれる縁起物。七色はそれぞれ天空・太陽・月光・雨水・草木・人間・土地を表す縁起物とされ、祭が終わると漁師達はこの「シダレヤナギ」を持ち帰り、家の床の間などに飾り置くと言う。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
285 | 菅島しろんご祭7-2 | しろんご祭の会場に飾られた七色の紙で作られた「シダレヤナギ」と呼ばれる縁起物。七色はそれぞれ天空・太陽・月光・雨水・草木・人間・土地を表す縁起物とされ、祭が終わると漁師達はこの「シダレヤナギ」を持ち帰り、家の床の間などに飾り置くと言う。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
286 | 菅島しろんご祭7-3 | しろんご祭の会場に飾られた七色の紙で作られた「シダレヤナギ」と呼ばれる縁起物。「しだれやなぎ・・・天地和合の理」と記されており、七色はそれぞれ天空・太陽・月光・雨水・草木・人間・土地を表す縁起物とされ、祭が終わると漁師達はこの「シダレヤナギ」を持ち帰り、家の床の間などに飾り置くと言う。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
287 | 菅島しろんご祭7-4 | 白浜の裾に建てられた白鬚神社の一ノ鳥居。この鳥居の左上、小高い丘の上に社殿が建てられている。「奉納 白鬚大明神」と記された幟の「扇芳閣」は鳥羽樋の山で営業をする旅館である。祭の日には島外からも沢山の人々が見学に集まる。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
288 | 菅島しろんご祭7-5 | 白鬚神社へと続く石段。海女も村人も海上安全と豊漁を祈願するために参詣する。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
289 | 菅島しろんご祭7-6 | 白鬚神社へと続く石段。海女も村人も海上安全と豊漁を祈願するために参詣する。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
290 | 菅島しろんご祭7-7 | 白鬚神社へと続く石段。海女も村人も海上安全と豊漁を祈願するために参詣する。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
291 | 菅島しろんご祭7-8 | しろんご祭が行われる白浜。祭を終えたのであろう、それぞれが帰路につく。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
293 | 菅島しろんご祭7-9 | 菅島漁港。しろんご祭の行われる前日である。祭当日は全ての操業が休みになる。数人の若者達が漁港に係留された漁船の船上で談笑する。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.10」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.10 |
293 | 菅島しろんご祭7-10 | 菅島漁港の市場前である。漁から帰ってきたのか、バケツにはカツオかハマチらしき魚が入れられている。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.10」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.10 |
294 | 菅島しろんご祭7-11 | 菅島漁港。カツオらしき魚を両手にぶら下げた漁師が歩いて行く。右端には、腰掛けた老人や手押し車を押す老婆等が陽だまりで談笑する。菅島の集落はこの道路の右側に位置する谷間に沿って広がっていく。正面の白い鉄筋コンクリートの建物は旅館「えびしま」である。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.10」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.10 |
295 | 菅島しろんご祭7-12 | 海女達が暖をとるための焚火である。手前に置かれている蕗は海女達が磯眼鏡の曇り止めに利用する。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
296 | 菅島しろんご祭7-13 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
297 | 菅島しろんご祭7-14 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
298 | 菅島しろんご祭7-15 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
299 | 菅島しろんご祭7-16 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
300 | 菅島しろんご祭7-17 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
301 | 菅島しろんご祭7-18 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
302 | 菅島しろんご祭7-19 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
303 | 菅島しろんご祭7-20 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、各人それぞれ、磯メガネの曇り止めに使うツワブキをもんだり、磯手拭いを付けたり、磯タビを履いたりして磯入りの合図に供える。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
304 | 菅島しろんご祭8-1 | 白鬚神社に詣で、海上安全と豊漁を祈願する海女達。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
305 | 菅島しろんご祭8-2 | 白鬚神社に詣で、海上安全と豊漁を祈願する海女達。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
306 | 菅島しろんご祭8-3 | 雌雄一対の鮑を求めて操業する海女達。徒人は水深6~7m程の磯場で、舟人はその沖の深いところを潜ると言う。一潜の操業は約1時間程である。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
307 | 菅島しろんご祭8-4 | しろんご祭が行われる日の前日である。漁を終え帰港する漁船。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.10」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.10 |
308 | 菅島しろんご祭8-5 | 波で浸食された岩穴。菅島は正面の答志島が北風を遮り、比較的静かな海域に有るが、それでも岩に穴を開けてしまうほど海が荒れた日の風波はすさまじい。漁港が完備するまでの漁師達の苦労を推し量ることが出来る。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.10」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.10 |
309 | 菅島しろんご祭8-6 | しろんご祭前日の所狭しと係留された菅島漁港の風景。菅島は一本釣り、刺網漁、蛸壺漁、海女漁など沿岸漁業が中心であるため、漁船はさほど大きくはない。翌日はしろんご祭で、全ての出漁が禁止になる。写真正面の「貯金は漁協へ」と書かれた建物はが菅島漁協、道路を挟んで右側が菅島漁協の市場である。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.10」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.10 |
310 | 菅島しろんご祭8-7 | しろんご祭前日の所狭しと係留された菅島漁港の風景。菅島は一本釣り、刺網漁、蛸壺漁、海女漁など沿岸漁業が中心であるため、漁船はさほど大きくはない。翌日はしろんご祭で、全ての出漁が禁止になる。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.10」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.10 |
311 | 菅島しろんご祭8-8 | しろんご祭が行われる日の前日である。「合成洗剤を追放し海をきれいにしよう」と記された看板。石油類を原料とする界面活性剤を含む合成洗剤は、鮑などの魚介類にも影響を与えると、島ぐるみでの運動が展開された。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.10」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.10 |
312 | 菅島しろんご祭8-9 | しろんご祭が行われる日の前日である。「菅島青年娯楽部」と記された看板。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.10」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.10 |
313 | 菅島しろんご祭8-10 | しろんご祭が行われる日の前日である。「菅島青年娯楽部」と記された看板。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.10」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.10 |
314 | 菅島しろんご祭8-11 | しろんご祭前日の菅島市営定期船乗り場の風景。今、船が着いたものと思われる。観光客を出迎える旅館「えびしま」の従業員の姿も見える。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.10」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
315 | 菅島しろんご祭8-12 | しろんご祭前日の菅島漁港の風景。市営定期船が着いたものと思われる。買い物袋を持った夫人や観光客らしき男性達海岸沿いを歩いて行く。右上の白い5階建ての建物は旅館「えびしま」である。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.10」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.10 |
316 | 菅島しろんご祭8-13 | しろんご祭が行われる日の前日である。鳥羽佐田浜港市営定期船乗り場の風景。写真左の船舶は市営定期船、第21鳥羽丸。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.10」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市鳥羽1丁目(佐田浜) | 1993.07.10 |
317 | 菅島しろんご祭8-14 | しろんご祭が行われる日の前日である。鳥羽佐田浜港市営定期船乗り場の風景。写真左の船舶は市営定期船、第21鳥羽丸。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.10」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市鳥羽1丁目(佐田浜) | 1993.07.10 |
318 | 菅島しろんご祭8-15 | 雌雄一対の鮑を求めて操業する海女達。ここ白浜の磯場は、普段は止め磯(禁漁区)とされ、しろんご祭の日だけ操業が許される。徒人は水深6~7m程の磯場で、舟人はその沖の深いところを潜ると言う。大漁旗を立て、海女船の沖合を走る漁船は祭を盛り上げるための菅島の漁船団である。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
319 | 菅島しろんご祭8-16 | 舳先の船梁に白鬚大明神の幟を立て、操業の開始と終了を合図する漁協の役員船。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
320 | 菅島しろんご祭8-17 | 雌雄一対の鮑を求めて操業する海女達。ここ白浜の磯場は、普段は止め磯(禁漁区)とされ、しろんご祭の日だけ操業が許される。徒人は水深6~7m程の磯場で、舟人はその沖の深いところを潜ると言う。一潜の操業は約1時間程である。従来の磯桶よりも発砲スチロールの浮き輪にスカリを付けたタンポの方が多いようであるが、沖合の海女船はまだ櫓を使用している。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
321 | 菅島しろんご祭8-18 | 「磯入り」の合図が出たのか、一斉に沖の磯場へと泳ぐ海女達。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
322 | 菅島しろんご祭8-19 | 雌雄一対の鮑を求めて操業する海女達。ここ白浜の磯場は、普段は止め磯(禁漁区)とされ、しろんご祭の日だけ操業が許される。徒人は水深6~7m程の磯場で、舟人はその沖の深いところを潜ると言う。一潜の操業は約1時間程である。従来の磯桶よりも発砲スチロールの浮き輪にスカリを付けたタンポの方が多いようであるが、沖合の海女船はまだ櫓を使用している。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
323 | 菅島しろんご祭8-20 | 雌雄一対の鮑を求めて操業する海女達。ここ白浜の磯場は、普段は止め磯(禁漁区)とされ、しろんご祭の日だけ操業が許される。徒人は水深6~7m程の磯場で、舟人はその沖の深いところを潜ると言う。一潜の操業は約1時間程である。従来の磯桶よりも発砲スチロールの浮き輪にスカリを付けたタンポの方が多いようであるが、沖合の海女船はまだ櫓を使用しており、舟人海女だろうか、菅島特有の磯竿らしきものを手にしている船頭も見える。スライド枠に「川口祐二氏撮」と記され、画像には「93.7.11」の撮影日が記録されている。 | 鳥羽市菅島町 | 1993.07.11 |
324 | 菅島しろんご祭9-1 | 操業を終え、左脇に鮑や栄螺の入ったタンポを抱えて浜辺に戻ってきた海女。この後、漁協職員の待つ集荷所へと向かう。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
325 | 菅島しろんご祭9-2 | しろんご祭の操業風景である。まだ、海女船の操船に櫓が使用され、タンポは一つもなく全て磯桶が使用されているなど、昭和40年代末~昭和50年代初の撮影かと思われる。№263~№265、№326~№347~№360と同一撮影かと思われる。 | 鳥羽市菅島町 | (1970年代) |
326 | 菅島しろんご祭9-3 | 鳥羽市菅島町に祀られる白髭明神の祭礼として、数百年もの間続けられていると言う「しろんご祭」である。かつては旧暦6月11日に実施されてきたが近年では新暦7月11日に執り行われる。白髭明神社は全国に分布し、「猿田彦」とも言われることから山神・海神的意味が強く、ここ菅島では島の守護神として祀られる。「しろんご」の語源は、白髭(しろひげ)が訛ったものだとされるが、この日は村の海女全員が神域として禁漁区にされている白髭明神下の磯に潜り、一番早く雌雄一対の鮑を採った物を神社にお供えする。そして、その鮑を採った海女は、その年の海女頭として敬われる。参考文献:File.1在中の調査メモ「菅島のシロンゴ祭」/『ふるさと菅島』。№263~№265、№325~№326、№347~№360は同一時期の撮影かと思われる。スライド枠に「ノムラ氏」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | (1970年代) |
327 | 菅島しろんご祭9-4 | しろんご祭で操業する海女達。アラメやカジメが海面に顔を出しており、豊かな磯場で有ることが推測できる。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
328 | 菅島しろんご祭9-5 | しろんご祭の祭典委員から「磯入り」の合図が出て、一斉に沖の磯場へと泳ぐ海女達。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
329 | 菅島しろんご祭9-6 | しろんご祭の祭典委員から「磯入り」の合図が出て、一斉に沖の磯場へと泳ぐ海女達。スライド枠に「しろんご祭り 63」と記される。 | 鳥羽市菅島町 | (1988) |
330 | 菅島しろんご祭9-7 | 雄貝、雌貝一対の鮑を獲った海女が合図を送ると、役人船が出向いて一番鮑を受け取り、白布に包んで数人の青年代表に手渡す。青年は、それを大切に受け取り、浜で待つ白の磯着に☆印(セーマン)の磯手拭い被り正装した女子に届ける。娘は、その鮑を漁協役員の元に届け出た後、舟板に一対の鮑を乗せ、鳥居をくぐり白鬚神社の石段を登っていく。神社に着くと社殿前に設えた祭壇に鮑を供える。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
331 | 菅島しろんご祭9-8 | 暖をとる海女達。白浜に集まった海女達は、気の合った仲間同士で「カマド」を囲み、焚火にあたって躰を温め、祭典の開始を待つ。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
332 | 菅島しろんご祭9-9 | 祭が始まると、菅島神社の宮司によって海上安全と豊漁を願う祓いが行われる。祭事に参加する海女達は、砂浜に正座し豊漁と操業の安全を祈願する。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
333 | 菅島しろんご祭9-10 | 操業を終え、右脇に鮑や栄螺の入ったタンポを抱えて浜辺に戻ってきた海女。この後、漁協職員の待つ集荷所へと向かう。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
334 | 菅島しろんご祭9-11 | 祭事を終えると海女達は来た時と同様に磯桶やフゴに道具を入れ、おもいおもいに帰途に着く。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
335 | 菅島しろんご祭9-12 | 操業を終え、左脇に鮑や栄螺の入ったタンポを抱えて浜辺に戻ってきた海女。この後、漁協職員の待つ集荷所へと向かう。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
336 | 菅島しろんご祭9-13 | 菅島の海女が獲ってきた鮑と栄螺。島の海女がイソモンオコシと呼ぶカギノミも入れられている。 | 鳥羽市菅島町 | (1990.06.08) |
337 | 菅島しろんご祭9-14 | 祭事を終えると海女達は来た時と同様に磯桶やフゴに道具を入れ、おもいおもいに帰途に着く。村へと続く小道の両側には、海浜植物のクマツヅラ科のハマゴウが生い茂る。 | 鳥羽市菅島町 | (1988.07.11) |
338 | 菅島しろんご祭10-1 | 船上から見た菅島の全景(佐田浜側から菅島を見る)。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
339 | 菅島しろんご祭10-2 | 船上から見た菅島の全景(佐田浜側から菅島を見る)。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
340 | 菅島しろんご祭10-3 | 船上から見た菅島の全景(佐田浜側から菅島を見る)。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
341 | 菅島しろんご祭10-4 | 船上から見た菅島の全景(佐田浜側から菅島を見る)。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
342 | 菅島しろんご祭10-5 | 船上から見た菅島の全景(佐田浜側から菅島を見る)。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
343 | 菅島しろんご祭10-6 | 船上から見た菅島の全景(佐田浜側から菅島を見る)。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
344 | 菅島しろんご祭10-7 | 船上から見た菅島の全景(佐田浜側から菅島を見る)。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
345 | 菅島しろんご祭10-8 | 船上から見た菅島の全景(佐田浜側から菅島を見る)。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
346 | 菅島しろんご祭10-9 | 菅島漁港。写真中央左端の建物は、菅島漁協の市場である。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
347 | 菅島しろんご祭11-1 | 鳥羽市菅島町に祀られる白髭明神の祭礼として、数百年もの間続けられていると言う「しろんご祭」である。かつては旧暦6月11日に実施されてきたが近年では新暦7月11日に執り行われる。白髭明神社は全国に分布し、「猿田彦」とも言われることから山神・海神的意味が強く、ここ菅島では島の守護神として祀られる。「しろんご」の語源は、白髭(しろひげ)が訛ったものだとされるが、この日は村の海女全員が神域として禁漁区にされている白髭明神下の磯に潜り、一番早く雌雄一対の鮑を採った物を神社にお供えする。そして、その鮑を採った海女は、その年の海女頭として敬われる。参考文献:File.1在中の調査メモ「菅島のシロンゴ祭」/『ふるさと菅島』。スライド枠に「51.7.11」と記される。№263~№265、№325~№326、№347~№360は同一時期の撮影かと思われる。 | 鳥羽市菅島町 | 1976.07.11 |
348 | 菅島しろんご祭11-2 | しろんご祭の操業風景である。まだ、海女船の操船に櫓が使用され、タンポは一つもなく全て磯桶が使用されているなど、昭和40年代末~昭和50年代初の撮影かと思われる。スライド枠に「51.7.11」と記される。№263~№265、№325~№326、№347~№360は同一時期の撮影かと思われる。 | 鳥羽市菅島町 | 1976.07.11 |
349 | 菅島しろんご祭11-3 | しろんご祭の操業風景である。浜辺では菅島の町民による踊りなども披露されているようである。スライド枠に「51.7.11」と記される。№263~№265、№325~№326、№347~№360は同一時期の撮影かと思われる。 | 鳥羽市菅島町 | 1976.07.11 |
350 | 菅島しろんご祭11-4 | しろんご祭の操業風景である。まだ、海女船の操船に櫓が使用され、タンポは一つもなく全て磯桶が使用されている。スライド枠に「51.7.11」と記される。№263~№265、№325~№326、№347~№360は同一時期の撮影かと思われる。 | 鳥羽市菅島町 | 1976.07.11 |
351 | 菅島しろんご祭11-5 | しろんご祭の操業風景である。操業も終わりに近いのか、浜辺に戻る海女も見える。スライド枠に「51.7.11」と記される。№263~№265、№325~№326、№347~№360は同一時期の撮影かと思われる。 | 鳥羽市菅島町 | 1976.07.11 |
352 | 菅島しろんご祭11-6 | しろんご祭の操業風景である。操業が終わり、磯桶を右脇に抱え、浜辺に戻ってきて海女。スライド枠に「51.7.11」と記される。№263~№265、№325~№326、№347~№360は同一時期の撮影かと思われる。 | 鳥羽市菅島町 | 1976.07.11 |
353 | 菅島しろんご祭11-7 | しろんご祭の操業風景である。操業が終わり、獲ってきた鮑や栄螺を漁協の集荷所へ出す海女。スライド枠に「51.7.11」と記される。№263~№265、№325~№326、№347~№360は同一時期の撮影かと思われる。 | 鳥羽市菅島町 | 1976.07.11 |
354 | 菅島しろんご祭11-8 | しろんご祭の操業風景である。操業が終わり、獲ってきた鮑や栄螺を漁協の集荷所へ出す海女。スライド枠に「51.7.11」と記される。その鮑や栄螺を見ようと子供達も回りを取り囲む。№263~№265、№325~№326、№347~№360は同一時期の撮影かと思われる。 | 鳥羽市菅島町 | 1976.07.11 |
355 | 菅島しろんご祭11-9 | しろんご祭の操業風景である。操業が終わり、海女達が獲ってきた鮑や栄螺は漁協の集荷所に集められ計量される。スライド枠に「51.7.11」と記される。№263~№265、№325~№326、№347~№360は同一時期の撮影かと思われる。 | 鳥羽市菅島町 | 1976.07.11 |
356 | 菅島しろんご祭11-10 | しろんご祭の操業風景である。操業が終わり、海女達が獲ってきた鮑や栄螺は漁協の集荷所に集められ計量される。№263~№265、№325~№326、№347~№360は同一時期の撮影かと思われる。 | 鳥羽市菅島町 | 1976.07.11 |
357 | 菅島しろんご祭11-11 | しろんご祭の操業風景である。操業が終わり、海女達が獲ってきた鮑や栄螺は漁協の集荷所に集められ計量される。スライド枠に「51.7.11」と記される。№263~№265、№325~№326、№347~№360は同一時期の撮影かと思われる。 | 鳥羽市菅島町 | 1976.07.11 |
358 | 菅島しろんご祭11-12 | しろんご祭の操業風景である。祭が終わると海女達は、それぞれ荷物をまとめ帰路につく。写真右側の海女は腰スカリを、左側の海女の磯桶には鮑の大きさを計測するスントリが付けられている。スライド枠に「51.7.11」と記される。№263~№265、№325~№326、№347~№360は同一時期の撮影かと思われる。 | 鳥羽市菅島町 | 1976.07.11 |
359 | 菅島しろんご祭11-13 | 現在の鳥羽市鳥羽一丁目(岩崎町)、門野幾之進記念館前の十字路辺りから本町方面を撮影した岩崎道りである。通りの右側には名鉄観光の旅行案内書、旅館海月の看板が、左側には伊勢志摩土産西口商店(食堂)、石原珍海堂の看板が見える。スライド枠に「51.7.11」と記される。 | 鳥羽市鳥羽1丁目(岩崎町) | 1976.07.11 |
360 | 菅島しろんご祭11-14 | 現在の鳥羽市鳥羽一丁目(岩崎町)、門野幾之進記念館前の十字路辺りから本町方面を撮影した岩崎道りである。通りの右側には名鉄観光の旅行案内書、旅館海月の看板が、左側には伊勢志摩土産西口商店(食堂)、石原珍海堂の看板が見える。スライド枠に「51.7.11」と記される。 | 鳥羽市鳥羽1丁目(岩崎町) | 1976.07.11 |
361 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)1-1 | 海女の祭事「ゴクアゲ」は、毎年6月11日と定められ、当番宮持によって執り行われるが、その前日からはじまる「弊立て」と一対の祭事として行われる。「弊立て」は前日の10日夕方から島内に係留される全ての船舶に「榊」を立てる神事から始まり、翌11日の早朝にアレガミ、キヤ島、コイロガミの三つの島に「御弊」を立てて海上安全を祈願する一連の祭事である。また、全船に立てられた「榊」は、翌日の「弊立て」後の初出漁の時、それぞれの漁師達がアレガミ又はキヤ島を通過する祭に海に流し操業の安全を祈る。写真は船揚場に引き揚げられた漁船に「榊」を立てる当番宮持の関係者。参考文献:三重県教育委員会編・発行『平成24・25年度調査 海女習俗基礎調査報告書』平成26年。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
362 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)1-2 | 船揚場に引き揚げられた漁船に「榊」を立てる当番宮持の関係者。榊は、集落の裏手、灯明山から切り出し、竹箕(タケミ)に入れて二人一組で島内の全ての船舶に立てていく。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
363 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)1-3 | 船揚場に引き揚げられた漁船に「榊」を立てる当番宮持の関係者。榊は、集落の裏手、灯明山から切り出し、竹箕(タケミ)に入れて二人一組で島内の全ての船舶に立てていく。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
364 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)1-4 | 船揚場に引き揚げられた漁船に「榊」を立てる当番宮持の関係者。榊は、集落の裏手、灯明山から切り出し、竹箕(タケミ)に入れて二人一組で島内の全ての船舶に立てていく。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
365 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)1-5 | 竹箕(タケミ)に入れられた榊。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
366 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)1-6 | 祭事に参加する当番宮持の親戚衆。宮持は親類縁者の中から、その年、家族に不孝事がなかった者数名を選び出し、祭事に携わらせる。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
367 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)1-7 | 祭事に参加する当番宮持の親戚衆。宮持は親類縁者の中から、その年、家族に不孝事がなかった者数名を選び出し、祭事に携わらせる。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
368 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)1-8 | 米と小豆を混ぜたもの。島の人達は「アライヤネ」と呼ぶ。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
369 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)1-9 | 当番宮持。道筋を清める「シオバナ」を手にし、弊立てに向かう準備を進める。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
370 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)1-10 | アレガミ、キヤ島、コイロガミの三つの島に「御弊」を立てに行くために用いられる小船。八代神社の鉢巻きを締め、「御弊」を立てる若い衆が乗り込む。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
371 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)1-11 | 11日の早朝、宮持は自宅で清めの祓いを受けた後、八代神社の宮司と共に祭船に乗り込む。「弊立て」には宮持の妻は乗り込まない。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
372 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)1-12 | 御幣を立てに行く小舟には、榊とアライヤネと神酒が積み込まれる。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
373 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)1-13 | 11日の早朝、宮持は自宅で清めの祓いを受けた後、八代神社の宮司と共に祭船に乗り込む。「弊立て」には宮持の妻は乗り込まない。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
374 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)1-14 | 11日早朝の「弊立て」。東のアレガミに到着した御幣を立てる船。祭船に乗り込んだ宮司が祝詞を奏上し、海上安全と大漁を祈願する中、若い衆は小舟を島に接岸し、御幣を立ててアライヤネを供え神酒を注ぐ。伊勢湾口に位置する神島は、少しでも天候が崩れると、風波が激しく、島に上陸出来ない年もあると言う。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
375 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)2-1 | 11日早朝、アレガミに御幣を立てた後、西の「キヤ島」に到着した小船。祭船に乗り込んだ宮司が祝詞を奏上し、海上安全と大漁を祈願する中、若い衆は小舟を島に接岸し、御幣を立ててアライヤネを供え神酒を注ぐ。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
376 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)2-2 | 11日早朝、アレガミに御幣を立てた後、西の「キヤ島」に到着した小船。祭船に乗り込んだ宮司が祝詞を奏上し、海上安全と大漁を祈願する中、若い衆は小舟を島に接岸し、御幣を立ててアライヤネを供え神酒を注ぐ。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
377 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)2-3 | 11日早朝、アレガミに御幣を立てた後、西の「キヤ島」に到着した小船。祭船に乗り込んだ宮司が祝詞を奏上し、海上安全と大漁を祈願する中、若い衆は小舟を島に接岸し、御幣を立ててアライヤネを供え神酒を注ぐ。この年も波が打ち寄せると、島は海中へと消えるほど海上は荒れた。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
378 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)2-4 | 11日早朝、アレガミに御幣を立てた後、西の「キヤ島」に到着した小船。祭船に乗り込んだ宮司が祝詞を奏上し、海上安全と大漁を祈願する中、若い衆は小舟を島に接岸し、御幣を立ててアライヤネを供え神酒を注ぐ。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
379 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)2-5 | 神島漁港の風景。刺網と堤防から引き揚げた活かし篭に手を入れる婦人が写される。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
380 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)2-6 | 11日早朝、宮持の家の台所では親戚の女性が集まり、「御供上げ」の海女や祭事関係者に振る舞うボタモチ(オハギ)が作られる。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
381 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)2-7 | 11日早朝、宮持の家の台所では親戚の女性が集まり、「御供上げ」の海女や祭事関係者に振る舞うボタモチ(オハギ)が作られる。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
382 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)2-8 | 「弊立て」の神事が終わった後、「ゴクアゲ」の操業に向かおうとする海女達だろうか。黒のウエットスーツを身に付けた二人の海女が漁協前を行く。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
383 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)2-9 | 「弊立て」の神事が終わった後、「ゴクアゲ」の操業に向かおうとする海女だろうか。黒のウエットスーツを身に付けている。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
384 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)2-10 | 宮持、八代神社の宮司など祭事者が乗り込む祭船。舳先の船梁には日の丸・大漁旗と共に榊が立てられ、艫には「祈海上安全 祈大漁満足 伊雑皇大神宮 神島磯部組」の幟が立てられる。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
385 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)2-11 | 宮持、八代神社の宮司など祭事者が乗り込む祭船。舳先の船梁には日の丸・大漁旗と共に榊が立てられ、艫には「祈海上安全 祈大漁満足 伊雑皇大神宮 神島磯部組」の幟が立てられる。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
386 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)2-12 | 11日早朝の「弊立て」から帰った宮持の家では、「ゴクアゲ」の祭船に乗り込む海女三人の盃事が執り行われる。祭船に乗る海女はその年の宮持が選出する。選出に当たっては、夫婦健在でその家に不幸事が無かったことが第一の条件になる。また、昔は祭船に乗る海女は「ドンボリ(オオカズキ)」の中から選ばれたと言う。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
387 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)3-1 | 11日早朝の「弊立て」。東のアレガミに到着すると、祭船に乗り込んだ宮司が祝詞を奏上し、海上安全と大漁を祈願する中、若い衆は小舟を島に接岸し、御幣を立ててアライヤネを供え神酒を注ぐ。伊勢湾口に位置する神島は、少しでも天候が崩れると、風波が激しく、島に上陸出来ない年もあると言う。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
388 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)3-2 | 11日早朝の「弊立て」。東のアレガミに到着すると、祭船に乗り込んだ宮司が祝詞を奏上し、海上安全と大漁を祈願する中、若い衆は小舟を島に接岸し、御幣を立ててアライヤネを供え神酒を注ぐ。伊勢湾口に位置する神島は、少しでも天候が崩れると、風波が激しく、島に上陸出来ない年もあると言う。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
389 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)3-3 | 11日早朝の「弊立て」。東のアレガミに到着すると、祭船に乗り込んだ宮司が祝詞を奏上し、海上安全と大漁を祈願する中、若い衆は小舟を島に接岸し、御幣を立ててアライヤネを供え神酒を注ぐ。伊勢湾口に位置する神島は、少しでも天候が崩れると、風波が激しく、島に上陸出来ない年もあると言う。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
390 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)3-4 | 11日早朝の「弊立て」。東のアレガミに到着すると、祭船に乗り込んだ宮司が祝詞を奏上し、海上安全と大漁を祈願する中、若い衆は小舟を島に接岸し、御幣を立ててアライヤネを供え神酒を注ぐ。伊勢湾口に位置する神島は、少しでも天候が崩れると、風波が激しく、島に上陸出来ない年もあると言う。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
391 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)3-5 | 11日の「弊立て」。東のアレガミに立てられた御幣。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
392 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)3-6 | 11日早朝の「弊立て」。アレガミに御幣を立てた後、西の「キヤ島」に到着した小船。祭船に乗り込んだ宮司が祝詞を奏上し、海上安全と大漁を祈願する中、若い衆は小舟を島に接岸し、御幣を立ててアライヤネを供え神酒を注ぐ。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
393 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)3-7 | 11日の「弊立て」。アレガミに御幣を立てた後、西の「キヤ島」に到着した小船。祭船に乗り込んだ宮司が祝詞を奏上し、海上安全と大漁を祈願する中、若い衆は小舟を島に接岸し、御幣を立ててアライヤネを供え神酒を注ぐ。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
394 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)3-8 | 11日の「弊立て」。西の「キヤ島」に立てられた御幣。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
395 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)4-1 | アレガミ、キヤ島、コイロガミの三つの島に「御弊」を立てに行くために用いられる小船。船の中程に日の丸と大漁旗を立てる準備を急ぐ。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
396 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)4-2 | アレガミ、キヤ島、コイロガミの三つの島に「御弊」を立てに行くために用いられる小船。船の中程に日の丸と大漁旗を立てる準備を急ぐ。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
397 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)4-3 | 宮持や宮司等が乗り込む祭船。11日の早朝、宮持は自宅で清めの祓いを受けた後、八代神社の宮司と共に祭船に乗り込む。「弊立て」には宮持の妻は乗り込まない。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
398 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)4-4 | 「弊立て」の神事に使う船の準備をする宮持の親戚衆。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
399 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)4-5 | 11日早朝の「弊立て」。シオバナを手に市営定期船桟橋に係留した祭船に乗り込む宮持ち。「弊立て」には宮持の妻は乗り込まない。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
400 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)4-6 | 11日早朝の「弊立て」。祭船に乗り込んだ八代神社の宮司。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
401 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)4-7 | 11日早朝の「弊立て」。宮持や宮司等祭事関係者を乗せた祭船は、まず東のアレガミに向かう。祭船の右手には、御幣を立てるために若い衆等が乗り込んだ小舟も写る。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
402 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)4-8 | 11日早朝の「弊立て」。東のアレガミに到着した、御幣を立てるために若い衆等が乗り込んだ小舟。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
403 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)4-9 | 11日早朝の「弊立て」。東のアレガミに到着すると、祭船に乗り込んだ宮司が祝詞を奏上し、海上安全と大漁を祈願する。若い衆等が乗り込んだ小舟はアレガミに接岸し、御幣を立ててアライヤネを供え、神酒を注ぐ。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
404 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)4-10 | 11日早朝の「弊立て」。東のアレガミに到着した、御幣を立てるために若い衆等が乗り込んだ小舟。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
405 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)4-11 | 11日早朝の「弊立て」の神事を終え、帰港した所だろうか。この後、宮持ちは一度自宅に戻り、「ゴクアゲ」の準備に取りかかる。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
406 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)4-12 | 11日早朝の「弊立て」の神事を終え、帰港した所だろうか。この後、宮持ちは一度自宅に戻り、「ゴクアゲ」の準備に取りかかる。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
407 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)4-13 | 「ゴクアゲ」の操業の準備をする船頭。船上にはいそだるとスカリが用意されている。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
408 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)5-1 | 海女の祭事「御供上げ」は、毎年6月11日と定められ、当番宮持によって執り行われる。鳥羽磯部漁協神島支所の『年中祭礼行事実施要項(改訂)』には、「御供上げの祭船には当番宮持夫妻、海女三名とその“とうめ”及び船頭等が乗り込む。一同は、宮持の家で出船盃を行った後、一般の海女船が祭場に到着した時刻を見計らって出港し、祭場のコイロガミを三回廻りながら三升三合三勺の米を撒き、鮑の豊漁を祈願する。祭船は祭を終えてから一旦港に戻り、祭船の海女三名はそれぞれ通常の操業船に乗換えて漁場へ向かい、宮持夫婦はそのまま祭船に乗って再び漁場へ向かう。祭船が到着後、海女漁の操業にかかる。当日は弁天さんより東側の漁場での操業は出来ない。また、操業は二潜で終了する。操業を終えた海女は取った鮑の中から1~2個を宮持に御供として献上し、お白餅と塩を肴に御酒を頂く。祭船に乗船した海女三名は操業終了後、宮持夫妻と共に神様磯と弁天様に鮑、お白餅を供え無事息災を感謝する」と記載されている。参考文献:三重県教育委員会編・発行『平成24・25年度調査 海女習俗基礎調査報告書』平成26年。写真は、「ゴクアゲ」に出発する前に宮持の家で行われる盃事。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
409 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)5-2 | 11日早朝の「弊立て」から帰った宮持の家では、「ゴクアゲ」の祭船に乗り込む海女三人の盃事が執り行われる。祭船に乗る海女はその年の宮持が選出する。選出に当たっては、夫婦健在でその家に不幸事が無かったことが第一の条件になる。また、昔は祭船に乗る海女は「ドンボリ(オオカズキ)」の中から選ばれたと言う。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
410 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)5-3 | 神島ではドンボリと呼ぶ舟人海女が用いる滑車(クリクリ)。この滑車に命綱を掛け、海女からの合図で一気に引き上げる。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
411 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)5-4 | 神島では舟人海女の事をドンボリと呼ぶが、潜水の時に用いる重りもドンボリと呼ぶ。かつては自然石で作られたと言うが、今は鉄や鉛で作られる。舟人海女はこの重りを持って、海底まで一気に潜って行く。ドンボリの横にはタコカギと呼ばれるカギノミが置かれている。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
412 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)5-5 | ゴクアゲの祭船に乗り込む宮持の妻。宮持の妻は紺の着物に紺の頭巾をを被り、赤い腰紐を締める。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
413 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)5-6 | 神島漁港の船揚場周辺で「ゴクアゲ」の操業に向け、準備をするノリアイ海女達。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
414 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)5-7 | 神島漁港の船揚場周辺で「ゴクアゲ」の操業に向け、準備をするノリアイ海女達。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
415 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)5-8 | 「ゴクアゲ」の操業に向け、神島漁港を出港する海女。船腹には「徳恵丸 ME3-47369」の文字が見える。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
416 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-1 | 神島漁港を出港し、「ゴクアゲ」の祭場となるコイロガミに到着した祭船。祭船には宮持夫婦と三人の海女、さらに祭事に関わる宮持の親戚衆が乗り込む。舳先の船梁には「富恵丸」の大漁旗と船腹に「ME3-41200」船籍登録番号が見える。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
417 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-2 | 祭船は、祭場のコイロガミを三回廻りながら三人の海女達が三升三合三勺の米を撒き、鮑の豊漁を祈願する。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
418 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-3 | 祭船は、祭場のコイロガミを三回廻りながら三人の海女達が三升三合三勺の米を撒き、鮑の豊漁を祈願する。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
419 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-4 | 「祭船」を見守る海女船。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
420 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-5 | 祭船は、祭場のコイロガミを三回廻りながら三人の海女達が三升三合三勺の米を撒き、鮑の豊漁を祈願する。祭船の艫には「祈海上安全 祈大漁満足 伊雑皇大神宮 神島磯部組」の幟が立てられている。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
421 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-6 | 祭船は、祭場のコイロガミを三回廻りながら三人の海女達が三升三合三勺の米を撒き、鮑の豊漁を祈願する。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
422 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-7 | 祭船は、祭場のコイロガミを三回廻りながら三人の海女達が三升三合三勺の米を撒き、鮑の豊漁を祈願する。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
423 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-8 | 祭船は、祭場のコイロガミを三回廻りながら三人の海女達が三升三合三勺の米を撒き、鮑の豊漁を祈願する。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
424 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-9 | 祭船は、祭場のコイロガミを三回廻りながら三人の海女達が三升三合三勺の米を撒き、鮑の豊漁を祈願する。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
425 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-10 | 祭船は、祭場のコイロガミを三回廻りながら三人の海女達が三升三合三勺の米を撒き、鮑の豊漁を祈願する。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
426 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-11 | 祭船は、祭場のコイロガミを三回廻りながら三人の海女達が三升三合三勺の米を撒き、鮑の豊漁を祈願する。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
427 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-12 | 祭船は、祭場のコイロガミを三回廻りながら三人の海女達が三升三合三勺の米を撒き、鮑の豊漁を祈願する。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
428 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-13 | 「祭船」を見守る海女船。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
429 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-14 | 「祭船」を見守る海女船。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
430 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)7-1 | 祭船の祭事が終わると、海女漁開始の合図が出され、舟人、ノリアイ、徒人の海女達が一斉に操業を始める。この日は弁天さんより東側の漁場での操業は出来ない。また、操業は二潜で終了し、操業を終えた海女は取った鮑の中から1~2個を宮持に御供として献上し、お白餅と塩を肴に御酒を頂く。写真は船縁から下ろされた竹につかまり息を整える海女。額の磯手拭いには、魔除けとされる「ドーマン・セーマン」が描かれている。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
431 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)7-2 | 島の人達が「サカナドリ」と呼ぶ、祭船に乗った三人の海女によってお供え用のアワビ採られるが、その操業風景かと思われる。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
432 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)7-3 | 島の人達は「サカナドリ」と呼ぶ。祭船に乗った三人の海女によってお供え用のアワビ採られるが、その操業風景かと思われる。船内には水揚げされた大きなアワビが写される。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
433 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)7-4 | 島の人達は「サカナドリ」と呼ぶ。祭船に乗った三人の海女によってお供え用のアワビ採られるが、その操業風景かと思われる。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
434 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)7-5 | 島の人達が「サカナドリ」と呼ぶ、祭船に乗った三人の海女によってお供え用のアワビ採られるが、その操業風景かと思われる。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
435 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)7-6 | 島の人達が「サカナドリ」と呼ぶ、祭船に乗った三人の海女によってお供え用のアワビ採られるが、その操業風景かと思われる。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
436 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)7-7 | 海女の操業風景。海面に顔を出した海女達は、息を整え次の潜水へと備える。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
437 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)7-8 | 一潜目の1時間が終わったのか、船上に上がる海女。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
438 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)7-9 | 神島の磯場風景。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
439 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)7-10 | 一潜目が終わると、舟人海女やノリアイの海女達は漁港へと戻り、1時間程の休憩を挟んで二潜目の出漁の合図を待つ。その間に宮持に御供を出す海女達も居る。御供を出した海女は宮持から肴として出された「お白餅・塩」を掌に受け取り、神酒をいただく。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
440 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)7-11 | 一潜目が終わると、舟人海女やノリアイの海女達は漁港へと戻り、1時間程の休憩を挟んで二潜目の出漁の合図を待つ。その間に宮持に御供を出す海女達も居る。御供を出した海女は宮持から肴として出された「お白餅・塩」を掌に受け取り、神酒をいただく。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
441 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)7-12 | 一潜目が終わると、舟人海女やノリアイの海女達は漁港へと戻り、1時間程の休憩を挟んで二潜目の出漁の合図を待つ。その間に宮持に御供を出す海女達も居る。御供を出した海女は宮持から肴として出された「お白餅・塩」を掌に受け取り、神酒をいただく。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
442 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)7-13 | 一潜目が終わると、舟人海女やノリアイの海女達は漁港へと戻り、1時間程の休憩を挟んで二潜目の出漁の合図を待つ。その間に宮持に御供を出す海女達も居る。御供を出した海女は宮持から肴として出された「お白餅・塩」を掌に受け取り、神酒をいただく。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
443 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)7-14 | 一潜目が終わると、舟人海女やノリアイの海女達は漁港へと戻り、1時間程の休憩を挟んで二潜目の出漁の合図を待つ。その間に宮持に御供を出す海女達も居る。御供を出した海女は宮持から肴として出された「お白餅・塩」を掌に受け取り、神酒をいただく。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
444 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)7-15 | 一潜目が終わると、舟人海女やノリアイの海女達は漁港へと戻り、1時間程の休憩を挟んで二潜目の出漁の合図を待つ。その間に宮持に御供を出す海女達も居る。御供を出した海女は宮持から肴として出された「お白餅・塩」を掌に受け取り、神酒をいただく。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
445 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)7-16 | 一潜目が終わると、舟人海女やノリアイの海女達は漁港へと戻り、1時間程の休憩を挟んで二潜目の出漁の合図を待つ。その間に宮持に御供を出す海女達も居る。御供を出した海女は宮持から肴として出された「お白餅・塩」を掌に受け取り、神酒をいただく。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
446 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)8-1 | 「ゴクアゲ」の操業のため、神島漁港を出港する海女船。出港した海女船は島の南側コイロガミで祭船が到着するのを待つ。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
447 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)8-2 | 「ゴクアゲ」の操業のため、神島漁港を出港する海女船。出港した海女船は島の南側コイロガミで祭船が到着するのを待つ。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
448 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)8-3 | 「ゴクアゲ」の祭事行うために、神島漁港市営定期船桟橋横の堤防に係留された祭船に乗り込む宮持夫婦と三人の海女達。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
449 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)8-4 | 「ゴクアゲ」の祭事行うために、神島漁港市営定期船桟橋横の堤防に係留された祭船に乗り込む宮持夫婦と三人の海女達。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
450 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)8-5 | 「ゴクアゲ」の祭事に参加する海女三人は、黒のウエットスーツの上から紺の磯着を身に付け、頭には魔除けとされる「ドーマン・セーマン」を描いた磯手拭いを被る。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
451 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)8-6 | 「ゴクアゲ」の祭事行うために、神島漁港を出航する祭船。舳先の船梁には日の丸や「富恵丸 池田勝造」と染められた大漁旗と共に榊が立てられ、艫には「祈海上安全 祈大漁満足 伊雑皇大神宮 神島磯部組」の幟が立てられる。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
452 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)8-7 | 「ゴクアゲ」の祭事行うために、神島漁港を出航する祭船。舳先の船梁には日の丸や「富恵丸 池田勝造」と染められた大漁旗と共に榊が立てられ、艫には「祈海上安全 祈大漁満足 伊雑皇大神宮 神島磯部組」の幟が立てられる。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
453 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)8-8 | 「ゴクアゲ」の祭事行うために、島の南側にあるコイロガミへと向かう祭船。舳先の船梁には日の丸や「富恵丸 池田勝造」と染められた大漁旗と共に榊が立てられ、艫には「祈海上安全 祈大漁満足 伊雑皇大神宮 神島磯部組」の幟が立てられる。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
454 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)8-9 | 「ゴクアゲ」の祭事行うために、島の南側にあるコイロガミへと向かう祭船。舳先の船梁には日の丸や「富恵丸 池田勝造」と染められた大漁旗と共に榊が立てられ、艫には「祈海上安全 祈大漁満足 伊雑皇大神宮 神島磯部組」の幟が立てられる。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
455 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)8-10 | 祭船は、祭場のコイロガミを三回廻りながら三人の海女達が三升三合三勺の米を撒き、鮑の豊漁を祈願する。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
456 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)8-11 | 祭船は、祭場のコイロガミを三回廻りながら三人の海女達が三升三合三勺の米を撒き、鮑の豊漁を祈願する。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
457 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)8-12 | 祭船は、祭場のコイロガミを三回廻りながら三人の海女達が三升三合三勺の米を撒き、鮑の豊漁を祈願する。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
458 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)8-13 | 祭船は、祭場のコイロガミを三回廻りながら三人の海女達が三升三合三勺の米を撒き、鮑の豊漁を祈願する。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
459 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)9-1 | 「祭船」を見守る海女船。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
460 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)9-2 | 「祭船」を見守る海女船。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
461 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)9-3 | 「祭船」を見守る海女船。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
462 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)9-4 | 「祭船」を見守る海女船。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
463 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)9-5 | 神島の弁天崎からニワの浜にかけての石灰岩が露頭している海岸風景。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
464 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)9-6 | 神島の弁天崎からニワの浜にかけての石灰岩が露頭している海岸風景。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
465 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)9-7 | 島の人達が「サカナドリ」と呼ぶ、お供え用のアワビを採る磯場へと移動する祭船。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
466 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)9-8 | 島の人達が「サカナドリ」と呼ぶ、お供え用のアワビを採る磯場へと移動する祭船。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
467 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)9-9 | 操業開始の合図を待つ舟人海女。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
468 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)9-10 | 操業開始の合図が出されたのだろう。それぞれの磯場へと泳ぐ海女達。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
469 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)9-11 | 操業開始の合図が出されたのだろう。それぞれの磯場へと泳ぐ海女達。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
470 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)9-12 | 島の人達が「サカナドリ」と呼ぶ、祭船に乗った三人の海女によってお供え用のアワビ採られるが、その操業風景かと思われる。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
471 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)9-13 | 島の人達が「サカナドリ」と呼ぶ、祭船に乗った三人の海女によってお供え用のアワビ採られるが、その操業風景かと思われる。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
472 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)9-14 | 島の人達が「サカナドリ」と呼ぶ、祭船に乗った三人の海女によってお供え用のアワビ採られるが、その操業風景かと思われる。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
473 | 神島ゴクアゲ(御供上げ9-15 | 祭船の祭事を終え、海女漁開始の合図を受けて操業をする舟人海女。海底の海女から合図があると、船頭はクリクリと呼ぶ滑車に掛けた命綱を一気に引き上げる。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
474 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)9-16 | 祭船の祭事を終え、海女漁開始の合図を受けて操業をする舟人海女。海底の海女から合図があると、船頭はクリクリと呼ぶ滑車に掛けた命綱を一気に引き上げる。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
475 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)10-1 | 祭船の舳先の船梁に括り付けられた榊。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
476 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)10-2 | 神島漁港市営定期船桟橋横の堤防に係留される「ゴクアゲ」の祭船。舳先の船梁には、榊と共に大漁旗が取付けられている。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
477 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)10-3 | 神島漁港に積上げられた蛸壺。かつては写真中央左端の様な素焼きの蛸壺であったが、近年は写真中央に写されている様な旧来の蛸壺型をしたプラスチック製や落し蓋の付いた四角い蛸壺も使用されている。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
478 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)10-4 | 祭船は、祭場のコイロガミを三回廻りながら三人の海女達が三升三合三勺の米を撒き、鮑の豊漁を祈願する。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
479 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)10-5 | 島の人達が「サカナドリ」と呼ぶ、祭船に乗った三人の海女によってお供え用のアワビ採られるが、その操業風景かと思われる。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
480 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)10-6 | 神島の弁天崎からニワの浜にかけての石灰岩が露頭している海岸風景。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
481 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)10-7 | 島の南端に祀られる弁天さんへと続く山道。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
482 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)10-8 | 宮持の親戚衆によって神島漁協の市場横に長机が設えられる。二潜目を終へ漁から戻った海女達は獲ってきた鮑の中から1~2個をお供として提出し、宮持等から肴として出される「お白餅・塩」を掌に受け取り、神酒をいただく。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
483 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)10-9 | 祭船に乗船した海女。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
484 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)10-10 | 神様磯と弁天さんへの御供を済ませ、神島漁協横に祀られるコウシンさんにアワビとアライヤネと神酒を供える宮持夫妻と祭船に乗った三人の海女達。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
485 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)10-11 | 神島漁協横に祀られるコウシンさん。アワビとアライヤネが供えられ、神酒が注がれている。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
486 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)10-12 | 神島漁協横に祀られるコウシンさん。アワビとアライヤネが供えられ、神酒が注がれている。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
487 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)11-1 | 一潜目が終わると、舟人海女やノリアイの海女達は漁港へと戻り、1時間程の休憩を挟んで二潜目の出漁の合図を待つ。その間に宮持に御供を出す海女達も居る。御供を出した海女は宮持から肴として出された「お白餅・塩」を掌に受け取り、神酒をいただく。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
488 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)11-2 | 二潜目の漁を終え、漁港に戻ってきたノリアイ海女達。この後、海女達は漁協市場横の宮持のもとに御供に向かう。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
489 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)11-3 | 二潜目の漁を終え、漁港に戻ってきたノリアイ海女達。斜路の波打ち際には鮑や栄螺が入っていると思われるスカリが並べられている。この後、海女達は漁協市場横の宮持のもとに御供に向かう。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
490 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)11-4 | 二潜目の漁を終え、漁港に戻ってきたノリアイ海女達。斜路の波打ち際には鮑や栄螺が入っていると思われるスカリが並べられている。この後、海女達は漁協市場横の宮持のもとに御供に向かう。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
491 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)11-5 | 漁から戻り、アワビを御供に行く海女。後ろを歩く海女の左手には大きなアワビが3個程抱えられている。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
492 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)11-6 | 宮持の親戚衆によって神島漁協の市場横に長机が設えられる。二潜目を終へ漁から戻った海女達は獲ってきた鮑の中から1~2個をお供として提出し、宮持等から肴として出される「お白餅・塩」を掌に受け取り、神酒をいただく。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
493 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)11-7 | 弁天さん、神様磯、コウシンさんにお供えするためのアワビとアライヤネと神酒。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
494 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)11-8 | 宮持夫妻と祭船に乗った海女三人は、弁天さんと神様磯とコウシンさんに鮑を供えに向かう。まず、ジングウダイの神様磯に鮑一切とアライヤネ・御酒を供えた後、ゴリノハマ(祝ガ浜)で白石を1個~2個づつ拾って弁天様に向かう。拾ってきた白石を弁天さんの祠前に敷いた後、宮持は鮑一切とアライヤネ・御酒を供え。手を合わせて大漁と無事息災を感謝する。最期に、漁港前の荒神さんに鮑一切と残ったアライヤネ全部と御酒を供え祭事を終える。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
495 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)12-1 | 神様磯に御供を済ませた後、宮持ちと祭船に乗った三人の海女達は、祝ガ浜(古里の浜)で弁天さんへ持って行くための白石を拾う。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
496 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)12-2 | 弁天さんに到着した宮持夫妻。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
497 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)12-3 | 弁天さんの周囲に落ちている枯れ葉などの掃除をした後、持ってきた白石を祠前に敷く。赤い腰紐をした宮持ちの妻の後ろに立つ海女の手には、白石と鮑貝に入れられたアライヤネが持たれている。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
498 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)12-4 | 宮持ちは、弁天さんに鮑とアライヤネを供え、神酒を注ぎ、大漁と無事息災を感謝する。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
499 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)12-5 | 弁天さんに供えられた鮑。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
500 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)12-6 | 弁天さんに供えられた鮑。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
501 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)12-7 | 弁天さんに供えられた鮑。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
502 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)12-8 | 弁天さんに供えられた鮑。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
503 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)12-9 | 弁天さんに供えられた鮑。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
504 | 神島ゴクアゲ(御供上げ)12-10 | 神様磯と弁天さんへの御供を済ませ、神島漁協横に祀られるコウシンさんにアワビとアライヤネと神酒を供える宮持夫妻と祭船に乗った三人の海女達。スライド枠に「62.6.11」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.06.11 |
505 | 神島ゲーター祭1-1 | スキャニングされていないがタイトルスライドには「ゲーター祭 神島 1月1日」と記され、スライド枠には「3」と記される。ゲーター祭を含めた神島の正月行事は12月8日の「事納め(ヤリマショブネ)」に始まり、11日の「神渡し(祷渡し)」、13日の「正月始め(正月の準備)」、31日の「モローモ配り・輪(アワ)作り」、1月1日の「波切不動掛け軸開帳・ゲーター祭・サバ取り・日向の祭」、2日の「船祭・磯祭・チョンナ始め」、4日の「獅子舞・年祝い」、6日の「八幡祭(六日祭)」と続き、ここで一区切りとされる。この内、ゲーター祭は、12月31日夕刻の豆まき、宮持のモローモ配り、輪(アワ)とサバ作りから、元旦の日の出前に東の浜で島中の男達が直径2m程のグミの輪を青竹で突き上げるアワツキまで、大晦日から元旦までの一連の行事をさす。祭の持つ意味は、悪を払う「祓い」の行為とする説、太陽を迎える太陽信仰と言う説、海の神の女神としての象徴に男の持つ竹を突き刺し豊穣と大漁を祈る性的儀礼とする説等諸説有るが不明とされる。祭が終わった後の輪(アワ)は八代神社に運ばれ、1年間境内で保管される。参考文献:鳥羽市教育委員会編・発行『ゲーター祭調査報告書』平成10年発行。写真は洋上から見た神島の集落景観である。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
506 | 神島ゲーター祭1-2 | スライド枠には「神島 4」と記される。正月の注連縄は「門松迎え」と言って12月28日に掛け替えられる。宮持の玄関に張られる注連縄はとりわけ大きく太い。シメウチと言って12月20日に作り、床の間に供えていたものをこの日に飾り、白紙で巻いた炭・ヨメゴジと呼ばれる人形・橙・ウラジロ・シメノ札・シデが取付けられる。シメノ札には、表に「蘇民将来子孫門」と書き、その左右に小さく「七難即滅/七福即生」、と記す。また裏には、中央に「急々如立令」と書き左右に魔除けの「ドーマン/セーマン」が描かれる。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
507 | 神島ゲーター祭1-3 | スライド枠には「神島 5」と記される。宮持の床の間に置かれた「輪(アワ)」。口米の爺と宮持と輪を担ぐ若い衆が、宮持の家で出発を待つ。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
508 | 神島ゲーター祭1-4 | スライド枠には「神島 6」と記される。元旦の午前5時過ぎ、若い衆に担がれて「輪(アワ)」は宮持の家から運び出される。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
509 | 神島ゲーター祭1-5 | スライド枠には「7」と記される。若い衆達によって宮持の家から運び出された「輪(アワ)」は、八代神社下の鳥居前へと向かう。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
510 | 神島ゲーター祭1-6 | スライド枠には「8」と記される。若い衆達によって宮持の家から運び出された「輪(アワ)」は、八代神社下の鳥居前へと向かう。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
511 | 神島ゲーター祭1-7 | スライド枠には「9」と記される。5~6m程の女竹の先に剣と呼ぶ御幣を取付けたゲーロー竹。その家の男の数だけ作られ、東の浜に行く午前5時頃まで玄関口に立てかけておく。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
512 | 神島ゲーター祭1-8 | スライド枠には「10」と記される。「輪(アワ)」が宮持の家を出発する前になると、5~6m程の女竹を用いたゲーロー竹の先に剣と呼ばれる御幣を取付け、東の浜でのアワツキに供える。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
513 | 神島ゲーター祭1-9 | スライド枠には「11」と記される。午前5時頃、「輪(アワ)」が宮持の家を出発すると、各家々からもゲーロー竹を持って東の浜へと向かう。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
514 | 神島ゲーター祭2-1 | スキャニングはされていないが、シート1枚目のタイトルスライドには「神島 神島ゲーター祭」と記される。「輪(アワ)」が宮持の家を出発する前になると、5~6m程の女竹を用いたゲーロー竹の先に剣と呼ばれる御幣を取付け、東の浜でのアワツキに供える。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
515 | 神島ゲーター祭2-2 | 元旦の午前5時過ぎ、若い衆に担がれて「輪(アワ)」は宮持の家から運び出される。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
516 | 神島ゲーター祭2-3 | と記される。元旦の午前5時過ぎ、若い衆に担がれて「輪(アワ)」は宮持の家から運び出される。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
517 | 神島ゲーター祭2-4 | 若い衆達によって宮持の家から運び出された「輪(アワ)」は、八代神社下の鳥居前へと向かう。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
518 | 神島ゲーター祭2-5 | 午前5時頃、「輪(アワ)」が宮持の家を出発すると、各家々からもゲーロー竹を持って東の浜へと向かう。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
519 | 神島ゲーター祭2-6 | 若い衆達によって宮持の家から運び出された「輪(アワ)」は、八代神社下の鳥居前へと向かう。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
520 | 神島ゲーター祭3-1 | スキャニングはされていないが、シート1枚目のタイトルスライドには「神島 48.1.30」と記される。洋上から見た神島の景観。ゲーター祭を調査するため神島に向かう市営定期船からの撮影かと思われる。 | 鳥羽市神島町 | (1973.01.30) |
521 | 神島ゲーター祭3-2 | 洋上から見た神島の景観。ゲーター祭を調査するため神島に向かう市営定期船からの撮影かと思われる。操業をする漁船は蛸壺漁の様である。 | 鳥羽市神島町 | (1973.01.30) |
522 | 神島ゲーター祭3-3 | 神島に向かう市営定期船からの撮影かと思われる。操業をする漁船は蛸壺漁の様である。 | 鳥羽市神島町 | (1973.01.30) |
523 | 神島ゲーター祭3-4 | 洋上から見た神島の景観。ゲーター祭を調査するため神島に向かう市営定期船からの撮影かと思われる。 | 鳥羽市神島町 | (1973.01.30) |
524 | 神島ゲーター祭3-5 | スライド枠には「48.1.30」と記される。神島の景観。山腹に写る白い建物は、神島灯台か?。 | 鳥羽市神島町 | 1973.01.30 |
525 | 神島ゲーター祭3-6 | 洋上から見た神島の景観。ゲーター祭を調査するため神島に向かう市営定期船からの撮影かと思われる。 | 鳥羽市神島町 | (1973.01.30) |
526 | 神島ゲーター祭3-7 | 神島に向かう市営定期船からの撮影かと思われる。操業をする漁船は蛸壺漁の様である。 | 鳥羽市神島町 | (1973.01.30) |
527 | 神島ゲーター祭3-8 | 洋上から見た神島の景観。ゲーター祭を調査するため神島に向かう市営定期船からの撮影かと思われる。 | 鳥羽市神島町 | (1973.01.30) |
528 | 神島ゲーター祭3-9 | 神島に向かう市営定期船からの撮影かと思われる。操業をする漁船は蛸壺漁の様である。 | 鳥羽市神島町 | (1973.01.30) |
529 | 神島ゲーター祭3-10 | 洋上から見た神島の景観。ゲーター祭を調査するため神島に向かう市営定期船からの撮影かと思われる。操業をする漁船は蛸壺漁の様である。 | 鳥羽市神島町 | (1973.01.30) |
530 | 神島ゲーター祭3-11 | スライド枠には「48.1.30」と記される。洋上から見た神島の景観。ゲーター祭を調査するため神島に向かう市営定期船からの撮影かと思われる。 | 鳥羽市神島町 | 1973.01.30 |
531 | 神島ゲーター祭3-12 | 撮影場所不明。神島町以外の場所か? | 不明 | 不明 |
532 | 神島ゲーター祭3-13 | 撮影場所不明。神島町以外の場所か? | 不明 | 不明 |
533 | 神島ゲーター祭3-14 | 撮影場所不明。神島町以外の場所か? | 不明 | 不明 |
534 | 神島ゲーター祭3-15 | スライド枠には「48.1.30」と記される。神島の海岸景観?。 | 鳥羽市神島町 | 1973.01.30 |
535 | 神島ゲーター祭3-16 | スライド枠には「48.1.30」と記される。神島灯台付近から見た洋上景観?。 | 鳥羽市神島町 | 1973.01.30 |
536 | 神島ゲーター祭3-17 | 撮影場所不明。神島町以外の場所か? | 不明 | 不明 |
537 | 神島ゲーター祭4-1 | 南の庚申塚をお参りして戻ってきた「輪(アワ)」は、島中の男達が待つ東の浜に運び込まれゲーロー竹で空中高く突き上げられる。輪は高く上がれば上がるほど、その年は豊漁だと言われる。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
538 | 神島ゲーター祭4-2 | 南の庚申塚をお参りして戻ってきた「輪(アワ)」は、島中の男達が待つ東の浜に運び込まれゲーロー竹で空中高く突き上げられる。輪は高く上がれば上がるほど、その年は豊漁だと言われる。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
539 | 神島ゲーター祭4-3 | 南の庚申塚をお参りして戻ってきた「輪(アワ)」は、島中の男達が待つ東の浜に運び込まれゲーロー竹で空中高く突き上げられる。輪は高く上がれば上がるほど、その年は豊漁だと言われる。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
540 | 神島ゲーター祭4-4 | 南の庚申塚をお参りして戻ってきた「輪(アワ)」は、島中の男達が待つ東の浜に運び込まれゲーロー竹で空中高く突き上げられる。輪は高く上がれば上がるほど、その年は豊漁だと言われる。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
541 | 神島ゲーター祭4-5 | 島中の男達が待つ東の浜に運び込まれた「輪(アワ)」は、ゲーロー竹で空中高く突き上げられる。輪は高く上がれば上がるほど、その年は豊漁だと言われる。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
542 | 神島ゲーター祭4-6 | 「輪(アワ)」が下ろされるのと同時に、漁業組合長が群衆の中に宝物と言われる「サバ」を投げ入れる。これを取った者は福があると言われ、男たちは必死で奪い合う。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
543 | 神島ゲーター祭4-7 | 「輪(アワ)」が下ろされるのと同時に、漁業組合長が群衆の中に宝物と言われる「サバ」を投げ入れる。これを取った者は福があると言われ、男たちは必死で奪い合う。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
544 | 神島ゲーター祭4-8 | 「輪(アワ)」が下ろされるのと同時に、漁業組合長が群衆の中に宝物と言われる「サバ」を投げ入れる。これを取った者は福があると言われ、男たちは必死で奪い合う。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
545 | 神島ゲーター祭4-9 | 「輪(アワ)」が下ろされるのと同時に、漁業組合長が群衆の中に宝物と言われる「サバ」を投げ入れる。これを取った者は福があると言われ、男たちは必死で奪い合う。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
546 | 神島ゲーター祭4-10 | 「輪(アワ)」が下ろされるのと同時に、漁業組合長が群衆の中に宝物と言われる「サバ」を投げ入れる。これを取った者は福があると言われ、男たちは必死で奪い合う。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
547 | 神島ゲーター祭4-11 | スライド枠には「8-1 ゲーター祭 12」と記される。島中の男達が待つ東の浜に運び込まれた「輪(アワ)」は、ゲーロー竹で空中高く突き上げられる。輪は高く上がれば上がるほど、その年は豊漁だと言われる。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
548 | 神島ゲーター祭4-12 | 「輪(アワ)」が下ろされるのと同時に、漁業組合長が群衆の中に宝物と言われる「サバ」を投げ入れる。これを取った者は福があると言われ、男たちは必死で奪い合う。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
549 | 神島ゲーター祭4-13 | 「輪(アワ)」が下ろされるのと同時に、漁業組合長が群衆の中に宝物と言われる「サバ」を投げ入れる。これを取った者は福があると言われ、男たちは必死で奪い合う。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
550 | 神島ゲーター祭4-14 | 「輪(アワ)」が下ろされるのと同時に、漁業組合長が群衆の中に宝物と言われる「サバ」を投げ入れる。これを取った者は福があると言われ、男たちは必死で奪い合う。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
551 | 神島ゲーター祭4-15 | 「輪(アワ)」が下ろされるのと同時に、漁業組合長が群衆の中に宝物と言われる「サバ」を投げ入れる。これを取った者は福があると言われ、男たちは必死で奪い合う。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
552 | 神島ゲーター祭4-16 | スライド枠には「15」と記される。「輪(アワ)」が下ろされるのと同時に、漁業組合長が群衆の中に宝物と言われる「サバ」を投げ入れる。これを取った者は福があると言われ、男たちは必死で奪い合う。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
553 | 神島ゲーター祭4-17 | スライド枠には「14」と記される。数分間、ゲーロー竹で空中高く突き上げられた輪はやがて降ろされ、口米の若者に受け止められると、そのまま担がれて一気に八代神社へと向かう。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
554 | 神島ゲーター祭4-18 | スライド枠には「13」と記される。数分間、ゲーロー竹で空中高く突き上げられた輪はやがて降ろされ、口米の若者に受け止められると、そのまま担がれて一気に八代神社へと向かう。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
555 | 神島ゲーター祭4-19 | スライド枠には「16」と記される。「輪(アワ)」が下ろされるのと同時に、漁業組合長が群衆の中に宝物と言われる「サバ」を投げ入れる。これを取った者は福があると言われ、男たちは必死で奪い合う。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
556 | 神島ゲーター祭5-1 | スライド枠には「ゲーター祭(神島) 29」と記される。島中の男達が待つ東の浜に運び込まれた「輪(アワ)」は、ゲーロー竹で空中高く突き上げられる。輪は高く上がれば上がるほど、その年は豊漁だと言われる。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
557 | 神島ゲーター祭5-2 | 船に取付けられた注連飾り。ツボキには炊きたての白米が供えられる。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
558 | 神島ゲーター祭5-3 | 神島では大晦日の夕刻になると、その年の宮持の家と前年の宮持であった口米の家では錐火で火をおこし、その神聖な火で豆が煎られる。そして宮持は海へ行き、口米の爺は漁業組合に行って金庫に向い「福は内」と豆をまく。これが終わってはじめて一般の豆まきが許されると言う。各戸では一家の主人か長男がバチバチの木と呼ぶトベラの小枝と、ザーザーの木と呼ぶヤブニッケイを燃やしながら、杉の串に田作りを刺したアクサバシと共に豆を煎り上げる。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
559 | 神島ゲーター祭5-4 | スライド枠には「あらくさ(鰯)」と記される。煎った豆は福の豆と鬼の豆に分けて床の間に供える。豆まきは床の間とねずみ窓に向かって「福は内」と3回まき、次に玄関から外に向かって「鬼は外」と2回、最後に外から玄関に向かい「福は内」と3回まいた後、戸口を閉める。外の主人はその足で海・コウシンサン・持ち船・神社前・薬師堂と豆まきをして家に戻る。主人は戸口で「モローモ」と呼ぶと、家の者が「ドーレ」と言い、次に「福の神が参りました」と応答して家に入る。アクサバシは魔除けと称して玄関や門松などに飾られる。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
560 | 神島ゲーター祭5-5 | スライド枠には「ゲーター」と記される。宮持の床の間に置かれた「輪(アワ)」。口米の爺と宮持と輪を担ぐ若い衆等が、出発を待つ。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
561 | 神島ゲーター祭5-6 | スライド枠には「豆」と記される。八代神社下の鳥居の前で豆をまく。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
562 | 神島ゲーター祭5-7 | スライド枠には「ゲーター」と記される。「輪(アワ)」作り。グミの木を絡げて輪を作り、その上にモローモを配ったときに各家からいただいた祝儀を包んでいた半紙を巻き、更にその上から美濃紙の巻紙を巻いて仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
563 | 神島ゲーター祭5-8 | スライド枠には「ゲーター」と記される。大漁旗をなびかせる神島漁港。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
564 | 神島ゲーター祭5-9 | スライド枠には「神島ゲーター」と記される。大漁旗をなびかせる神島漁港。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
565 | 神島ゲーター祭5-10 | スライド枠には「ゲーター」と記される。モローモ配り。ミカンに昆布の切ったものを乗せ、宮持が12月の吉日に刈った茅(かや)で6筋に縛った宝物(縁起物)を子供達が島の各戸に配る。モローモは宮持と口米の爺の家で作られたもので、「モローモ、福の神が参りました」と言って回り、子供達はお礼に祝儀のおひねりをいただいて帰ってくる。忌まれの掛かった家には、玄関の門飾りのツボケの上に載せて置いてくると言う。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
566 | 神島ゲーター祭5-11 | スライド枠には「ゲーター」と記される。「輪(アワ)」作り。グミの木を絡げて輪を作る若い衆達。途中何回となくワッショイ、ワッショイのかけ声で輪を引っ張り合い、輪の形を整え木の締まりをよくする。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
567 | 神島ゲーター祭5-12 | 午前5時頃、若い衆達によって宮持の家から運び出された「輪(アワ)」は、八代神社下の鳥居前へと向かう。 | 鳥羽市神島町 | (不明) |
568 | 神島ゲーター祭(神島の景観)6-1 | スライド枠には「61.12.8 神島の女」と記される。神島の島内風景である。背負い篭を背負った女性が行き交う。 | 鳥羽市神島町 | 1986.12.08 |
569 | 神島ゲーター祭(神島の景観)6-2 | スライド枠には「61.12 アミほどき」と記される。神島漁港で刺網をさばく漁師。この時期だとエビ網かと思われる。 | 鳥羽市神島町 | 1986.12.08 |
570 | 神島ゲーター祭(神島の景観)6-3 | スライド枠には「神島 巻網船」と記される。神島漁港風景。 | 鳥羽市神島町 | (1986.12.08) |
571 | 神島ゲーター祭(神島の景観)6-4 | スライド枠には「61.12.8 神島エイのヒレ」と記される。エイのヒレの干物。 | 鳥羽市神島町 | 1986.12.08 |
572 | 神島ゲーター祭(神島の景観)6-5 | スライド枠には「61.12 神島エビス魚づくり」と記される。赤魚とかガシラとも呼ばれる磯魚。スライド枠には「61.12 神島エビス魚づくり」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1986.12.08 |
573 | 神島ゲーター祭(神島の景観)6-6 | スライド枠には「61.12 神島薬師堂」と記される。 | 鳥羽市神島町 | (1986.12.08) |
574 | 神島ゲーター祭(神島の景観)7-1 | スライド枠には「62.1.7 神島」と記される。神島市営定期船発着桟橋での風景。市営定期船が桟橋を離れたのか、手を振る婦人達の姿が見える。 | 鳥羽市神島町 | 1987.01.07 |
575 | 神島ゲーター祭(神島の景観)7-2 | スライド枠には「62.1.7 神島」と記される。市営定期船から見た神島の街並み。まだ、漁は休みなのか20艘近い巻網船が係留されている。 | 鳥羽市神島町 | 1987.01.07 |
576 | 神島ゲーター祭(神島の景観)7-3 | スライド枠には「62.1.7 神島」と記される。市営定期船から見た神島の街並み。まだ、漁は休みなのか20艘近い巻網船が係留されている。スライド枠には「62.1.7 神島」と記される。 | 鳥羽市神島町 | 1987.01.07 |
577 | 神島ゲーター祭(神島の景観)7-4 | スライド枠には「62.1.7 神島」と記される。市営定期船から見た神島の街並み。まだ、漁は休みなのか20艘近い巻網船が係留されている。 | 鳥羽市神島町 | 1987.01.07 |
578 | 神島ゲーター祭(神島の景観)7-5 | スライド枠には「62.1.7 神島宮持の玄関」と記される。正月の注連縄は「門松迎え」と言って12月28日に掛け替えられる。玄関両脇には門松が飾られる。 | 鳥羽市神島町 | 1987.01.07 |
579 | 神島ゲーター祭(神島の景観)7-6 | スライド枠には「神島宮持の玄関」と記される。正月の注連縄は「門松迎え」と言って12月28日に掛け替えられる。宮持の玄関に張られる注連縄はとりわけ大きく太い。シメウチと言って12月20日に作り、床の間に供えていたものをこの日に飾り、白紙で巻いた炭・ヨメゴジと呼ばれる人形・橙・ウラジロ・シメノ札・シデが取付けられる。シメノ札には、表に「蘇民将来子孫門」と書き、その左右に小さく「七難即滅/七福即生」、と記す。また裏には、中央に「急々如立令」と書き左右に魔除けの「ドーマン/セーマン」が描かれる。 | 鳥羽市神島町 | (1987.01.07) |
580 | 神島ゲーター祭(神島の景観)7-7 | スライド枠には「62.1.7 神島」と記される。ツボキには魔除けとされるトベラの小枝とアクサバシが飾られている。 | 鳥羽市神島町 | 1987.01.07 |
581 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)1-1 | スライドシートの一コマ目に「4時 宮持家集合1」と記される。ゲーター祭を含めた神島の正月行事は12月8日の「事納め(ヤリマショブネ)」に始まり、11日の「神渡し(祷渡し)」、13日の「正月始め(正月の準備)」、31日の「モローモ配り・輪(アワ)作り」、1月1日の「波切不動掛け軸開帳・ゲーター祭・サバ取り・日向の祭」、2日の「船祭・磯祭・チョンナ始め」、4日の「獅子舞・年祝い」、6日の「八幡祭(六日祭)」と続き、ここで一区切りとされる。この内、ゲーター祭は、12月31日夕刻の豆まき、宮持のモローモ配り、輪(アワ)とサバ作りから、元旦の日の出前に東の浜で島中の男達が直径2m程のグミの輪を青竹で突き上げるアワツキまで、大晦日から元旦までの一連の行事をさす。祭の持つ意味は、悪を払う「祓い」の行為とする説、太陽を迎える太陽信仰と言う説、海の神の女神としての象徴に男の持つ竹を突き刺し豊穣と大漁を祈る性的儀礼とする説等諸説有るが不明とされる。祭が終わった後の輪(アワ)は八代神社に運ばれ、1年間境内で保管される。参考文献:鳥羽市教育委員会編・発行『ゲーター祭調査報告書』平成10年発行。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
582 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)1-2 | 夕刻になると八代神社と染め抜いた手拭いを鉢巻きにした白装束の男衆が宮持の家に集まってくる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
583 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)1-3 | 夕刻になると八代神社と染め抜いた手拭いを鉢巻きにした白装束の男衆が宮持の家に集まってくる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
584 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)1-4 | 宮持の妻。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
585 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)1-5 | 31日の夕刻、モローモ配りの子供達・若者・サバ作りの大工・漁業組合長・宮持夫婦・口米の爺・宮司等が集合する。若者・大工は白装束で、漁業組合長は紋付羽織、宮持と去年宮持を務めた口米の爺は丸に八の字を染め抜いた青の素襖烏帽子を身に付ける。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
586 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)1-6 | 丸に八の字を染め抜いた青の素襖烏帽子を身に付けた宮持。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
587 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)1-7 | 丸に八の字を染め抜いた青の素襖烏帽子を身に付けた口米の爺。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
588 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)2-1 | 祭事は、綿津見大神、天照皇大神宮の掛け軸を掛けた宮持家の床の間の前に、宮持夫婦、口米の爺、漁業組合長、若い衆が正座をし、八代神社の宮司による祓いと祝詞奏上から始められる。祓いが終了すると次は盃事で、宮持・宮司・宮持の妻・一同の順で神酒が振る舞われる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
589 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)2-2 | 祭事は、綿津見大神、天照皇大神宮の掛け軸を掛けた宮持家の床の間の前に、宮持夫婦、口米の爺、漁業組合長、若い衆が正座をし、八代神社の宮司による祓いと祝詞奏上から始められる。祓いが終了すると次は盃事で、宮持・宮司・宮持の妻・一同の順で神酒が振る舞われる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
590 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)2-3 | 綿津見大神、天照皇大神宮の掛け軸を掛けた宮持家の床の間。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
591 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)2-4 | 綿津見大神、天照皇大神宮の掛け軸を掛けた宮持家の床の間。写真手前左端には「アワビもち」が供えられている。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
592 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)2-5 | 盃事に出された肴。カツオの刺身、茹タコ、小イカの煮付け。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
593 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)2-6 | 祓いが終了すると次は盃事で、宮持・宮司・宮持の妻・一同の順で神酒が振る舞われる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
594 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)2-7 | 祓いが終了すると次は盃事で、宮持・宮司・宮持の妻・一同の順で神酒が振る舞われる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
595 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)2-8 | 祓いが終了すると次は盃事で、宮持・宮司・宮持の妻・一同の順で神酒が振る舞われる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
596 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)2-9 | スライド枠には「集合2」と記されている。祓いが終了すると次は盃事で、宮持・宮司・宮持の妻・一同の順で神酒が振る舞われる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
597 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)2-10 | 祓いが終了すると次は盃事で、宮持・宮司・宮持の妻・一同の順で神酒が振る舞われる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
598 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)2-11 | 祓いが終了すると次は盃事で、宮持・宮司・宮持の妻・一同の順で神酒が振る舞われる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
599 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)2-12 | 祓いが終了すると次は盃事で、宮持・宮司・宮持の妻・一同の順で神酒が振る舞われる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
600 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)2-13 | 祓いが終了すると次は盃事で、宮持・宮司・宮持の妻・一同の順で神酒が振る舞われる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
601 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)2-14 | 祓いが終了すると次は盃事で、宮持・宮司・宮持の妻・一同の順で神酒が振る舞われる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
602 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)3-1 | 祭事に参加する男衆が履く藁草履。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
603 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)3-2 | 綿津見大神、天照皇大神宮の掛け軸を掛けた宮持家の床の間。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
604 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)3-3 | この座敷で「輪(アワ)」や「サバ」が作られるが、神聖な場として座敷の周囲には注連縄が張られる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
605 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)3-4 | 座敷に運び込まれた「輪(アワ)」作りの材料。グミの木の枝は12月吉日に切り出され、薬師堂裏に置かれていたものを当日365尋の縄や麻苧の束、白紙と共に宮持の家に運び込まれ、宮司のお祓いを受け盃事の後、作業が開始される。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
606 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)3-5 | 座敷に運び込まれた「輪(アワ)」作りの材料。グミの木の枝は12月吉日に切り出され、薬師堂裏に置かれていたものを当日365尋の縄や麻苧の束、白紙と共に宮持の家に運び込まれ、宮司のお祓いを受け盃事の後、作業が開始される。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
607 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)3-6 | 宮持が身に付けた烏帽子。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
608 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)3-7 | 祓いが終了すると次は盃事で、宮持・宮司・宮持の妻・一同の順で神酒が振る舞われる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
609 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)3-8 | 隠居衆か?(要調査) | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
610 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)3-9 | (要調査) | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
611 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)3-10 | (要調査) | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
612 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)3-11 | 祓いが終了し盃事が終わると、「輪(アワ)」作りと「サバ」作りが開始される。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
613 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)3-12 | 綿津見大神、天照皇大神宮の掛け軸を掛けた宮持家の床の間。この座敷で「輪(アワ)」や「サバ」が作られるが、神聖な場として座敷の周囲には注連縄が張られる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
614 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)3-13 | (要調査) | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
615 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)3-14 | (要調査) | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
616 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)3-15 | (要調査) | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
617 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)3-16 | 輪(アワ)の出発準備をする男衆。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
618 | 神島ゲーター祭(宮持家集合)3-17 | 輪(アワ)の出発準備をする男衆。宮本の長男とその子供達かと思われる。後ろの床の間の前にはできあがった輪が置かれている。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
619 | 神島ゲーター祭(アワ・浜へ出発)4-1 | スキャニングはされていないがタイトルスライドには「神島 1日5時 アワ・浜へ出発」と記される。ワカド水で作ったカンノモン(ぜんざい)を宮持と口米の爺がいただいた後、元旦の午前5時過ぎ、若い衆に担がれて輪は宮持の家を出る。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
620 | 神島ゲーター祭(アワ・浜へ出発)4-2 | 輪は宮持の家を出ると八代神社の鳥居前に向かう。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
621 | 神島ゲーター祭(アワ・浜へ出発)4-3 | 輪は宮持の家を出ると八代神社の鳥居前に向かう。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
622 | 神島ゲーター祭(アワ・浜へ出発)4-4 | 輪は宮持の家を出ると八代神社の鳥居前に向かう。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
623 | 神島ゲーター祭(アワ・浜へ出発)4-5 | スキャニングはされていないがタイトルスライドには「鳥居前のアワねり 1日5時10分頃」と記される。八代神社の鳥居前に着くと、「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声のもと宮司が来るまで何回となく練りが行われる。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
624 | 神島ゲーター祭(アワ・浜へ出発)4-6 | スライド枠には「18」と記される。八代神社の鳥居前に着くと、「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声のもと宮司が来るまで何回となく練りが行われる。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
625 | 神島ゲーター祭(アワ・浜へ出発)4-7 | 八代神社の鳥居前に着くと、「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声のもと宮司が来るまで何回となく練りが行われる。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
626 | 神島ゲーター祭(アワ・浜へ出発)4-8 | 八代神社の鳥居前に着くと、「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声のもと宮司が来るまで何回となく練りが行われる。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
627 | 神島ゲーター祭(アワ・浜へ出発)4-9 | しばらくすると宮司が現れ、その後いよいよ輪は東の浜に繰り出すが、途中スズの浜の上に有る明神跡の広場に来ると、その由緒ある場所に敬意を払ってそこで一練する。写真左から口米の爺、宮持、宮司。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
628 | 神島ゲーター祭(アワ・浜へ出発)4-10 | ゲーター祭を一目見ようと集まった島の人々。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
629 | 神島ゲーター祭(アワ・浜へ出発)4-11 | しばらくすると宮司が現れ、その後いよいよ輪は東の浜に繰り出すが、途中スズの浜の上に有る明神跡の広場に来ると、その由緒ある場所に敬意を払ってそこで一練する。写真左から口米の爺、宮持、宮司。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
630 | 神島ゲーター祭(アワ・浜へ出発)4-12 | 浜の通りに着いた輪。ここで輪は、口米(前年の宮持)の若者に引き渡される。口米の若者に渡された輪は、二手に分かれて青竹(ゲーロー竹)で叩き合う中を駆け潜り南の庚申塚にお参りに向かう。この時、男達は通る輪を「お天とう様の虫下し」等と言って青だけで叩き合う。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
631 | 神島ゲーター祭(アワ・浜へ出発)4-13 | 浜の通りに着いた輪。ここで輪は、口米(前年の宮持)の若者に引き渡される。口米の若者に渡された輪は、二手に分かれて青竹(ゲーロー竹)で叩き合う中を駆け潜り南の庚申塚にお参りに向かう。この時、男達は通る輪を「お天とう様の虫下し」等と言って青だけで叩き合う。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
632 | 神島ゲーター祭(アワ・浜へ出発)4-14 | 5~6m程の青竹にケンと呼ばれる御幣を取付けた「ゲーロー竹」を作り、「輪(アワ)」を突き上げる準備を進める。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
633 | 神島ゲーター祭(アワ・浜へ出発)4-15 | スライド枠には「19」と記される。5~6m程の青竹にケンと呼ばれる御幣を取付けた「ゲーロー竹」を作り、「輪(アワ)」を突き上げる準備を進める。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
634 | 神島ゲーター祭(アワ・浜へ出発)4-16 | 東の浜での祭事が終わり、輪とサバが八代神社に揃うと、島の人達は一斉に石段を登り初詣に向かう。初詣に訪れた人々は、拝殿に置かれたサバを打ちつけ一年の無事と大漁を祈って手を合わせていく。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
635 | 神島ゲーター祭(神島アワ作り1-1)5-1 | スキャニングされていないがタイトルスライドには「神島 アワ作り1-1」と記される。大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って直径2m程の「輪(アワ)」作りが始まる。輪を作る座敷は神聖な場所として注連縄が張られ女性は立ち入る事が出来ない。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ、途中「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声で何回となく輪を締めながら形を整え、太さ20㎝位までにする。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
636 | 神島ゲーター祭(神島アワ作り1-1)5-2 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って直径2m程の「輪(アワ)」作りが始まる。輪を作る座敷は神聖な場所として注連縄が張られ女性は立ち入る事が出来ない。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ、途中「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声で何回となく輪を締めながら形を整え、太さ20㎝位までにする。タイトルスライドには「神島 アワ作り1-1」と記される。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
637 | 神島ゲーター祭(アワ作り1-1)5-3 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って直径2m程の「輪(アワ)」作りが始まる。輪を作る座敷は神聖な場所として注連縄が張られ女性は立ち入る事が出来ない。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ、途中「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声で何回となく輪を締めながら形を整え、太さ20㎝位までにする。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
638 | 神島ゲーター祭(神島アワづくり1-1)5-4 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って直径2m程の「輪(アワ)」作りが始まる。輪を作る座敷は神聖な場所として注連縄が張られ女性は立ち入る事が出来ない。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ、途中「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声で何回となく輪を締めながら形を整え、太さ20㎝位までにする。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
639 | 神島ゲーター祭(アワ作り1-1)5-5 | 材料となるグミの木の枝は12月吉日に切り出され、薬師堂裏に置かれていたものを当日365尋の縄や麻苧の束、白紙と共に宮持の家に運び込まれ、宮司のお祓いを受け盃事の後、作業が開始される。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
640 | 神島ゲーター祭(アワ作り1-1)5-6 | 輪は今年の宮持の若い衆が作り始め、途中から口米の爺(去年の宮持)の若い衆らが景気づけに参加する。宮持の者は景気よく大きく作ろうとするし、旧宮持の者は神社に駆け上がらなければならないこともあって軽くしようとせめぎ合いがおこる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
641 | 神島ゲーター祭(神島アワ作り1-1)5-7 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。輪を作る座敷は神聖な場所として注連縄が張られ女性は立ち入る事が出来ない。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
642 | 神島ゲーター祭(神島アワ作り1-1)5-8 | スライド枠には「アワつくり」と記される。大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。輪を作る座敷は神聖な場所として注連縄が張られ女性は立ち入る事が出来ない。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
643 | 神島ゲーター祭(神島アワ作り1-1)5-9 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。輪を作る座敷は神聖な場所として注連縄が張られ女性は立ち入る事が出来ない。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
644 | 神島ゲーター祭(神島アワ作り1-1)5-10 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。輪を作る座敷は神聖な場所として注連縄が張られ女性は立ち入る事が出来ない。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
645 | 神島ゲーター祭(神島アワ作り1-1)5-11 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。輪を作る座敷は神聖な場所として注連縄が張られ女性は立ち入る事が出来ない。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
646 | 神島ゲーター祭(神島アワ作り1-1)5-12 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。輪を作る座敷は神聖な場所として注連縄が張られ女性は立ち入る事が出来ない。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
647 | 神島ゲーター祭(神島アワ作り1-1)5-13 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。輪を作る座敷は神聖な場所として注連縄が張られ女性は立ち入る事が出来ない。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
648 | 神島ゲーター祭(神島アワ作り1-1)5-14 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。輪を作る座敷は神聖な場所として注連縄が張られ女性は立ち入る事が出来ない。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
649 | 神島ゲーター祭(アワ作り1-1)5-15 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。輪を作る座敷は神聖な場所として注連縄が張られ女性は立ち入る事が出来ない。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
650 | 神島ゲーター祭(アワ作り1-1)5-16 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。輪を作る座敷は神聖な場所として注連縄が張られ女性は立ち入る事が出来ない。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ、途中「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声で何回となく輪を締めながら形を整え、太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
651 | 神島ゲーター祭(アワ作り1-1)5-17 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。輪を作る座敷は神聖な場所として注連縄が張られ女性は立ち入る事が出来ない。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
652 | 神島ゲーター祭(神島アワづくり1-1)5-18 | スライド枠には「8-2 ゲーター祭」と記される。大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。輪を作る座敷は神聖な場所として注連縄が張られ女性は立ち入る事が出来ない。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ、途中「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声で何回となく輪を締めながら形を整え、太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
653 | 神島ゲーター祭(アワ作り1-1)5-19 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。輪を作る座敷は神聖な場所として注連縄が張られ女性は立ち入る事が出来ない。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
654 | 神島ゲーター祭神島アワづくり1-2)6-1 | スキャニングされていないがタイトルスライドには「アワつくり1-2」と記される。大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。輪を作る座敷は神聖な場所として注連縄が張られ女性は立ち入る事が出来ない。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
655 | 神島ゲーター祭(神島アワつくり1-2)6-2 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。輪を作る座敷は神聖な場所として注連縄が張られ女性は立ち入る事が出来ない。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
656 | 神島ゲーター祭(神島アワつくり1-2)6-3 | 豆まき。床の間とねずみ窓に向かって「福は内」と3回まき、次に玄関から外に向かって「鬼は外」と2回、最後に外から玄関に向かい「福は内」と3回まいた後、戸口を閉める。外の主人はその足で海・コウシンサン・持ち船・神社前・薬師堂と豆まきをして家に戻る。主人は戸口で「モローモ」と呼ぶと、家の者が「ドーレ」と言い、次に「福の神が参りました」と応答して家に入る。アクサバシは魔除けと称して玄関や門松などに飾られる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
657 | 神島ゲーター祭(神島アワつくり1-2)6-4 | 豆まき。床の間とねずみ窓に向かって「福は内」と3回まき、次に玄関から外に向かって「鬼は外」と2回、最後に外から玄関に向かい「福は内」と3回まいた後、戸口を閉める。外の主人はその足で海・コウシンサン・持ち船・神社前・薬師堂と豆まきをして家に戻る。主人は戸口で「モローモ」と呼ぶと、家の者が「ドーレ」と言い、次に「福の神が参りました」と応答して家に入る。アクサバシは魔除けと称して玄関や門松などに飾られる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
658 | 神島ゲーター祭(モローモ配り)7-1 | スキャニングされていないがスライド枠には「31日7:00~ モローモ配り」と記される。モローモ配り。ミカンに昆布の切ったものを乗せ、宮持が12月の吉日に刈った茅(かや)で6筋に縛った宝物(縁起物)を子供達が島の各戸に配る。モローモは宮持(新宮持)と口米の爺(旧宮持)の両方の家で作られ、これを白木の盆にのせ「モローモ、福の神が参りました」と言って回り、子供達はお礼に祝儀のおひねりをいただいて帰ってくる。忌まれの掛かった家には、玄関の門飾りのツボケの上に載せて置いてくると言う。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
659 | 神島ゲーター祭(モローモ配り)7-2 | モローモ配り。ミカンに昆布の切ったものを乗せ、宮持が12月の吉日に刈った茅(かや)で6筋に縛った宝物(縁起物)を子供達が島の各戸に配る。モローモは宮持(新宮持)と口米の爺(旧宮持)の両方の家で作られ、これを白木の盆にのせ「モローモ、福の神が参りました」と言って回り、子供達はお礼に祝儀のおひねりをいただいて帰ってくる。忌まれの掛かった家には、玄関の門飾りのツボケの上に載せて置いてくると言う。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
660 | 神島ゲーター祭(モローモ配り)7-3 | モローモ配り。ミカンに昆布の切ったものを乗せ、宮持が12月の吉日に刈った茅(かや)で6筋に縛った宝物(縁起物)を子供達が島の各戸に配る。モローモは宮持(新宮持)と口米の爺(旧宮持)の両方の家で作られ、これを白木の盆にのせ「モローモ、福の神が参りました」と言って回り、子供達はお礼に祝儀のおひねりをいただいて帰ってくる。忌まれの掛かった家には、玄関の門飾りのツボケの上に載せて置いてくると言う。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
661 | 神島ゲーター祭(モローモ配り)7-4 | モローモ配り。ミカンに昆布の切ったものを乗せ、宮持が12月の吉日に刈った茅(かや)で6筋に縛った宝物(縁起物)を子供達が島の各戸に配る。モローモは宮持(新宮持)と口米の爺(旧宮持)の両方の家で作られ、これを白木の盆にのせ「モローモ、福の神が参りました」と言って回り、子供達はお礼に祝儀のおひねりをいただいて帰ってくる。忌まれの掛かった家には、玄関の門飾りのツボケの上に載せて置いてくると言う。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
662 | 神島ゲーター祭(モローモ配り)7-5 | 「モローモ」といって各戸の玄関に入る子供達。各家からは「どーれ」と声が掛かり、次に子どもが「福の神が参りました」と答えると、家側から「おっとめでたい」と応じる。モローモと引き換えに半紙で包んだ祝儀をいただき、半紙はまとめて宮持の「輪(アワ)」作りの会場に届けられる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
663 | 神島ゲーター祭(モローモ配り)7-67 | 「モローモ」といって各戸の玄関に入る子供達。各家からは「どーれ」と声が掛かり、次に子どもが「福の神が参りました」と答えると、家側から「おっとめでたい」と応じる。モローモと引き換えに半紙で包んだ祝儀をいただき、半紙はまとめて宮持の「輪(アワ)」作りの会場に届けられる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
664 | 神島ゲーター祭(モローモ配り)7-7 | モローモ配り。ミカンに昆布の切ったものを乗せ、宮持が12月の吉日に刈った茅(かや)で6筋に縛った宝物(縁起物)を子供達が島の各戸に配る。モローモは宮持(新宮持)と口米の爺(旧宮持)の両方の家で作られ、これを白木の盆にのせ「モローモ、福の神が参りました」と言って回り、子供達はお礼に祝儀のおひねりをいただいて帰ってくる。忌まれの掛かった家には、玄関の門飾りのツボケの上に載せて置いてくると言う。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
665 | 神島ゲーター祭(モローモ配り)7-8 | モローモ配り。ミカンに昆布の切ったものを乗せ、宮持が12月の吉日に刈った茅(かや)で6筋に縛った宝物(縁起物)を子供達が島の各戸に配る。モローモは宮持(新宮持)と口米の爺(旧宮持)の両方の家で作られ、これを白木の盆にのせ「モローモ、福の神が参りました」と言って回り、子供達はお礼に祝儀のおひねりをいただいて帰ってくる。忌まれの掛かった家には、玄関の門飾りのツボケの上に載せて置いてくると言う。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
666 | 神島ゲーター祭(サバ作り)8-1 | スキャニングされていないがタイトルスライドには「神島 サバ作り」と記される。サバとはモチの木で作った宝の事で、浜でグミの輪を突き上げるゲーター祭が終わろうとする頃、宮持から漁業組合長に手渡され群衆に投げ込まれる。これを取った者はその年幸運に恵まれるという縁起物である。サバは宮持の座敷で製作され、宮持と関係の深い大工が日の丸と八代神社の文字が染め抜かれた手拭いの鉢巻きを締め製作する。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
667 | 神島ゲーター祭(サバ作り)8-2 | スライド枠には「31日、サバ作り アワつくりと同時」と記される。サバは島の南の弁天崎から切り出したモチの木を用い、1年12ヶ月を表す12面柱に削り出す。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
668 | 神島ゲーター祭(サバ作り)8-3 | サバは島の南の弁天崎から切り出したモチの木を用い、直径6.5㎝、長さ24㎝、1年12ヶ月を表す12面柱(略式の6角柱に作る年も有る)に削り出す。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
669 | 神島ゲーター祭(サバ作り)8-4 | 12角柱に削り出されると、その一面に1ヶ月の日数分だけ切り目を入れ、全体で1年の日数分の切り目を入れる。製作は大大工1人の指導のもと若い2人の大工が当り、7時から始めて10頃までかかると言う。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
670 | 神島ゲーター祭(サバ作り)8-5 | 12角柱に削り出されると、その一面に1ヶ月の日数分だけ切り目を入れ、全体で1年の日数分の切り目を入れる。製作は大大工1人の指導のもと若い2人の大工が当り、7時から始めて10頃までかかると言う。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
671 | 神島ゲーター祭(サバ作り)8-6 | 12角柱に削り出されると、その一面に1ヶ月の日数分だけ切り目を入れ、全体で1年の日数分の切り目を入れる。製作は大大工1人の指導のもと若い2人の大工が当り、7時から始めて10頃までかかると言う。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
672 | 神島ゲーター祭(サバ作り)8-7 | サバが彫り上がると半紙を巻き、紅白の水引をかけ、漁業組合長が「上」と墨書して仕上る。仕上がったサバは、白木の盆にのせ宮持の座敷の綿津見大神の掛け軸が掛けられた床の間に輪と共に供えられる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
673 | 神島ゲーター祭(サバ作り)8-8 | サバが彫り上がると半紙を巻き、紅白の水引をかけ、漁業組合長が「上」と墨書して仕上る。仕上がったサバは、白木の盆にのせ宮持の座敷の綿津見大神の掛け軸が掛けられた床の間に輪と共に供えられる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
674 | 神島ゲーター祭(掛魚・汐酒)9-1 | スキャニングされていないがタイトルスライドには「神島 掛魚・汐酒」と記される。出来上がった輪「アワ」は頭を上にして綿津見大神の掛け軸が掛けられた床の間に置かれ、仕上がったサバは、白木の盆にのせ同様に床の間に供えられる。アワツキの準備が整うと一同に祝杯が振る舞われる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
675 | 神島ゲーター祭(掛魚・汐酒)9-2 | 出来上がった輪「アワ」は頭を上にして綿津見大神の掛け軸が掛けられた床の間に置かれ、仕上がったサバは、白木の盆にのせ同様に床の間に供えられる。アワツキの準備が整うと一同に祝杯が振る舞われる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
676 | 神島ゲーター祭(掛魚・汐酒)9-3 | 赤魚を腹合わせにして乾燥させた掛の魚。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
677 | 神島ゲーター祭(掛魚・汐酒)9-4 | (要調査) | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
678 | 神島ゲーター祭(掛魚・汐酒)9-5 | 赤魚を腹合わせにして乾燥させた掛の魚。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
679 | 神島ゲーター祭(掛魚・汐酒)9-6 | 赤魚を腹合わせにして乾燥させた掛の魚。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
680 | 神島ゲーター祭(掛魚・汐酒)9-7 | 赤魚を腹合わせにして乾燥させた掛の魚。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
681 | 神島ゲーター祭(掛魚・汐酒)9-8 | 赤魚を腹合わせにして乾燥させた掛の魚。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
682 | 神島ゲーター祭(掛魚・汐酒)9-9 | 赤魚を腹合わせにして乾燥させた掛の魚。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
683 | 神島ゲーター祭(掛魚・汐酒)9-10 | 出来上がった輪「アワ」は頭を上にして綿津見大神の掛け軸が掛けられた床の間に置かれ、仕上がったサバは、白木の盆にのせ同様に床の間に供えられる。アワツキの準備が整うと一同に祝杯が振る舞われる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
684 | 神島ゲーター祭(掛魚・汐酒)9-11 | 出来上がった輪「アワ」は頭を上にして綿津見大神の掛け軸が掛けられた床の間に置かれ、仕上がったサバは、白木の盆にのせ同様に床の間に供えられる。アワツキの準備が整うと一同に祝杯が振る舞われる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
685 | 神島ゲーター祭(薬師さんの開扉)10-1 | スキャニングされていないがタイトルスライドには「1日0時 薬師さんの開扉」と記される。「輪(アワ)」が出来上がり、除夜の鐘が鳴って年が明けると、八代神社鳥居から東に入った薬師堂で年一度の波切不動の掛け軸の開帳が有る。掛け軸は大小2本あり、海難に遭ったときこれに祈願すれば助かるという霊験あらたかな不動様で、危険と背中合わせに生活している神島の人々にとって絶大な信仰力を持っている。漁協役員等によって薬師堂に灯明がともされ、法螺貝が吹き鳴らされると、島の人々は薬師堂の前に押し寄せ、賽銭を投げ入れ一年の家内安全と無病息災を祈ってお参りをしていく。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
686 | 神島ゲーター祭(薬師さんの開扉)10-2 | 「輪(アワ)」が出来上がり、除夜の鐘が鳴って年が明けると、八代神社鳥居から東に入った薬師堂で年一度の波切不動の掛け軸の開帳が有る。掛け軸は大小2本あり、海難に遭ったときこれに祈願すれば助かるという霊験あらたかな不動様で、危険と背中合わせに生活している神島の人々にとって絶大な信仰力を持っている。漁協役員等によって薬師堂に灯明がともされ、法螺貝が吹き鳴らされると、島の人々は薬師堂の前に押し寄せ、賽銭を投げ入れ一年の家内安全と無病息災を祈ってお参りをしていく。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
687 | 神島ゲーター祭(薬師さんの開扉)10-3 | 「輪(アワ)」が出来上がり、除夜の鐘が鳴って年が明けると、八代神社鳥居から東に入った薬師堂で年一度の波切不動の掛け軸の開帳が有る。掛け軸は大小2本あり、海難に遭ったときこれに祈願すれば助かるという霊験あらたかな不動様で、危険と背中合わせに生活している神島の人々にとって絶大な信仰力を持っている。漁協役員等によって薬師堂に灯明がともされ、法螺貝が吹き鳴らされると、島の人々は薬師堂の前に押し寄せ、賽銭を投げ入れ一年の家内安全と無病息災を祈ってお参りをしていく。 | 鳥羽市神島町 | |
688 | 神島ゲーター祭(薬師さんの開扉)10-4 | 「輪(アワ)」が出来上がり、除夜の鐘が鳴って年が明けると、八代神社鳥居から東に入った薬師堂で年一度の波切不動の掛け軸の開帳が有る。掛け軸は大小2本あり、海難に遭ったときこれに祈願すれば助かるという霊験あらたかな不動様で、危険と背中合わせに生活している神島の人々にとって絶大な信仰力を持っている。漁協役員等によって薬師堂に灯明がともされ、法螺貝が吹き鳴らされると、島の人々は薬師堂の前に押し寄せ、賽銭を投げ入れ一年の家内安全と無病息災を祈ってお参りをしていく。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
689 | 神島ゲーター祭(薬師さんの開扉)10-5 | 「輪(アワ)」が出来上がり、除夜の鐘が鳴って年が明けると、八代神社鳥居から東に入った薬師堂で年一度の波切不動の掛け軸の開帳が有る。掛け軸は大小2本あり、海難に遭ったときこれに祈願すれば助かるという霊験あらたかな不動様で、危険と背中合わせに生活している神島の人々にとって絶大な信仰力を持っている。漁協役員等によって薬師堂に灯明がともされ、法螺貝が吹き鳴らされると、島の人々は薬師堂の前に押し寄せ、賽銭を投げ入れ一年の家内安全と無病息災を祈ってお参りをしていく。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
690 | 神島ゲーター祭(薬師さんの開扉)10-6 | 「輪(アワ)」が出来上がり、除夜の鐘が鳴って年が明けると、八代神社鳥居から東に入った薬師堂で年一度の波切不動の掛け軸の開帳が有る。掛け軸は大小2本あり、海難に遭ったときこれに祈願すれば助かるという霊験あらたかな不動様で、危険と背中合わせに生活している神島の人々にとって絶大な信仰力を持っている。漁協役員等によって薬師堂に灯明がともされ、法螺貝が吹き鳴らされると、島の人々は薬師堂の前に押し寄せ、賽銭を投げ入れ一年の家内安全と無病息災を祈ってお参りをしていく。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
691 | 神島ゲーター祭(薬師さんの開扉)10-7 | 「輪(アワ)」が出来上がり、除夜の鐘が鳴って年が明けると、八代神社鳥居から東に入った薬師堂で年一度の波切不動の掛け軸の開帳が有る。掛け軸は大小2本あり、海難に遭ったときこれに祈願すれば助かるという霊験あらたかな不動様で、危険と背中合わせに生活している神島の人々にとって絶大な信仰力を持っている。漁協役員等によって薬師堂に灯明がともされ、法螺貝が吹き鳴らされると、島の人々は薬師堂の前に押し寄せ、賽銭を投げ入れ一年の家内安全と無病息災を祈ってお参りをしていく。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
692 | 神島ゲーター祭(薬師さんの開扉)10-8 | 「輪(アワ)」が出来上がり、除夜の鐘が鳴って年が明けると、八代神社鳥居から東に入った薬師堂で年一度の波切不動の掛け軸の開帳が有る。掛け軸は大小2本あり、海難に遭ったときこれに祈願すれば助かるという霊験あらたかな不動様で、危険と背中合わせに生活している神島の人々にとって絶大な信仰力を持っている。漁協役員等によって薬師堂に灯明がともされ、法螺貝が吹き鳴らされると、島の人々は薬師堂の前に押し寄せ、賽銭を投げ入れ一年の家内安全と無病息災を祈ってお参りをしていく。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
693 | 神島ゲーター祭(薬師さんの開扉)10-9 | 「輪(アワ)」が出来上がり、除夜の鐘が鳴って年が明けると、八代神社鳥居から東に入った薬師堂で年一度の波切不動の掛け軸の開帳が有る。掛け軸は大小2本あり、海難に遭ったときこれに祈願すれば助かるという霊験あらたかな不動様で、危険と背中合わせに生活している神島の人々にとって絶大な信仰力を持っている。漁協役員等によって薬師堂に灯明がともされ、法螺貝が吹き鳴らされると、島の人々は薬師堂の前に押し寄せ、賽銭を投げ入れ一年の家内安全と無病息災を祈ってお参りをしていく。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
694 | 神島ゲーター祭(薬師さんの開扉)10-10 | 薬師さんに向かって手を合わせ、一年の家内安全と無病息災を一心に祈る島の人達。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
695 | 神島ゲーター祭(薬師さんの開扉)10-11 | 薬師さんに向かって手を合わせ、一年の家内安全と無病息災を一心に祈る島の人達。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
696 | 神島ゲーター祭(薬師さんの開扉)10-12 | 「輪(アワ)」が出来上がり、除夜の鐘が鳴って年が明けると、八代神社鳥居から東に入った薬師堂で年一度の波切不動の掛け軸の開帳が有る。掛け軸は大小2本あり、海難に遭ったときこれに祈願すれば助かるという霊験あらたかな不動様で、危険と背中合わせに生活している神島の人々にとって絶大な信仰力を持っている。漁協役員等によって薬師堂に灯明がともされ、法螺貝が吹き鳴らされると、島の人々は薬師堂の前に押し寄せ、賽銭を投げ入れ一年の家内安全と無病息災を祈ってお参りをしていく。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
697 | 神島ゲーター祭(アワ作り2)11-1 | スキャニングされていないがタイトルスライドには「神島 アワ作り2」、スライド枠には「頭しばり」と記される。大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ、途中「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声で何回となく輪を締めながら形を整え、その上にモローモを配ったときに各家からいただいた祝儀を包んでいた半紙を巻き、更にその上から美濃紙の巻紙を巻いて太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
698 | 神島ゲーター祭(アワ作り2)11-2 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ、途中「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声で何回となく輪を締めながら形を整え、その上にモローモを配ったときに各家からいただいた祝儀を包んでいた半紙を巻き、更にその上から美濃紙の巻紙を巻いて太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
699 | 神島ゲーター祭(アワ作り2)11-3 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ、途中「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声で何回となく輪を締めながら形を整え、その上にモローモを配ったときに各家からいただいた祝儀を包んでいた半紙を巻き、更にその上から美濃紙の巻紙を巻いて太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。タイトルスライドには「神島 アワ作り2」と記される。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
700 | 神島ゲーター祭(アワ作り2)11-4 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ、途中「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声で何回となく輪を締めながら形を整え、その上にモローモを配ったときに各家からいただいた祝儀を包んでいた半紙を巻き、更にその上から美濃紙の巻紙を巻いて太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
701 | 神島ゲーター祭(アワ作り2)11-5 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ、途中「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声で何回となく輪を締めながら形を整え、その上にモローモを配ったときに各家からいただいた祝儀を包んでいた半紙を巻き、更にその上から美濃紙の巻紙を巻いて太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
702 | 神島ゲーター祭(アワ作り2)11-6 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ、途中「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声で何回となく輪を締めながら形を整え、その上にモローモを配ったときに各家からいただいた祝儀を包んでいた半紙を巻き、更にその上から美濃紙の巻紙を巻いて太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
703 | 神島ゲーター祭(アワ作り2)11-7 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ、途中「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声で何回となく輪を締めながら形を整え、その上にモローモを配ったときに各家からいただいた祝儀を包んでいた半紙を巻き、更にその上から美濃紙の巻紙を巻いて太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
704 | 神島ゲーター祭(アワ作り2)11-8 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ、途中「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声で何回となく輪を締めながら形を整え、その上にモローモを配ったときに各家からいただいた祝儀を包んでいた半紙を巻き、更にその上から美濃紙の巻紙を巻いて太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
705 | 神島ゲーター祭(アワ作り2)11-9 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ、途中「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声で何回となく輪を締めながら形を整え、その上にモローモを配ったときに各家からいただいた祝儀を包んでいた半紙を巻き、更にその上から美濃紙の巻紙を巻いて太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
706 | 神島ゲーター祭(アワ作り2)11-10 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ、途中「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声で何回となく輪を締めながら形を整え、その上にモローモを配ったときに各家からいただいた祝儀を包んでいた半紙を巻き、更にその上から美濃紙の巻紙を巻いて太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
707 | 神島ゲーター祭(アワ作り2)11-11 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ、途中「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声で何回となく輪を締めながら形を整え、その上にモローモを配ったときに各家からいただいた祝儀を包んでいた半紙を巻き、更にその上から美濃紙の巻紙を巻いて太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
708 | 神島ゲーター祭(アワ作り2)11-12 | 大晦日の午後7時頃、宮持家の座敷ではグミの木を使って「輪(アワ)」作りが始まる。グミの木の自然のカーブを利用しながら適当な長さに切って藁縄でからげ、途中「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声で何回となく輪を締めながら形を整え、その上にモローモを配ったときに各家からいただいた祝儀を包んでいた半紙を巻き、更にその上から美濃紙の巻紙を巻いて太さ約20㎝、直径2m程に仕上げられていく。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
709 | 神島ゲーター祭(神島アワツキ)12-1 | スキャニングされていないがタイトルスライドには「神島 アワツキ」と記される。南の庚申塚をお参りして戻ってきた「輪(アワ)」は、島中の男達が待つ東の浜に運び込まれゲーロー竹で空中高く突き上げられる。輪は高く上がれば上がるほど、その年は豊漁だと言われる。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
710 | 神島ゲーター祭(神島アワツキ)12-2 | 南の庚申塚をお参りして戻ってきた「輪(アワ)」は、島中の男達が待つ東の浜に運び込まれゲーロー竹で空中高く突き上げられる。輪は高く上がれば上がるほど、その年は豊漁だと言われる。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
711 | 神島ゲーター祭(神島アワツキ)12-3 | 南の庚申塚をお参りして戻ってきた「輪(アワ)」は、島中の男達が待つ東の浜に運び込まれゲーロー竹で空中高く突き上げられる。輪は高く上がれば上がるほど、その年は豊漁だと言われる。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
712 | 神島ゲーター祭(神島アワツキ)12-4 | 南の庚申塚をお参りして戻ってきた「輪(アワ)」は、島中の男達が待つ東の浜に運び込まれゲーロー竹で空中高く突き上げられる。輪は高く上がれば上がるほど、その年は豊漁だと言われる。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
713 | 神島ゲーター祭(神島アワツキ)12-5 | 南の庚申塚をお参りして戻ってきた「輪(アワ)」は、島中の男達が待つ東の浜に運び込まれゲーロー竹で空中高く突き上げられる。輪は高く上がれば上がるほど、その年は豊漁だと言われる。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
714 | 神島ゲーター祭(神島アワツキ)12-6 | 南の庚申塚をお参りして戻ってきた「輪(アワ)」は、島中の男達が待つ東の浜に運び込まれゲーロー竹で空中高く突き上げられる。輪は高く上がれば上がるほど、その年は豊漁だと言われる。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
715 | 神島ゲーター祭(神島アワツキ)12-7 | 南の庚申塚をお参りして戻ってきた「輪(アワ)」は、島中の男達が待つ東の浜に運び込まれゲーロー竹で空中高く突き上げられる。輪は高く上がれば上がるほど、その年は豊漁だと言われる。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
716 | 神島ゲーター祭(神島アワツキ)12-8 | 南の庚申塚をお参りして戻ってきた「輪(アワ)」は、島中の男達が待つ東の浜に運び込まれゲーロー竹で空中高く突き上げられる。輪は高く上がれば上がるほど、その年は豊漁だと言われる。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
717 | 神島ゲーター祭(神島アワツキ)12-9 | アワツキから降ろされた「輪(アワ)」は口米の爺に渡された後、直ぐさま八代神社に運ばれ「頭」を上に安置される。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
718 | 神島ゲーター祭(神島アワツキ)12-10 | アワツキから降ろされた「輪(アワ)」は口米の爺に渡された後、直ぐさま八代神社に運ばれ「頭」を上に安置される。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01.01) |
719 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)13-1 | スキャニングされていないがタイトルスライドには「神島 舟玉しんぜ」と記される。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
720 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)13-2 | スキャニングされていないがタイトルスライドには「神島 舟玉しんぜ」と記される。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
721 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)13-3 | スキャニングされていないがタイトルスライドには「神島 舟玉しんぜ」と記される。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
722 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)13-4 | スキャニングされていないがタイトルスライドには「神島 舟玉しんぜ」と記される。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
723 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)13-5 | スキャニングされていないがタイトルスライドには「神島 舟玉しんぜ」と記される。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
724 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)13-6 | スキャニングされていないがタイトルスライドには「神島 舟玉しんぜ」と記される。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
725 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)13-7 | スキャニングされていないがタイトルスライドには「神島 舟玉しんぜ」と記される。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
726 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)13-8 | スキャニングされていないがタイトルスライドには「神島 舟玉しんぜ」と記される。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
727 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)13-9 | 手に持っているのはトベラの小枝、木桶には田作りを刺したアクサバシが写されている。タイトルスライドには「舟玉しんぜ」と記される。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
728 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)13-10 | スキャニングされていないがタイトルスライドには「神島 舟玉しんぜ」と記される。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
729 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)14-1 | 玄関前に飾られた松とシデとツボキ。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
730 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)14-2 | 玄関前に飾られた松・トベラ・シデ・ツボキ・モローモ。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
731 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)14-3 | コウシンサンに供えられたトベラ、アクサバシ、豆。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
732 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)14-4 | コウシンサンに供えられたトベラ、アクサバシ、豆。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
733 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)14-5 | コウシンサンに供えられた白米と大根の膾。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
734 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)14-6 | コウシンサンに供えられた白米と大根の膾。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
735 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)14-7 | スライド枠に「2.1.1」と記される。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
736 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)14-8 | 「海上安全大漁満足 東支部」と記された幟が立つコウシンサンに白米と大根の膾を供える。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
737 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)14-9 | コウシンサンに供えられた白米と大根の膾。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
738 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)14-10 | コウシンサンに白米と大根の膾を供える。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
739 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)14-11 | コウシンサンに白米と大根の膾を供える。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
740 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)14-12 | 持ち船に供え物をする。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
741 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)14-13 | 持ち船にも松とシデとツボキの正月飾りを付け、供え物をする。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
742 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)14-14 | 持ち船にも松とシデとツボキの正月飾りを付け、供え物をする。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
743 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)14-15 | 持ち船にも松とシデとツボキの正月飾りを付け、供え物をする。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
744 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)14-16 | コウシンサンに白米と大根の膾を供える。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
745 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)14-17 | 海岸(堤防)で海に向かって白米や膾などの供え物をかする。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
746 | 神島ゲーター祭(舟玉しんぜ)14-18 | 持ち船にも松とシデとツボキの正月飾りを付け、アクサバシや豆うちの豆等の供え物をする。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
747 | 神島ゲーター祭(アラクサ・豆うち)15-1 | スキャニングされていないがタイトルスライドには「神島 アラクサ・豆うち 12.31 17:00頃 宮持→一般」と記される。写真は、トベラの小枝とアクサバシと豆をコウシンサンに供える島民。神島では大晦日の夕刻になると、その年の宮持の家と前年の宮持であった口米の家では錐火で火をおこし、その神聖な火で豆が煎られる。そして宮持は海へ行き、口米の爺は漁業組合に行って金庫に向い「福は内」と豆をまく。これが終わってはじめて一般の豆まきが許されると言う。各戸では一家の主人か長男がバチバチの木と呼ぶトベラの小枝と、ザーザーの木と呼ぶヤブニッケイを燃やしながら、杉の串に田作りを刺したアクサバシと共に豆を煎り上げる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
748 | 神島ゲーター祭(アラクサ・豆うち)15-2 | 大晦日の夕刻、宮持の家と前年の宮持であった口米の家の豆まきが終わると、一般の家での豆まきが始まる。各戸では一家の主人か長男が、バチバチの木と呼ぶトベラの小枝と、ザーザーの木と呼ぶヤブニッケイを燃やしながら、杉の串に田作りを刺したアクサバシと共に豆を煎り上げる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
749 | 神島ゲーター祭(アラクサ・豆うち)15-3 | 大晦日の夕刻、宮持の家と前年の宮持であった口米の家の豆まきが終わると、一般の家での豆まきが始まる。各戸では一家の主人か長男が、バチバチの木と呼ぶトベラの小枝と、ザーザーの木と呼ぶヤブニッケイを燃やしながら、杉の串に田作りを刺したアクサバシと共に豆を煎り上げる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
750 | 神島ゲーター祭(アラクサ・豆うち)15-4 | 豆まきの豆を煎るホウロクを掴むための鍋つかみ。各戸では一家の主人か長男が、バチバチの木と呼ぶトベラの小枝と、ザーザーの木と呼ぶヤブニッケイを燃やしながら、杉の串に田作りを刺したアクサバシと共に豆を煎り上げる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
751 | 神島ゲーター祭(アラクサ・豆うち)15-5 | バチバチの木と呼ぶトベラの小枝を燃しながら、杉の串に田作りを刺したアクサバシを作る一家の主人。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
752 | 神島ゲーター祭(アラクサ・豆うち)15-6 | バチバチの木と呼ぶトベラの小枝を燃しながら、杉の串に田作りを刺したアクサバシを作る。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
753 | 神島ゲーター祭(アラクサ・豆うち)15-7 | スライド枠には「豆↑」と記される。持ち船に豆をまく。煎った豆は福の豆と鬼の豆に分けて床の間に供える。豆まきは床の間とねずみ窓に向かって「福は内」と3回まき、次に玄関から外に向かって「鬼は外」と2回、最後に外から玄関に向かい「福は内」と3回まいた後、戸口を閉める。外の主人はその足で海・コウシンサン・持ち船・神社前・薬師堂と豆まきをして家に戻る。主人は戸口で「モローモ」と呼ぶと、家の者が「ドーレ」と言い、次に「福の神が参りました」と応答して家に入る。アクサバシは魔除けと称して玄関や門松などに飾られる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
754 | 神島ゲーター祭(アラクサ・豆うち)15-8 | 豆をまきに持ち船へと向かう。煎った豆は福の豆と鬼の豆に分けて床の間に供える。豆まきは床の間とねずみ窓に向かって「福は内」と3回まき、次に玄関から外に向かって「鬼は外」と2回、最後に外から玄関に向かい「福は内」と3回まいた後、戸口を閉める。外の主人はその足で海・コウシンサン・持ち船・神社前・薬師堂と豆まきをして家に戻る。主人は戸口で「モローモ」と呼ぶと、家の者が「ドーレ」と言い、次に「福の神が参りました」と応答して家に入る。アクサバシは魔除けと称して玄関や門松などに飾られる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
755 | 神島ゲーター祭(アラクサ・豆うち)15-9 | 豆をまきに持ち船へと向かう。煎った豆は福の豆と鬼の豆に分けて床の間に供える。豆まきは床の間とねずみ窓に向かって「福は内」と3回まき、次に玄関から外に向かって「鬼は外」と2回、最後に外から玄関に向かい「福は内」と3回まいた後、戸口を閉める。外の主人はその足で海・コウシンサン・持ち船・神社前・薬師堂と豆まきをして家に戻る。主人は戸口で「モローモ」と呼ぶと、家の者が「ドーレ」と言い、次に「福の神が参りました」と応答して家に入る。アクサバシは魔除けと称して玄関や門松などに飾られる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
756 | 神島ゲーター祭(アラクサ・豆うち)15-10 | タイトルスライドには「神島 アラクサ・豆うち 12.31 17:00頃 宮持→一般」と記される。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
757 | 神島ゲーター祭(アラクサ・豆うち)15-11 | 煎った豆は福の豆と鬼の豆に分けて床の間に供える。豆まきは床の間とねずみ窓に向かって「福は内」と3回まき、次に玄関から外に向かって「鬼は外」と2回、最後に外から玄関に向かい「福は内」と3回まいた後、戸口を閉める。外の主人はその足で海・コウシンサン・持ち船・神社前・薬師堂と豆まきをして家に戻る。主人は戸口で「モローモ」と呼ぶと、家の者が「ドーレ」と言い、次に「福の神が参りました」と応答して家に入る。アクサバシは魔除けと称して玄関や門松などに飾られる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
758 | 神島ゲーター祭(アラクサ・豆うち)15-12 | スライド枠には「アワビもち 2.1.1」と記される。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
759 | 神島ゲーター祭(アラクサ・豆うち)15-13 | スライド枠には「豆まき」と記される。薬師堂に豆を供える。煎った豆は福の豆と鬼の豆に分けて床の間に供える。豆まきは床の間とねずみ窓に向かって「福は内」と3回まき、次に玄関から外に向かって「鬼は外」と2回、最後に外から玄関に向かい「福は内」と3回まいた後、戸口を閉める。外の主人はその足で海・コウシンサン・持ち船・神社前・薬師堂と豆まきをして家に戻る。主人は戸口で「モローモ」と呼ぶと、家の者が「ドーレ」と言い、次に「福の神が参りました」と応答して家に入る。アクサバシは魔除けと称して玄関や門松などに飾られる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
760 | 神島ゲーター祭(アラクサ・豆うち)15-14 | (不明) | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
761 | 神島ゲーター祭(アラクサ・豆うち)15-15 | スライド枠には「豆」と記される。コウシンサンの前で豆をまく。煎った豆は福の豆と鬼の豆に分けて床の間に供える。豆まきは床の間とねずみ窓に向かって「福は内」と3回まき、次に玄関から外に向かって「鬼は外」と2回、最後に外から玄関に向かい「福は内」と3回まいた後、戸口を閉める。外の主人はその足で海・コウシンサン・持ち船・神社前・薬師堂と豆まきをして家に戻る。主人は戸口で「モローモ」と呼ぶと、家の者が「ドーレ」と言い、次に「福の神が参りました」と応答して家に入る。アクサバシは魔除けと称して玄関や門松などに飾られる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
762 | 神島ゲーター祭(アラクサ・豆うち)15-16 | スライド枠には「豆」と記される。コウシンサンの前で豆をまく。煎った豆は福の豆と鬼の豆に分けて床の間に供える。豆まきは床の間とねずみ窓に向かって「福は内」と3回まき、次に玄関から外に向かって「鬼は外」と2回、最後に外から玄関に向かい「福は内」と3回まいた後、戸口を閉める。外の主人はその足で海・コウシンサン・持ち船・神社前・薬師堂と豆まきをして家に戻る。主人は戸口で「モローモ」と呼ぶと、家の者が「ドーレ」と言い、次に「福の神が参りました」と応答して家に入る。アクサバシは魔除けと称して玄関や門松などに飾られる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
763 | 神島ゲーター祭(神島)16-1 | スキャニングされていないがタイトルスライドには「90.1.1 神島 12.31」と記される。神島に帰省する島民だろうか。写真右上端の表示から推測すると市営定期船「第23鳥羽丸」かと思われる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
764 | 神島ゲーター祭(神島)16-2 | 島に帰省する島民だろうか。神島に向かう市営定期船の船内風景かと思われる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
765 | 神島ゲーター祭(神島)16-3 | 島に帰省する島民だろうか。神島に向かう市営定期船の船上風景かと思われる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
766 | 神島ゲーター祭(神島)16-4 | 島に帰省する島民だろうか。神島に向かう市営定期船の船上風景かと思われる。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
767 | 神島ゲーター祭(神島)16-5 | 市営定期船から見た神島の景観。写真中央左端の鉄筋三階建の建物は離島開発センター。その奥に定期船桟橋が造られている。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
768 | 神島ゲーター祭(神島)16-6 | 市営定期船から見た神島の景観。正月を間近に控え、操業は全て終えたのだろう。漁港内には隙間のないほど漁船が係留されている。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
769 | 神島ゲーター祭(神島)16-7 | 神島市営定期船の桟橋風景。現在のような浮桟橋方式ではなく、固定式の桟橋であったため、潮の干満によって1m以上の落差が生じた。大潮の干潮時などには、船の2階デッキから乗り降りをしたものである。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
770 | 神島ゲーター祭(神島)16-8 | 神島の定期船桟橋に到着。定期船の船上デッキから桟橋の様子を見る親子。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
771 | 神島ゲーター祭(神島)16-9 | 市営定期船のデッキから桟橋を見る。正月の帰省客か定期船桟橋にはあふれるほどの人々が家路へと向かう。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
772 | 神島ゲーター祭(神島大漁旗)17-1 | スキャニングされていないがタイトルスライドには「神島 大漁旗」と記される。正月の神島漁港風景。全ての操業を終え港に係留された漁船は、船主等によって洗い清められ注連飾りが飾られ、大漁旗を立てて新年を迎える。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
773 | 神島ゲーター祭(神島大漁旗)17-2 | 正月の神島漁港風景。全ての操業を終え港に係留された漁船は、船主等によって洗い清められ注連飾りが飾られ、大漁旗を立てて新年を迎える。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
774 | 神島ゲーター祭(神島大漁旗)17-3 | 正月の神島漁港風景。全ての操業を終え港に係留された漁船は、船主等によって洗い清められ注連飾りが飾られ、大漁旗を立てて新年を迎える。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
775 | 神島ゲーター祭(神島大漁旗)17-4 | 正月の神島漁港風景。全ての操業を終え港に係留された漁船は、船主等によって洗い清められ注連飾りが飾られ、大漁旗を立てて新年を迎える。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
776 | 神島ゲーター祭(神島大漁旗)17-5 | 正月の神島漁港風景。全ての操業を終え港に係留された漁船は、船主等によって洗い清められ注連飾りが飾られ、大漁旗を立てて新年を迎える。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
777 | 神島ゲーター祭(神島大漁旗)17-6 | スライド枠には「2.1.1 野村史隆」と記される。正月の神島漁港風景。全ての操業を終え港に係留された漁船は、船主等によって洗い清められ注連飾りが飾られ、大漁旗を立てて新年を迎える。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
778 | 神島ゲーター祭(神島大漁旗)17-7 | スライド枠には「神島ゲーター 2.1.1 野村史隆」と記される。正月の神島漁港風景。全ての操業を終え港に係留された漁船は、船主等によって洗い清められ注連飾りが飾られ、大漁旗を立てて新年を迎える。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
779 | 神島ゲーター祭(神島大漁旗)17-8 | スライド枠には「2.1.1 野村史隆」と記される。正月の神島漁港風景。全ての操業を終え港に係留された漁船は、船主等によって洗い清められ注連飾りが飾られ、大漁旗を立てて新年を迎える。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
780 | 神島ゲーター祭(神島大漁旗)17-9 | 正月の神島漁港風景。全ての操業を終え港に係留された漁船は、船主等によって洗い清められ注連飾りが飾られ、大漁旗を立てて新年を迎える。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
781 | 神島ゲーター祭(神島大漁旗)17-10 | スライド枠には「2.1.1 野村史隆」と記される。正月の神島漁港風景。全ての操業を終え港に係留された漁船は、船主等によって洗い清められ注連飾りが飾られ、大漁旗を立てて新年を迎える。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
782 | 神島ゲーター祭(神島大漁旗)17-11 | 神島漁港の港内景観。写真中央の突堤は神島漁協市場で、その奥の突堤は市営定期船乗場である。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
783 | 神島ゲーター祭(神島大漁旗)17-12 | スライド枠には「2.1.1 野村史隆」と記される。神島の島内風景。 | 鳥羽市神島町 | (1989.12.31) |
784 | 神島ゲーター祭(日向の神事)18-1 | スライド枠には「日向の神事」と記される。日向の祭は、ゲーター祭の直会の行事で、元旦8時から東の塚前に莚を敷き、宮持・口米・漁協組合長・漁協役員・宮司・町内会長・隠居衆が出席しサバとモローモを肴に盃事を行う。 | 鳥羽市神島町 | (1990.01/01) |
785 | 神島ゲーター祭(日向の神事)18-2 | (要調査) | 鳥羽市神島町 | (1990.01/01) |
786 | 神島ゲーター祭(日向の神事)18-3 | (要調査) | 鳥羽市神島町 | (1990.01/01) |
787 | 神島ゲーター祭(日向の神事)18-4 | (要調査) | 鳥羽市神島町 | (1990.01/01) |
788 | 和具の海女1-1-1 | アルバムのデータ記載欄には「人家 48.9.7」と記される。志摩町和具の集落景観。和具村は志摩半島南端、通称先志摩半島のほぼ中央部に位置し、北は英虞湾に面する。集落は石ヶ、城山、岡、里東、西札、矢浦、太田、大山、離島の間崎に分かれる。昭和29年の町村合併で志摩町和具となり、平成16年の市町村合併で志摩市志摩町和具となる。参考文献:『角川日本地名大辞典 第24巻三重県』昭和58年、角川書店発行。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.09.07 |
789 | 和具の海女1-1-2 | アルバムのデータ記載欄には「海女小屋 48.9.7」と記される。日除けのシートを張っただけの簡易な海女小屋である。和具地区における夏の海女漁は3月中旬~9月中旬までであるから、小屋が使用されるのも後わずかである。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.09.07 |
790 | 和具の海女1-1-3 | アルバムのデータ記載欄には「風景 48.9.7」と記される。日除けのシートを張っただけの簡易な海女小屋であろう。竹竿にはゴム製のウエットスーツが干されている。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.09.07 |
791 | 和具の海女1-1-4 | アルバムのデータ記載欄には「海女達のよく使う車 48.9.7」と記される。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.09.07 |
792 | 和具の海女1-1-5 | アルバムのデータ記載欄には「海女達のよく使う車 48.9.7」と記される。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.09.07 |
793 | 和具の海女1-1-6 | アルバムのデータ記載欄には「和具沖のタンカー 48.9.7」と記される。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.09.07 |
794 | 和具の海女1-2-1 | アルバムのデータ記載欄には「作業 48.9.7」と記される。少しわかりづらいが、タンカー船の手前十数隻の小型船は、舟人海女の様にも見える。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.09.07 |
795 | 和具の海女1-2-2 | アルバムのデータ記載欄には「作業 48.9.7」と記される。少しわかりづらいが、タンカー船の手前十数隻の小型船は、舟人海女の様にも見える。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.09.07 |
796 | 和具の海女1-2-3 | アルバムのデータ記載欄には「海辺 48.9.7」と記される。和具の波打際風景。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.09.07 |
797 | 和具の海女1-2-4 | アルバムのデータ記載欄には「48.9.7」と記される。和具の波打際風景。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.09.07 |
798 | 和具の海女1-2-5 | アルバムのデータ記載欄には「48.9.7」と記される。和具の波打際風景。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.09.07 |
799 | 和具の海女1-2-6 | アルバムのデータ記載欄には「48.9.7」と記される。和具の波打際風景。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.09.07 |
800 | 和具の海女1-3-1 | アルバムのデータ記載欄には「48.9.7」と記される。撮影場所不明。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.09.07 |
801 | 和具の海女2-1-1 | アルバムのデータ記載欄には「和具 48.4.6」と記される。ノリアイ海女の海女船であろう。和具地区における夏の海女漁は3月中旬~9月中旬までである。船上には十個程の磯桶が積み込まれている。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.04.06 |
802 | 和具の海女2-1-2 | アルバムのデータ記載欄には「和具 48.4.6」と記される。何れの漁船もノリアイ海女の海女船であろう。和具地区における夏の海女漁は3月中旬~9月中旬までである。船上には複数の磯桶が積み込まれている。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.04.06 |
803 | 和具の海女2-1-3 | アルバムのデータ記載欄には何も記されていないが、何れの漁船もノリアイ海女の海女船であろう。和具地区における夏の海女漁は3月中旬~9月中旬までである。船上には複数の磯桶が積み込まれている。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.04.06 |
804 | 和具の海女2-1-4 | アルバムのデータ記載欄には何も記されていないが、何れの漁船もノリアイ海女の海女船であろう。和具地区における夏の海女漁は3月中旬~9月中旬までである。船上には複数の磯桶が積み込まれている。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.04.06 |
805 | 和具の海女2-1-5 | 和具漁港の風景。刺網の一種のように見えるが、浮子を見る限りかなり大きな網である。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.04.06 |
806 | 和具の海女2-1-6 | 和具漁港の風景。刺網の一種のように見えるが、浮子を見る限りかなり大きな網である。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.04.06 |
807 | 和具の海女2-2-1 | アルバムのデータ記載欄には「和具 48.4.6」と記される。刺網の一種のように見えるが、浮子を見る限りかなり大きな網である。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.04.06 |
808 | 和具の海女2-2-2 | 和具浦漁港での網干の風景である。漁から戻ると網に掛かった海藻やゴミを取り除き、破れた部分はアバリを使って繕っていく。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.04.06 |
809 | 和具の海女2-2-3 | 海女の磯手拭いかと思われる。「浅間神社 奥宮」と染め抜かれ、左上に持ち主であろう「山本とし江」の名が見える。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.04.06 |
810 | 和具の海女2-2-4 | 海女小屋であろう。上下のウエットスーツやスカリが干されている。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.04.06 |
811 | 和具の海女2-4-1 | アルバムのデータ記載欄には「48.8.28」と記される。海女小屋であろう。写真中央左端には磯桶とイジコのような物が写されている。和具地区における夏の海女漁は3月中旬~9月中旬までで行われる。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
812 | 和具の海女2-4-2 | 和具漁港の船揚場である。後ろに並ぶトタン葺きの小屋は海女小屋かと思われる。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
813 | 和具の海女2-4-3 | 海女のウエットスーツと磯着。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
814 | 和具の海女2-5-1 | アルバムのデータ記載欄には「出漁」と記される。ノリアイ海女の出漁風景である。1艘に8人の海女が乗り込む。時期的に一番暑い頃である。着替えは船上で行うのか、海女達は磯着のまま乗り込んでいる。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
815 | 和具の海女2-5-2 | ノリアイ海女の出漁風景。出漁する海女達の船上風景。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
816 | 和具の海女2-5-3 | 磯場へと向かう海女船の船上風景。ウエットスーツを取り出し着替えの準備を急ぐ。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
817 | 和具の海女2-5-4 | 磯場へと向かう海女船の船上風景。ウエットスーツを取り出し着替えの準備を急ぐ。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
818 | 和具の海女2-5-5 | 磯場へと急ぐ舟人海女。船上には船頭と海女の姿が写る。船縁には地元で「ハイカラ」と呼ぶ、命綱を手繰上げる滑車が取付けられている。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
819 | 和具の海女2-5-6 | ノリアイ海女の操業風景。わかりづらいが、海面に磯桶と海女が見える。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
820 | 和具の海女2-6-1 | アルバムのデータ記載欄には「船下し」と記される。漁港整備が不十分な時代、漁を終えた漁船は人力で陸へと引き揚げられた。特に砂浜が中心で船を係留する吃水域を持たない漁村は、その都度村人が協力し合って船の上げ下ろしを行ってきた。写真は、ノリアイの海女達であろう。コロを使って出漁の為の船下しをする風景である。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
821 | 和具の海女2-6-2 | 漁港整備が不十分な時代、漁を終えた漁船は人力で陸へと引き揚げられた。特に砂浜が中心で船を係留する吃水域を持たない漁村は、その都度村人が協力し合って船の上げ下ろしを行ってきた。写真は、ノリアイの海女達であろう。船頭と共にコロを使って出漁の為の船下しをする風景である。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
822 | 和具の海女2-6-3 | 漁港整備が不十分な時代、漁を終えた漁船は人力で陸へと引き揚げられた。特に砂浜が中心で船を係留する吃水域を持たない漁村は、その都度村人が協力し合って船の上げ下ろしを行ってきた。写真は、ノリアイの海女達であろう。船頭と共にコロを使って出漁の為の船下しをする風景である。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
823 | 和具の海女2-6-4 | アルバムのデータ記載欄には「アラメ」と記される。船揚場に干されたアラメである。乾燥させて食材としても重宝される。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
824 | 和具の海女2-6-5 | 船揚場に干されたアラメである。乾燥させて食材としても重宝される。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
825 | 和具の海女2-6-6 | 船揚場に干されたアラメである。乾燥させて食材としても重宝される。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
826 | 和具の海女3-1-1 | アルバムのデータ記載欄には「S47.8.28 大島付近」と記される。操業を終え帰港したのか、ウエットスーツを身に付け、磯桶を手に船から下りるノリアイ海女達。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
827 | 和具の海女3-1-2 | 操業を終え帰港したのか、ウエットスーツを身に付け、磯桶を手に船から下りるノリアイ海女達。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
828 | 和具の海女3-1-3 | 操業を終え帰港したのか、ウエットスーツを身に付け、磯桶を手に浜にあがるノリアイ海女達。波打ち際の海女が手にするのは大量のアラメだろうか。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
829 | 和具の海女3-1-4 | アルバムのデータ記載欄には「船上」と記される。ウエットスーツに着替え磯場へと向かうノリアイ海女達である。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
830 | 和具の海女3-1-5 | ノリアイ海女の船上風景である。磯場へ到着したのであろう。船は停泊し、潜水の準備をする海女達。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
831 | 和具の海女3-1-6 | ノリアイ海女の船上風景である。まもなく操業開始の指示が出されるのか、海女達は鉛の腰ベルトを付け、先頭の海女は磯桶を海面に出す準備をしている。この辺りは良い磯場なので有ろう。この船の少し後にも7~8名の海女を乗せた海女船が写されている。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
832 | 和具の海女3-2-1 | ノリアイ海女の船上風景である。まもなく操業開始の指示が出されるのか、海女達は鉛の腰ベルトを付け、磯桶の桶綱を外すなど海中に入る準備を進める。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
833 | 和具の海女3-2-2 | ノリアイ海女の船上風景である。まもなく操業開始の指示が出されるのか、海女達は白い磯手拭いで頬被りをした上から磯メガネを掛け、鉛の腰ベルトと桶綱を腰に付けるなど海中に入る準備を進める。後方にも一隻、7~8人のノリアイ海女を乗せた海女船が写されている。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
834 | 和具の海女3-2-3 | ノリアイ海女の船上風景である。まもなく操業開始の指示が出されるのであろう。一人の海女は磯手拭い、磯メガネ、ウエットスーツに足ヒレ、鉛の腰ベルト、磯桶等、水中に入る全ての準備を終えた後、「操業の安全と大漁を願って」か、カギノミを手に両手を合わせる仕草を見せる。後方にも一隻、7~8人のノリアイ海女を乗せた海女船が写されている。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
835 | 和具の海女3-2-4 | ノリアイ海女の船上風景である。先に磯桶を海面に投げ入れた海女は、カギノミを右手に持ち、足から海へと飛び込む。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
836 | 和具の海女3-2-5 | ノリアイ海女の操業風景。海中に入った海女は、磯桶に掴まり時折海底を覗き込みながら、潜水する磯場へと泳いでいく。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
837 | 和具の海女3-2-6 | アルバムのデータ記載欄には「仕事開始」と記される。ノリアイ海女の船上風景である。先に磯桶を海面に投げ入れた海女は、右手にカギノミ、左手に桶綱を束ねて持ち、足から海へと飛び込む。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
838 | 和具の海女3-3-1 | ノリアイ海女の操業風景。海中に入った海女は、磯桶に掴まり時折海底を覗き込みながら、潜水する磯場へと泳いでいく。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
839 | 和具の海女3-3-2 | アルバムのデータ記載欄には「トマエ」と記される。ノリアイ海女の海女船の船頭である。全員の海女を海中に降ろした船頭は、少し離れたところで船を停泊させ、操業が終わるまで待機をする。平成22年度の調査では、和具浦の海女漁の操業時間は、午前一潜、午後一潜でそれぞれ1時間30分と定められている(『海女習俗基礎調査報告書 平成22・23年度調査』)。その間、船頭は海女達に異常が無いか、全員の海女の動きに目を配るのも大切な仕事となる。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
840 | 和具の海女3-3-3 | ノリアイ海女の海女船の船頭である。全員の海女を海中に降ろした船頭は、少し離れたところで船を停泊させ、操業が終わるまで待機をする。平成22年度の調査では、和具浦の海女漁の操業時間は、午前一潜、午後一潜でそれぞれ1時間30分と定められている(『海女習俗基礎調査報告書 平成22・23年度調査』)。その間、船頭は海女達に異常が無いか、全員の海女の動きに目を配るのも大切な仕事となる。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
841 | 和具の海女3-3-4 | ノリアイ海女の操業風景。海中に入った海女は、潜水して浮上する事に磯桶に掴まり、息を整え次の潜水へと備える。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
842 | 和具の海女3-3-5 | アルバムのデータ記載欄には「トマエ」と記される。ノリアイ海女の海女船の船頭である。全員の海女を海中に降ろした船頭は、少し離れたところで船を停泊させ、操業が終わるまで待機をする。平成22年度の調査では、和具浦の海女漁の操業時間は、午前一潜、午後一潜でそれぞれ1時間30分と定められている(『海女習俗基礎調査報告書 平成22・23年度調査』)。その間、船頭は海女達に異常が無いか、全員の海女の動きに目を配るのも大切な仕事となる。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
843 | 和具の海女3-3-6 | ノリアイ海女の操業風景。海中に入った海女は、磯桶に掴まり時折海底を覗き込みながら、潜水する磯場を確認していく。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
844 | 和具の海女3-4-1 | アルバムのデータ記載欄には「S47.8.28 志摩町和具」と記される。ノリアイ海女の操業風景。海中に入った海女は、磯桶に掴まり時折海底を覗き込みながら、潜水する磯場を確認していく。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
845 | 和具の海女3-4-2 | ノリアイ海女の海女船の船頭である。全員の海女を海中に降ろした船頭は、少し離れたところで船を停泊させ、操業が終わるまで待機をする。平成22年度の調査では、和具浦の海女漁の操業時間は、午前一潜、午後一潜でそれぞれ1時間30分と定められている(『海女習俗基礎調査報告書 平成22・23年度調査』)。その間、船頭は海女達に異常が無いか、全員の海女の動きに目を配るのも大切な仕事となる。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
846 | 和具の海女3-4-3 | ノリアイ海女の海女船の船頭である。全員の海女を海中に降ろした船頭は、少し離れたところで船を停泊させ、操業が終わるまで待機をする。平成22年度の調査では、和具浦の海女漁の操業時間は、午前一潜、午後一潜でそれぞれ1時間30分と定められている。船頭がのぞき込むのは時計か、方位計か、気圧計か。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
847 | 和具の海女3-4-4 | ノリアイ海女の操業風景。一潜目が終わったのであろう、船上に上がった海女達。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
848 | 和具の海女3-4-5 | ノリアイ海女の海女小屋での休憩風景。一潜が終わると海女達は、海女小屋に戻り磯着に着替えて躰を温め、昼食をとる。ウエットスーツは午後の操業に備え干されている。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
849 | 和具の海女3-5-1 | アルバムのデータ記載欄には「一くら後の休憩」と記される。ノリアイ海女の海女小屋での休憩風景。一潜が終わると海女達は、海女小屋に戻り磯着に着替えて躰を温め、昼食をとる。写真左端の女性は、アルマイト製の弁当箱を手にしている。ウエットスーツは午後の操業に備え干されている。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
850 | 和具の海女3-5-2 | ノリアイ海女の海女小屋での休憩風景。一潜が終わると海女達は、海女小屋に戻り磯着に着替えて躰を温め、昼食をとる。浜辺に柱を立て、大漁旗や白布の様な物で夏の日差しを遮るために作られた簡易な海女小屋である。写真左端の女性は、アルマイト製の弁当箱を手にしている。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
851 | 和具の海女3-5-3 | ノリアイ海女の海女小屋での休憩風景。一潜が終わると海女達は、海女小屋に戻り磯着に着替えて躰を温め、昼食をとる。海女が昼食に使ったアルマイト製の弁当箱。イソカゴには「海上安全・大島神社ご守護」と記されたお守りが下げられている。常に危険にさらされる海女達の信仰心の深さが良くわかる。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
852 | 和具の海女3-5-4 | ノリアイ海女の海女小屋での休憩風景。浜辺に柱を立て、大漁旗や白布の様な物で夏の日差しを遮るために作られた簡易な海女小屋である。海女小屋の側には、午後からの操業に備えてウエットスーツや足ヒレ、磯桶、磯手拭いなどが干されている。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
853 | 和具の海女3-5-5 | ノリアイ海女の海女小屋での休憩風景。浜辺に柱を立て、大漁旗や白布の様な物で夏の日差しを遮るために作られた簡易な海女小屋である。海女小屋の側には、午後からの操業に備えてウエットスーツや足ヒレ、磯桶、磯手拭いなどが干されている。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
854 | 和具の海女3-5-6 | ノリアイ海女の海女小屋での休憩風景。浜辺に柱を立て、大漁旗や白布の様な物で夏の日差しを遮るために作られた簡易な海女小屋である。海女小屋の側には、午後からの操業に備えてウエットスーツや足ヒレ、磯桶、磯手拭いなどが干されている。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
855 | 和具の海女3-6-1 | ノリアイ海女の海女小屋での休憩風景。ヒドコの回りでは、鮑や栄螺、ウニ、イノカイ等が焼かれている。キズが付いてしまったり、売れそうもない漁獲物は、海女達の小腹を満たすご馳走となる。子供や孫や町内の出来事、漁の話など小屋での海女達の話は明るく尽きる事が無い。この屈託のない連帯感が、海底で常に危険と背中合わせに働く海女達が、お互いに気を配り合い、助け合って身を守る共同体としての意識を作り上げているのかと思える。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
856 | 和具の海女3-6-2 | ノリアイ海女の海女小屋での休憩風景。ヒドコの回りでは、鮑や栄螺、ウニ、イノカイ等が焼かれている。キズが付いてしまったり、売れそうもない漁獲物は、海女達の小腹を満たすご馳走となる。子供や孫や町内の出来事、漁の話など小屋での海女達の話は明るく尽きる事が無い。この屈託のない連帯感が、海底で常に危険と背中合わせに働く海女達が、お互いに気を配り合い、助け合って身を守る共同体としての意識を作り上げているのかと思える。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
857 | 和具の海女3-6-3 | ノリアイ海女の海女小屋での休憩風景。ヒドコの回りでは、鮑や栄螺、ウニ、イノカイ等が焼かれている。キズが付いてしまったり、売れそうもない漁獲物は、海女達の小腹を満たすご馳走となる。子供や孫や町内の出来事、漁の話など小屋での海女達の話は明るく尽きる事が無い。この屈託のない連帯感が、海底で常に危険と背中合わせに働く海女達が、お互いに気を配り合い、助け合って身を守る共同体としての意識を作り上げているのかと思える。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
858 | 和具の海女3-6-4 | ノリアイ海女の海女小屋での休憩風景。ヒドコの回りで背中を温める海女達。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
859 | 和具の海女3-6-5 | ノリアイ海女の海女小屋での休憩風景。ヒドコの回りで背中を温める海女達。ヒドコの回りでは、鮑や栄螺、ウニ、イノカイ等が焼かれている。キズが付いてしまったり、売れそうもない漁獲物は、海女達の小腹を満たすご馳走となる。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
860 | 和具の海女3-6-6 | ノリアイ海女の海女小屋での休憩風景。海女小屋の側には、午後からの操業に備えてウエットスーツや足ヒレ、磯桶、磯手拭いなどが干されている。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
861 | 和具の海女4-1-1 | アルバムのデータ記載欄には「S47.8.28 和具大島 昼の休み大島で」と記される。ノリアイ海女の海女小屋での休憩風景。ヒドコの回りで背中を温める海女達。子供や孫や町内の出来事、漁の話など小屋での海女達の話は明るく尽きる事が無い。この屈託のない連帯感が、海底で常に危険と背中合わせに働く海女達が、お互いに気を配り合い、助け合って身を守る共同体としての意識を作り上げているのかと思える。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
862 | 和具の海女4-1-2 | ノリアイ海女の海女小屋での休憩風景。海女小屋の側には、午後からの操業に備えてウエットスーツや足ヒレ、磯桶、磯眼鏡などが干されている。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
863 | 和具の海女4-1-3 | ノリアイ海女の海女小屋での休憩風景。海女小屋の側には、午後からの操業に備えてウエットスーツや足ヒレ、磯桶などが干されている。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
864 | 和具の海女4-1-4 | ノリアイ海女の海女小屋での休憩風景。午後からの操業に備えてヒドコの回りで躰を温める海女達。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
865 | 和具の海女4-1-5 | ノリアイ海女の海女小屋での休憩風景。和具浦における夏の海女漁の操業時間は、午前9時30分~11時、午後2時~3時30分までと定められている(『海女習俗基礎調査報告書 平成22・23年度調査』)。昼は3時間ほどの休憩時間が取られることから、躰を温め食事をしたあと一眠りする海女達も少なくない。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
866 | 和具の海女4-1-6 | ノリアイ海女の海女小屋での休憩風景。和具浦における夏の海女漁の操業時間は、午前9時30分~11時、午後2時~3時30分までと定められている(『海女習俗基礎調査報告書 平成22・23年度調査』)。昼は3時間ほどの休憩時間が取られることから、躰を温め食事をしたあと一眠りする海女達も少なくない。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
867 | 和具の海女4-2-1 | 志摩町和具大島の景観。写真左隅に磯桶が見えることから、のりあい海女の海女小屋の近くの景観かと思われる。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
868 | 和具の海女4-2-2 | 志摩町和具大島の景観。写真左隅に磯桶が見えることから、のりあい海女の海女小屋の近くの景観かと思われる。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
869 | 和具の海女4-2-3 | 志摩町和具大島の景観。写真左隅に磯桶が見えることから、のりあい海女の海女小屋の近くの景観かと思われる。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
870 | 和具の海女4-2-4 | ノリアイ海女の海女小屋での休憩風景。午後からの操業が始まるのか、磯桶やイソカゴを肩に掛け海女小屋を出るノリアイ海女達。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
871 | 和具の海女4-2-5 | ノリアイ海女の出漁風景。海女小屋での休憩を終え、午後からの操業に向けて磯桶やイソカゴを手に海女船へと向かう海女達。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
872 | 和具の海女4-2-6 | ノリアイ海女の出漁風景。海女小屋での休憩を終え、午後からの操業に向けて海女船に乗り込む海女達。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
873 | 和具の海女4-3-1 | ノリアイ海女の出漁風景。海女小屋での休憩を終え、午後からの操業に向けて海女船に乗り込む海女達。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
874 | 和具の海女4-3-2 | ノリアイ海女の出漁風景。海女小屋での休憩を終え、午後からの操業に向け海女達を乗せて和具大島を離れる海女船。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
875 | 和具の海女4-3-3 | ノリアイ海女の出漁風景。海女小屋での休憩を終え、午後からの操業に向け海女達を乗せて和具大島を離れる海女船。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
876 | 和具の海女4-3-4 | ノリアイ海女の出漁風景。海女小屋での休憩を終え、午後からの操業に向け海女達を乗せて和具大島を離れる海女船。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
877 | 和具の海女4-3-5 | ノリアイ海女の出漁風景。海女小屋での休憩を終え、午後からの操業に向け海女達を乗せて和具大島を離れる海女船。 | 志摩市志摩町和具 | 1972.08.28 |
878 | 和具の海女4-4-1 | アルバムのデータ記載欄には「S49.9.20 和具村内」と記される。「ゴミをすてるな、神社」の立札が見える。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
879 | 和具の海女4-4-2 | 志摩町和具の街並み景観である。海岸に沿って民家が密集する。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
880 | 和具の海女4-4-3 | 石碑。「文政元寅八月廿四日」と記される。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
881 | 和具の海女4-4-4 | 石碑。「文政元寅八月廿四日」と記される。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
882 | 和具の海女4-4-5 | 志摩町和具の舟人海女が使用するイソグルマ。地元ではハイカラグルマと呼んだりもする。船縁に取付け、海女の命綱を手繰上げる時に使用する。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
883 | 和具の海女4-4-6 | 船縁に取付けられているが呼称、用途共不明。イマメ(ウバメガシ)の枝で作られた同様の物で、船の艫に取付けられた物は、ヘタミ漁(見突き漁)の時に用いるサザエツキやナマコカギ等を置くのに用いたりする。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
884 | 和具の海女4-5-1 | 船揚場での漁船の修理風景。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
885 | 和具の海女4-5-2 | 「和具漁協水産荷捌所」の文字が見える。施設内での組合員による網の修繕風景である。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
886 | 和具の海女4-5-3 | 和具漁協の市場風景である。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
887 | 和具の海女4-6-1 | 和具漁港の浚渫工事写真かと思われる。作業を進める浚渫船に「SKK404SH」の文字が見える。台風や潮流の変化などで港内に砂や泥が堆積したり、漁船の大型化が進むとこれまで以上に港内を深く掘り下げる必要が出てくる。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
888 | 和具の海女4-6-2 | 和具漁港の浚渫工事写真かと思われる。作業を進める浚渫船に「SKK404SH」の文字が見える。台風や潮流の変化などで港内に砂や泥が堆積したり、漁船の大型化が進むとこれまで以上に港内を深く掘り下げる必要が出てくる。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
889 | 和具の海女4-6-3 | 志摩町和具の海女小屋である。和具の海女漁は9月中旬で終わる。海女小屋は翌年の春先まで閉ざされる。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
890 | 和具の海女4-6-4 | 和具漁港の浚渫工事写真かと思われる。作業を進める浚渫船に「SKK404SH」の文字が見える。台風や潮流の変化などで港内に砂や泥が堆積したり、漁船の大型化が進むとこれまで以上に港内を深く掘り下げる必要が出てくる。斜路に引き揚げられた漁船では防腐用のペンキ塗りだろうか漁師の婦人らしき人物が作業をしている。その横にはイソグルマを付けた舟人の海女船も引き揚げられている。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
891 | 和具の海女4-6-5 | 海女漁を終え、夏の漁が一段落したのか、斜路に漁船を引き揚げ、防腐用のペンキ塗りだろうか漁師達が船の手入れに忙しそうである。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
892 | 和具の海女4-6-6 | 昭和49年9月の撮影であるが、魚探だろうか。当時としては最新の装置だったのかも知れない。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
893 | 和具の海女5-1-1 | 昭和49年9月の撮影であるが、魚探だろうか。当時としては最新の装置だったのかも知れない。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
894 | 和具の海女5-1-2 | 和具漁港の海面風景。ナイロン袋や浮き子、紐や新聞紙などが浮かぶ。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
895 | 和具の海女5-1-3 | 和具漁港の港内風景かと思われる。漁船は丸太のコロを使って陸に引き揚げられている。漁船の後に建ち並ぶトタン葺きの小屋は、漁具などを入れる漁師小屋や海女小屋であろう。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
896 | 和具の海女5-1-4 | 志摩町和具の海岸風景。遠くに見える島は和具大島かと思われる。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
897 | 和具の海女5-1-5 | 志摩町和具の海岸風景。波間に岩礁が顔を出す。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
898 | 和具の海女5-1-6 | 志摩町和具の海岸風景。波間に岩礁が顔を出す。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
899 | 和具の海女5-2-1 | 志摩町和具の海岸風景。波間に岩礁が顔を出す。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
900 | 和具の海女5-2-2 | 志摩町和具の海岸風景。波間に岩礁が顔を出す。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
901 | 和具の海女5-2-3 | 志摩町和具の海岸風景。波間に岩礁が顔を出す。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
902 | 和具の海女5-2-4 | 志摩町和具の海岸風景。漁港の堤防に漁師が一人立つ。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
903 | 和具の海女5-2-5 | 志摩町和具の海岸、波打際の風景。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
904 | 和具の海女5-2-6 | 志摩町和具の海岸風景。砂浜に張られた簡易なテントの中で、漁師らしき男が一人、あぐらを組み海を見つめる。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
905 | 和具の海女(複写写真)6-4-1 | アルバムのデータ記載欄には「91.3月複写。和具、河村まさの、三郎 舟人海女。S15~20頃の写真。和具沖にて」と記される。個人が所有する紙焼き写真を、博物館資料として複写した物である。 | 志摩市志摩町和具 | 1940~1945 |
906 | 石鏡の海女1-1-1 | イソマゲは海女が潜水する時の髪型で、頭髪を上に引きつめ小さく巻き結んだもの。イソグル、サンテマゲとも呼ばれたりする。石鏡の女性は髪を伸ばし、椿油でなでつけて結っていた。観音髷と呼ばれ、海中でもほどけない結い方だった。潜るのに邪魔なので、次第に髪を短くしてパーマをあてるようになったが、最後まで髪が長かったのがこの女性。写真は海女の後ろを写したもの。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) アルバムのデータ記載欄には「石鏡 48.7.11 イソマゲ」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
907 | 石鏡の海女1-1-2 | イソマゲは海女が潜水する時の髪型で、頭髪を上に引きつめ小さく巻き結んだもの。イソグル、サンテマゲとも呼ばれたりする。石鏡の女性は髪を伸ばし、椿油でなでつけて結っていた。観音髷と呼ばれ、海中でもほどけない結い方だった。潜るのに邪魔なので、次第に髪を短くしてパーマをあてるようになったが、最後まで髪が長かったのがこの女性。写真は海女の正面を写したもの。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) アルバムのデータ記載欄には「石鏡 48.7.11 イソマゲ」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
908 | 石鏡の海女1-1-3 | アルバムのデータ記載欄には「石鏡 ネガネカゴ」と記される。磯メガネの保管には一般的には木製の眼鏡箱が多く用いられていると思われるが、これは竹篭で木製の蓋が付けられている。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
909 | 石鏡の海女1-1-4 | アルバムのデータ記載欄には「石鏡 ネガネカゴ」と記される。鳥羽志摩地域の磯眼鏡の導入は明治22年頃(三重県答志郡漁業組合規約)とされる。ここ石鏡町には磯眼鏡の製作に携わる城山巳治男氏がおり、ゴム枠の両側に針金をあてがい、きつい労働で顔が痩せてもその針金で枠を補強し顔に合わせられるように工夫した「城山式メガネ」と呼ばれる物が広く普及したと言う。参考文献:『鳥羽市史 下巻<民俗>』平成3年・鳥羽市発行 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
910 | 石鏡の海女1-1-5 | 海女漁で使われた漁具である。竹で編まれており、漁の間は船上に置いておく。磯眼鏡の導入は明治22年頃(三重県答志郡漁業組合規約)とされる。ここ石鏡町には磯眼鏡を製作する城山巳治男氏がおり、ゴム枠の両側に針金をあてがい、きつい労働で顔が痩せてもその針金で枠を補強し顔に合わせられるように工夫した「城山式メガネ」と呼ばれる物が広く普及したと言う。アルバムのデータ記載欄には「石鏡 ネガネカゴ」と記される。 参考文献:『鳥羽市史 下巻<民俗>』平成3年・鳥羽市発行 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
911 | 石鏡の海女1-1-6 | 石鏡町の海女の出漁風景である。海女の用具を入れた磯篭や袋を肩に船揚場の斜路を歩く海女達が写される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
912 | 石鏡の海女1-2-1 | 石鏡町の海女の出漁風景である。ノリアイや舟人と思われる海女船が石鏡漁港を出港する。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
913 | 石鏡の海女1-2-2 | 石鏡町の海女の出漁風景である。一斉に船が出るところ。船の大群が走る姿を子どもながらに壮観だと思った、という語りがあった。写真左奥や、右奥の崖下に連なる小さな建物は海女小屋(かまど、あたり小屋とも呼ぶ)。写真中央右の帆のある船は、釣り漁や網漁、海女漁などに使ったとみられる。海女漁の際、手漕ぎが大変だったので風のある日は帆を張って進行を助けたという話があった。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
914 | 石鏡の海女1-2-3 | 写真は石鏡漁港を出港する海女船の景観である。海上安全と豊漁を願うのか、一人の海女が沖に向かって手を合わせる。アルバムのデータ記載欄には「出漁に拝む海女」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
915 | 石鏡の海女1-2-4 | 石鏡町の海女の出漁風景である。ノリアイや舟人と思われる海女船が石鏡漁港を出港する。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
916 | 石鏡の海女1-2-5 | 石鏡町の海女の出漁風景である。ノリアイや舟人と思われる海女船が石鏡漁港を出港する。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
917 | 石鏡の海女1-2-6 | 石鏡町の海女の出漁風景である。ノリアイの海女を乗せた海女船が港内で出港の準備を進める。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
918 | 石鏡の海女1-3-1 | 石鏡町の海女の帰港風景である。午前の操業を終えたのであろう、石鏡漁港に帰港する海女船。平成22年の調査では、石鏡の夏の海女漁は午前午後各一潜、70分の操業と定められている。参考文献:『平成23・24年度調査 海女習俗基礎調査報告書』三重県教育委員会編・平成26年発行 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
919 | 石鏡の海女1-3-2 | 鳥羽から磯部町的矢に至る海岸線に点在する集落は、何処も陸の孤島と呼ばれるほど交通の便が悪い。鳥羽~石鏡間の市営定期船が廃止されるのは、パールロードの陸路が整備される昭和50年に入ってからであった。写真は昭和48年7月の石鏡町の集落景観である。集落の前の湾は「前浜」と呼ばれるが、今は公有水面の埋め立てが行われて漁港が整備され、漁業組合が建ち周囲は荷上場となっている。ただ、今もこの堤防の一部は残され、集落と前浜の境には村の人達が「海の神様が祀られている」とか「村を守る神様が海に向かって立っている」と言う石柱が立てられており、海女の祭事「イソオリアワセ」や「カズキオリ」の祭には海女達が供え物を欠かさない。写真手前の崖と海にある道(海岸道路と呼ばれた)がとても狭く、よく波がかかるため、住民は波が引いたタイミングで一気に走り抜けた。写真中央手前の桟橋は巡航船が停泊する場所で、桟橋の左側にある小さな白いコンクリートの小屋が、巡航船の待合室である。写真中央の浜は今は埋め立てられているが、子どもが海水浴をし、禁漁区ではあるがおやつ用のアワビやサザエを獲ることがあった。ヒジキも群生し、豊かな浜だった。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
920 | 石鏡の海女1-3-3 | 石鏡町の海女の帰港風景である。海女漁から帰還するところ。この写真では「子どもの頃、左の堤防から右の堤防まで泳いだ」という話で大いに盛り上がった。写真のように堤防の間を船が通り、白い波が立ったときに合わせて飛び込み、泳ぐのがスリリングで楽しかったが、よく船上の大人に「危ない!」と怒られた。「毎日が海水浴やった」と笑う声もあった。中学校入学までに堤防間を泳ぎきれないと一人前とみなされない、という子どものしきたりもあったようだ。灯台下の大きな船は大敷網の船である。写真中央にある小舟は、岸から船まで移動するのに用いた。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
921 | 石鏡の海女1-3-4 | 石鏡町の海女の帰港風景である。午前の操業を終えたのであろう、石鏡漁港に帰港すた海女船。午後からの操業が残されているからであろう。船は碇を打って艫綱で岸辺に係留されている。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
922 | 石鏡の海女1-3-5 | 一潜目を終え、漁港に戻った海女達はウエットスーツを脱ぎ、潮の躰を真水で洗い午後の二潜目に備えて食事と休息を取る。写真は海女達が躰を洗う共同の水浴場の風景である。石鏡ではウエットスーツの数の制限はなかったが、経済的な事情で、全員が着られるまでには時間がかかった。そんな時期は姑が優先してウエットスーツを着用し、嫁は寒い磯着のままだった。海女さんが着るナカネは着物をばらしたり、布を買ったりして作った。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より)アルバムのデータ記載欄には「水浴場」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
923 | 石鏡の海女1-3-6 | 石鏡町のノリアイ海女の出漁風景である。船頭が櫓を漕ぎ、海女がサオを構えて着岸の角度調整の準備をしている。基本的には夫婦で出漁したが、右の船のように複数人で乗り合わせることもあった。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
924 | 石鏡の海女1-4-1 | 石鏡漁港の景観。 船が浜に到着すると、海女は海女小屋で火にあたる。その間男性たちが船を揚げるが、1隻に5?6人必要だったため互いに助け合った。船の数が多いため1日がかりの仕事だったという。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) アルバムのデータ記載欄には「石鏡 48.7.11」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
925 | 石鏡の海女1-4-2 | 二潜目を終え、帰港した漁船を陸へ引き揚げる準備作業の風景である。外洋に面した石鏡の海は台風は無論、少しの気象の変化でも海はうねり、風波をまともに受ける。船の陸揚げは大切な漁船を守る欠かせない漁師の作業の一つである。石畳の上で男性が拾い上げようとしている丸太は、船を揚げるために敷くコロ(コロバカシともいう)。石畳の黒ずみは油汚れである。左奥の船の近くでは、男性たちがタバコを吸い休憩している。中央の海女さんは上半身裸だが、当時は男女ともに平気で裸で歩いた。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
926 | 石鏡の海女1-4-3 | イソマゲは海女が潜水する時の髪型で、頭髪を上に引きつめ小さく巻き結んだもの。イソグル、サンテマゲとも呼ばれたりする。石鏡の女性は髪を伸ばし、椿油でなでつけて結っていた。観音髷と呼ばれ、海中でもほどけない結い方だった。潜るのに邪魔なので、次第に髪を短くしてパーマをあてるようになったが、最後まで髪が長かったのがこの女性。写真は海女の左側面を写したもの。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) アルバムのデータ記載欄には「石鏡 48.7.11 イソマゲ」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
927 | 石鏡の海女1-4-4 | イソマゲは海女が潜水する時の髪型で、頭髪を上に引きつめ小さく巻き結んだもの。イソグル、サンテマゲとも呼ばれたりする。石鏡の女性は髪を伸ばし、椿油でなでつけて結っていた。観音髷と呼ばれ、海中でもほどけない結い方だった。潜るのに邪魔なので、次第に髪を短くしてパーマをあてるようになったが、最後まで髪が長かったのがこの女性。写真は海女の正面を写したもの。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) アルバムのデータ記載欄には「石鏡 48.7.11 イソマゲ」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
928 | 石鏡の海女1-5-1 | (要調査) | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
929 | 石鏡の海女1-5-2 | 海女を海中から引き上げるためのヒキザオ。先端につけられているのは、海女が海中からヒキザオを視認するための目印。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
930 | 石鏡の海女1-5-3 | 石鏡漁港の船揚場・斜路の海女。まだ、ウエットを身に付け、漁獲物か海女の用具か網袋に入れた物を足下に置いている所を見ると二潜目を終え港に戻り、これから水浴場か市場か自宅に戻るところであろうか。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
931 | 石鏡の海女1-5-4 | フナド(舟人)海女が使うクリイカラ(オモリ石=分銅)。通常、重さは15キロ程。フナドの海女が重りの綱を手に海底までイッキに潜る時に用いる。分銅は石から鉄や鉛製の物へと移り変わっていくが、ここ石鏡町では「トウシイカリ」と呼んだりもするようである。参考文献:『漁の図鑑』海の博物館・1988年発行 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
932 | 石鏡の海女1-5-5 | 海女を海中から引き上げるためのヒキザオ。先端につけられているのは、海女が海中からヒキザオを視認するための目印。目立つように白色であることが多かった。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
933 | 石鏡の海女1-5-6 | トトカカ船(フナド)の海女が使うクリイカラ(オモリ石=分銅)。重さは15キロほどで、海女が重りの綱を手に持ち海底まで一気に潜る。分銅は石から鉄や鉛製の物へと移り変わっていくが、ここ石鏡町では「トウシイカリ」と呼んだりもする。参考文献:『漁の図鑑』海の博物館・1988年発行 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
934 | 石鏡の海女1-6-1 | 石鏡の漁師船(海女船)。エンジンは据え付けられているが、木造船で艪が積み込まれている。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
935 | 石鏡の海女1-6-2 | 石鏡町の集落の最上部付近から石鏡の海域を見た景観である。写真右下に石鏡漁港の防波堤が見える。海上に点在する漁船はこれから出漁する海女船かも知れない。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
936 | 石鏡の海女1-6-3 | 石鏡町の集落の最上部付近から石鏡の海域を見た景観である。写真右下に石鏡漁港の防波堤が見える。海上に点在する漁船はこれから出漁する海女船かも知れない。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
937 | 志島(の風景)2-1-1 | アルバムのデータ記載欄には「48.3.18 志島」と記される。ヒシやタモ等、漁船に積まれた見突き漁の漁具。一連の写真を見ると、タモを使ったナマコ漁の道具かも知れない。 | 志摩市阿児町志島 | 1973.03.18 |
938 | 志島(の風景)2-1-2 | ヒシやタモ等、漁船に積まれた見突き漁の漁具。一連の写真を見ると、タモを使ったナマコ漁の道具かも知れない。 | 志摩市阿児町志島 | 1973.03.18 |
939 | 志島(の風景)2-1-3 | ナマコ。マナマコ(真海鼠)科に分類され、鳥羽・志摩地域では、色によってアカナマコ(アカコ)、アオナマコ(アオコ・ドロコ)、クロナマコ(クロコ)と呼んだりするが、アカナマコが最も喜ばれ高値で取引がされる。産卵期は春~初秋で、体長は20~30㎝程に成長する。本市では夏は禁漁、冬期に海女漁や箱メガネで覗きながら長い竿の先に付けた鉄鉤で引っかけるコガケ漁が主である。アオナマコやクロナマコは煎海鼠(イリコ)に加工されるものもあるが、アカナマコはその殆どが生食として消費される。また、海鼠腸(コノワタ)を塩漬けにした塩辛や、乾燥させたクチコは珍味中の珍味として酒の肴に重宝される。【参考文献】『海の図鑑』海の博物館編・1988年発行 | 志摩市阿児町志島 | 1973.03.18 |
940 | 志島(の風景)2-1-4 | 水揚げされたナマコ。マナマコ(真海鼠)科に分類され、鳥羽・志摩地域では、色によってアカナマコ(アカコ)、アオナマコ(アオコ・ドロコ)、クロナマコ(クロコ)と呼んだりするが、アカナマコが最も喜ばれ高値で取引がされる。 | 志摩市阿児町志島 | 1973.03.18 |
941 | 志島(の風景)2-1-5 | 水揚げされたナマコ。マナマコ(真海鼠)科に分類され、鳥羽・志摩地域では、色によってアカナマコ(アカコ)、アオナマコ(アオコ・ドロコ)、クロナマコ(クロコ)と呼んだりするが、アカナマコが最も喜ばれ高値で取引がされる。 | 志摩市阿児町志島 | 1973.03.18 |
942 | 志島(の風景)2-1-6 | アラメかカジメに類するものだろうか、海藻が生える磯場の風景。 | 志摩市阿児町志島 | 1973.03.18 |
943 | 志島(の風景)2-2-1 | 見突き漁の漁船。漁を一終えしたのだろう、船外機のエンジンをかける漁師の側に見突き漁の用具が、舳先の方には箱メガネと思われる物も写されている。 | 志摩市阿児町志島 | 1973.03.18 |
944 | 志島(の風景)2-2-2 | 見突き漁の漁船。漁を一終えしたのだろう、船外機のエンジンをかけ、漁場を移動する漁師。側に見突き漁の用具が、舳先の方には箱メガネと思われる物も写されている。 | 志摩市阿児町志島 | 1973.03.18 |
945 | 志島(の風景)2-2-3 | ナマコを運ぶ漁師。№940に写るナマコの入った木桶と一斗缶であろう。両手に持って出荷先へ向かうのか自宅へ戻るのか堤防を急ぐ漁師。 | 志摩市阿児町志島 | 1973.03.18 |
946 | 志島(の風景)2-2-4 | 志島の集落景観か? 浜辺から消波ブロックと配水口と堤防を経て人家を望む。 | 志摩市阿児町志島 | 1973.03.18 |
947 | 志島(の風景)2-2-5 | 志島の海岸風景?消波ブロックの前に二人の人物を乗せた小舟が一艘写されているが、見突き漁ではなさそうである。(要調査) | 志摩市阿児町志島 | 1973.03.18 |
948 | 志島(の風景)2-2-6 | 志島の集落景観か? 海岸線のすぐ前から斜面に沿って人家が密集して建ち並ぶ。 | 志摩市阿児町志島 | 1973.03.18 |
949 | 志島(の風景)2-3-1 | 水揚げされたナマコ。マナマコ(真海鼠)科に分類され、鳥羽・志摩地域では、色によってアカナマコ(アカコ)、アオナマコ(アオコ・ドロコ)、クロナマコ(クロコ)と呼んだりするが、アカナマコが最も喜ばれ高値で取引がされる。 | 志摩市阿児町志島 | 1973.03.18 |
950 | 石鏡の海女(複写写真)2-4-1 | ウエットスーツが導入される前の、白い磯着で海女漁をしていた時期である。裸や磯着で潜るととても寒く、気を失う人もいたそうだ。トトカカ船(フナドとも呼ばれる、夫婦での出漁)が一般的だった。木製の無動力船や、船尾の操作棒を上下させプロペラを回すしくみの動力船がみられる。海女が腰に着用しているのはナカネ(ターナカネともいう)。写真後方の、海に突き出した足場は巡航船乗り場である。また写真左の崖は現在(2023年)コンクリートで整備されているが、当時の子どもは崖の道をつたって白浜方面まで歩いて遊ぶこともあった。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) アルバムのデータ記載欄には「S30年代の石鏡海女の出漁/平成3.6月市立図書館より複写」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1955~1964年頃 |
951 | 石鏡の海女(複写写真)2-4-2 | ウエットスーツが国崎で着用され始めるのは昭和39年頃(『鳥羽市史 下巻』)からとされるが、まだ海女達は全員磯着姿である。アルバムのデータ記載欄には「S30年代の石鏡海女の出漁/平成3.6月市立図書館より複写」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1955~1964年頃 |
952 | 石鏡の海女(複写写真)2-4-3 | ウエットスーツが国崎で着用され始めるのは昭和39年頃(『鳥羽市史 下巻』)からとされるが、まだ海女達は全員磯着姿である。アルバムのデータ記載欄には「S30年代の石鏡海女の出漁/平成3.6月市立図書館より複写」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1955~1964年頃 |
953 | 菅島(しろんご祭)3-4-1 | アルバムのデータ記載欄には「48.7.10 菅島」と記される。麦藁帽子を被る男性は漁協の職員だろうか、手には鮑の大きさを測るスントリが握られている。「しろんご祭」は、例年旧暦6月11日に菅島町で行われてきた海女の祭事である。現在は菅島神社に合祀されているが、字白浜に祀られていた「白の宮(シロノゴさん)」の祭事で、白髭大明神祭とも言い竜神信仰の祭とされる。700年ほどの昔、菅島に現れた白蛇を竜神の使いと崇め、以来大漁と海上安全を祈願したのが始まりと言われる。祭日の朝、禁漁区とされている白浜に島内の海女が集まり、ホラ貝の合図で一斉に海に入り鮑をとる。黒・赤つがいの鮑が「掛けの魚」として神前に供えられるが、このつがいの鮑を最初にとった海女は「海女頭」として一年中尊敬される。鳥羽市の無形民俗文化財に指定されている。参考文献:鳥羽市編・発行『鳥羽市史 下巻』平成3年発行 | 鳥羽市菅島町 | 1973.07.10 |
954 | 菅島(しろんご祭)3-4-2 | 漁を終え浜に上がってきた海女。ウエットスーツは着けずに磯着のままである。磯桶には獲ってきた鮑が少しだけ顔を出している。この後しろんご祭の集荷場へと向かう。 | 鳥羽市菅島町 | 1973.07.10 |
955 | 菅島(しろんご祭)3-4-3 | 漁を終え浜に上がってきた海女。ウエットスーツは着けずに磯着のままである。磯桶には磯眼鏡と手袋、鮑が入れられている。この後しろんご祭の集荷場へと向かう。 | 鳥羽市菅島町 | 1973.07.10 |
956 | 菅島(しろんご祭)3-4-4 | 漁を終え磯桶を抱えて浜に上がってきた海女。ウエットスーツは着けずに磯着のままである。この後しろんご祭の集荷場へと向かう。 | 鳥羽市菅島町 | 1973.07.10 |
957 | 菅島(しろんご祭)3-4-5 | この日は、県内外からも多くのカメラマンや民俗調査を志す人々が集まる。島の人達にとっても年一度の祭りで、踊りの披露や振る舞い、神社への参拝など島の子供達も集まり、賑やかな一日となる。 | 鳥羽市菅島町 | 1973.07.10 |
958 | 菅島(しろんご祭)3-4-6 | この日は、県内外からも多くのカメラマンや民俗調査を志す人々が集まる。島の人達にとっても年一度の祭りで、踊りの披露や振る舞い、神社への参拝など島の子供達も集まり、賑やかな一日となる。 | 鳥羽市菅島町 | 1973.07.10 |
959 | 菅島(しろんご祭)3-5-1 | この日は、県内外からも多くのカメラマンや民俗調査を志す人々が集まる。島の人達にとっても年一度の祭りで、踊りの披露や振る舞い、神社への参拝など島の子供達も集まり、賑やかな一日となる。神社の登り口には「奉納 白髭大明神 菅島町惣助丸/奉納 白髭大明神 鳥羽樋の山扇芳閣」の幟が立てられている。 | 鳥羽市菅島町 | 1973.07.10 |
960 | 菅島(しろんご祭)3-5-2 | 漁を終え、祭の集荷場へ鮑や栄螺を持ってきた海女。この日獲った鮑や栄螺は全て漁協組合に差し出され、白髭神社の収入とされたが、近年は水揚げの何割かを神社資金として差し出す形に変化してきていると言う。 | 鳥羽市菅島町 | 1973.07.10 |
961 | 菅島(しろんご祭)3-5-3 | 漁を終え、祭の集荷場へ鮑や栄螺を持ってきた海女。この日獲った鮑や栄螺は全て漁協組合に差し出され、白髭神社の収入とされたが、近年は水揚げの何割かを神社資金として差し出す形に変化してきていると言う。 | 鳥羽市菅島町 | 1973.07.10 |
962 | 菅島(しろんご祭)3-5-4 | 漁を終え、祭の集荷場へ鮑や栄螺を持ってきた海女。この日獲った鮑や栄螺は全て漁協組合に差し出され、白髭神社の収入とされたが、近年は水揚げの何割かを神社資金として差し出す形に変化してきていると言う。 | 鳥羽市菅島町 | 1973.07.10 |
963 | 菅島(しろんご祭)3-5-5 | 漁を終え、磯眼鏡を手に磯桶を抱えて浜に上がってきた海女。ウエットスーツは着けずに磯着のままである。この後しろんご祭の集荷場へと向かう。 | 鳥羽市菅島町 | 1973.07.10 |
964 | 菅島(しろんご祭)3-5-6 | この日は、県内外からも多くのカメラマンや民俗調査を志す人々が集まる。島の人達にとっても年一度の祭りで、踊りの披露や振る舞い、神社への参拝など島の子供達も集まり、賑やかな一日となる。 | 鳥羽市菅島町 | 1973.07.10 |
965 | 菅島(しろんご祭)3-6-1 | 漁を終え、浜へと帰ってくる海女達。ウエットスーツは着けずに磯着のままである。この後しろんご祭の集荷場へと向かう。 | 鳥羽市菅島町 | 1973.07.10 |
966 | 菅島(しろんご祭)3-6-2 | 漁を終え、浜へと帰ってきた海女。磯手拭いの額の部分には、海女達が魔除けと信じる「セーマン」の文様が縫い込まれている。 | 鳥羽市菅島町 | 1973.07.10 |
967 | 菅島(しろんご祭)3-6-3 | 海女が使用するノミと手袋。ノミの柄の部分には、海女達が魔除けと信じる「セーマン」の文様が彫り込まれている。 | 鳥羽市菅島町 | 1973.07.10 |
968 | 菅島(しろんご祭)3-6-4 | 海女が使用するノミと手袋。ノミの柄の部分に彫り込まれた「セーマン」の裏側には「ドーマン」の文様が彫り込まれている。 | 鳥羽市菅島町 | 1973.07.10 |
969 | 菅島(しろんご祭)4-2-1 | 漁を終え磯桶を抱えて浜に上がってきた海女。この後しろんご祭の集荷場へと向かう。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
970 | 菅島(しろんご祭)4-2-2 | 漁を終え磯桶を抱えて浜に上がってきた海女。この後しろんご祭の集荷場へと向かう。磯桶には獲ってはいけない鮑の大きさを計測するスントリが結わえられている。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
971 | 菅島(しろんご祭)4-2-3 | 祭事を終えると海女達は来た時と同様に磯桶道具を入れ、おもいおもいに帰途に着く。昔ながらの磯桶を使用する年配の海女達は、道具を入れた桶を頭上に乗せて運搬する。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
972 | 菅島(しろんご祭)4-2-4 | 祭事を終えると海女達は来た時と同様に磯桶道具を入れ、おもいおもいに帰途に着く。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
973 | 菅島(しろんご祭)4-2-5 | 祭事を終えると海女達は帰途の準備を進める。足下には磯桶と磯眼鏡を保管する木製の眼鏡箱が写されている。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
974 | 菅島(しろんご祭)4-2-6 | 大漁旗を立てた菅島の漁船。しろんご祭りが行われる白浜の沖合で、これらの漁船が海女達の操業を見守る。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
975 | 菅島(しろんご祭)4-3-1 | 漁を終え、浜へと帰ってきた海女。磯手拭いの額の部分には、海女達が魔除けと信じる「セーマン」が縫い込まれている。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
976 | 菅島(しろんご祭)4-3-2 | 漁を終え、浜へと帰ってきた海女。磯手拭いの額の部分には、海女達が魔除けと信じる「セーマン」が縫い込まれている。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
977 | 菅島(しろんご祭)4-3-3 | 漁を終え、浜へと帰ってきた海女。磯手拭いの額の部分には、海女達が魔除けと信じる「セーマン」が縫い込まれている。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
978 | 菅島(しろんご祭)4-3-4 | 漁を終え、浜へと帰ってきた海女。磯手拭いの額の部分には、海女達が魔除けと信じる「セーマン」が縫い込まれている。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
979 | 菅島(しろんご祭)4-3-5 | 漁を終え、浜へと帰ってきた海女。磯手拭いの額の部分には、海女達が魔除けと信じる「セーマン」が縫い込まれている。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
980 | 菅島(しろんご祭)4-3-6 | 漁を終え、祭の集荷場へ鮑や栄螺を持ってきた海女達。この日獲った鮑や栄螺は全て漁協組合に差し出され、白髭神社の収入とされたが、近年は水揚げの何割かを神社資金として差し出す形に変化してきていると言う。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
981 | 菅島(しろんご祭)4-4-1 | 白浜の裾に建てられた白鬚神社の一ノ鳥居。この鳥居の左上、小高い丘の上に社殿が建てられている。「奉納 白鬚大明神」と記された幟が立てられている。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
982 | 菅島(しろんご祭)4-4-2 | 大漁旗を立てた菅島の漁船。しろんご祭りが行われる白浜の沖合で、これらの漁船が海女達の操業を見守る。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
983 | 菅島(しろんご祭)4-4-3 | しろんご祭の操業風景。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
984 | 菅島(しろんご祭)4-4-4 | しろんご祭の操業風景。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
985 | 菅島(しろんご祭)4-4-5 | しろんご祭の海女。ウエットスーツは付けず、磯着姿である。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
986 | 菅島(しろんご祭)4-4-6 | しろんご祭の海女。ウエットスーツは付けず、磯着姿である。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
987 | 菅島取材4-5-1 | 海女が使用するノミ。ノミの柄の部分には、海女達が魔除けと信じる「ドーマン」の文様が彫り込まれている。 | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
988 | 菅島取材4-5-2 | 海女が使用するノミ。ノミの柄の部分に彫り込まれた「ドーマン」の裏側には「セーマン」の文様が彫り込まれている。 | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
989 | 菅島取材4-5-3 | 海女が使用するノミ。ノミの柄の部分に彫り込まれた「ドーマン」の裏側には「セーマン」の文様が彫り込まれている。 | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
990 | 菅島取材4-5-4 | 海女が使用するノミと磯手拭い。ノミの柄の部分に彫り込まれた「セーマン」。磯手拭いにも丁度額に来る部分に「セーマン」の文様が縫い込まれている。 | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
991 | 菅島取材4-5-5 | 海女が使用するノミと磯手拭い。ノミの柄の部分に彫り込まれた「セーマン」。磯手拭いにも丁度額に来る部分に「セーマン」の文様が縫い込まれている。 | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
992 | 菅島取材4-5-6 | アルバムのデータ記載欄には「呪符のノミ、手拭をもつ海女」と記される。ノミと磯手拭いを手にする婦人。かなりの年配であるが、長い間使い続けてきた道具であろう、まだ現役の海女かも知れない。 | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
993 | 菅島取材4-5-7 | アルバムのデータ記載欄には「呪符のノミ、手拭をもつ海女」と記される。ノミと磯手拭いを手にする婦人。かなりの年配であるが、長い間使い続けてきた道具であろう、まだ現役の海女かも知れない。 | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
994 | 菅島取材4-6-1 | 海女が使用する磯手拭い。磯手拭いの丁度額に来る部分に「セーマン」の文様が縫い込まれている。 | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
995 | 菅島取材4-6-2 | 海女が使用する磯手拭い。磯手拭いの丁度額に来る部分に「セーマン」の文様が縫い込まれている。 | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
996 | 菅島取材4-6-3 | 海女が使用するノミ。ノミの柄の部分には、海女達が魔除けと信じる「セーマン」の文様が彫り込まれている。 | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
997 | 菅島取材4-6-4 | 海女が使用するノミと磯手拭い。ノミの柄の部分に彫り込まれた「ドーマン」。磯手拭いにも丁度額に来る部分に「セーマン」の文様が縫い込まれている。 | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
998 | 菅島取材4-6-5 | 海浜に打ち寄せられた木臼だろうか?。(要調査) | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
999 | 菅島取材4-6-6 | 海浜に打ち寄せられた木臼だろうか?。(要調査) | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
1000 | 菅島取材5-1-1 | 菅島漁港の船揚場に引き揚げられた漁船。 | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
1001 | 菅島取材5-1-2 | 注連縄。セーマン、ドーマンの文様を描いた木札、ウラジロ、ホンダワラ等の海藻が付けられた菅島の注連縄。 | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
1002 | 菅島取材5-1-3 | 菅島の島内風景。磯の帰りか、畑からの帰りか年配の婦人がフゴ(イジコ)を背負い、路地を行く。 | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
1003 | 菅島取材5-1-4 | 玄関の上に貼られたお札。「年祭御祈祷■■ 青峯山正福寺」/「奉轉讀大般若六百軸家内安全如意吉祥攸 金洞山冷泉寺」/「■■鈴木圓蔵」/「護摩供養札 成田山新勝寺」/「■・・・■諸縁吉利祈攸」/「奉祈念不動明王守護攸 金洞山冷泉寺」等のお札が貼られる。 | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
1004 | 菅島取材5-1-5 | 玄関の上に貼られたお札。「年祭御祈祷■■ 青峯山正福寺」/「奉轉讀大般若六百軸家内安全如意吉祥攸 金洞山冷泉寺」/「■■鈴木圓蔵」/「護摩供養札 成田山新勝寺」/「■・・・■諸縁吉利祈攸」/「奉祈念不動明王守護攸 金洞山冷泉寺」等のお札が貼られる。 | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
1005 | 菅島取材5-1-6 | 玄関の上に貼られたお札。「年祭御祈祷■■ 青峯山正福寺」/「奉轉讀大般若六百軸家内安全如意吉祥攸 金洞山冷泉寺」/「■■鈴木圓蔵」/「護摩供養札 成田山新勝寺」/「■・・・■諸縁吉利祈攸」/「奉祈念不動明王守護攸 金洞山冷泉寺」等のお札が貼られる。 | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
1006 | 菅島取材5-2-1 | コウナゴの抄い網漁に用いる鵜竿(ウザオ)。この伝統漁法を「エースキィ」と言うが、漁期は厳冬から春3月いっぱいまで。島近くに寄ってきたコウナゴが、海鳥の襲来に驚いて団子状になったところを長径2m程もある大ダマで抄い獲る。この漁で欠かせないのが、コウナゴを一カ所に集めてくれる海鳥と、魚群に接近してから脅しに使う「鵜竿」で、竿の先に鵜の羽をしばり付けた道具である。【参考文献】『海の図鑑』海の博物館編・1988年発行 | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
1007 | 菅島取材5-2-2 | 刺網を繕う漁師。岩礁域に仕掛ける刺網は、引き揚げるときに岩に引っかかって切れたり、蟹が鋏で網糸を傷つけたりすることから、常に修繕が必要になる。漁師達は仕事の合間を縫って、「アバリ」と呼ぶ独特の道具を使って破れた網を繕っていく。写真の漁師が右手に持つのが「アバリ」である。 | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
1008 | 菅島取材5-2-3 | 今では見ることも少なくなってきた首くくり式の素焼きのタコツボである。地域によっては「タコガメ」と呼んだりもするが、常滑や三州製のものが多く、大・中・小の大きさがある。タコはきれいな住処を好むと言われ、海中から引き揚げられたタコツボは、海藻やフジツボ等を取り除く作業が行われる。今は壊れにくいプラスチック製のタコツボや、タコ以外の漁獲物も獲れるタコ篭などを使う漁師が多くなっていると言う。【参考文献】『海の図鑑』海の博物館編・1988年発行 | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
1009 | 菅島取材5-2-4 | 今では見ることも少なくなってきた首くくり式の素焼きのタコツボである。地域によっては「タコガメ」と呼んだりもするが、常滑や三州製のものが多く、大・中・小の大きさがある。タコはきれいな住処を好むと言われ、海中から引き揚げられたタコツボは、海藻やフジツボ等を取り除く作業が行われる。今は壊れにくいプラスチック製のタコツボや、タコ以外の漁獲物も獲れるタコ篭などを使う漁師が多くなっていると言う。【参考文献】『海の図鑑』海の博物館編・1988年発行 | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
1010 | 菅島取材5-2-5 | 注連縄。各家庭の注連縄は「年神様」を祀るための依り代(目印)となるもので、邪気を払い神域を示す紙垂(しで)、子孫繁栄を象徴するダイダイやユズリハ、誠実・清廉潔白を象徴するウラジロ等が添えられることが多い。全国的には小正月の後に外されることが多いようであるが、鳥羽では一年中飾られるところが多く、その家に不幸事が起こるまで毎年新しい注連縄を重ねられていく所もある。最近は、市販されている物を飾る家が多くなったが、以前はどこの家でも家人が思いを込めて作ったものである。木札の表には「七福即生 七難即滅 蘇民将来子孫門」、裏には「急々如律令」と「魔除印=ドーマン・セーマン」が記される。 | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
1011 | 菅島取材5-2-6 | (要調査) | 鳥羽市菅島町 | 1975.11.17 |
1012 | 菅島しろんご祭(複写写真)5-3-1 | 写真は紙焼き写真からの複写写真であるが、旧所蔵者及び撮影年代、撮影者などは明らかにされていない。「しろんご祭」は、例年旧暦6月11日に菅島町で行われてきた海女の祭事である。現在は菅島神社に合祀されているが、字白浜に祀られていた「白の宮(シロノゴさん)」の祭事で、白髭大明神祭とも言い竜神信仰の祭とされる。700年ほどの昔、菅島に現れた白蛇を竜神の使いと崇め、以来大漁と海上安全を祈願したのが始まりと言われる。祭日の朝、禁漁区とされている白浜に島内の海女が集まり、ホラ貝の合図で一斉に海に入り鮑をとる。黒・赤つがいの鮑が「掛けの魚」として神前に供えられるが、このつがいの鮑を最初にとった海女は「海女頭」として一年中尊敬される。鳥羽市の無形民俗文化財に指定されている。参考文献:鳥羽市編・発行『鳥羽市史 下巻』平成3年発行 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
1013 | 菅島しろんご祭(複写写真)5-3-2 | 菅島のシロンゴ祭。操業開始の合図が出され、一年間止め磯になっていた白浜(通称シロンゴの浜)から一斉に海に入る海女達。写真は紙焼き写真からの複写写真であるが、旧所蔵者及び撮影年代、撮影者などは明らかにされていない。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
1014 | 菅島しろんご祭(複写写真)5-3-3 | 白い磯着が濡れている所を見ると、一潜目を終えたところだろうか。菅島は鳥羽でも、最もウエットスーツの着用が遅かった地域である。写真は紙焼き写真からの複写写真であるが、旧所蔵者及び撮影年代、撮影者などは明らかにされていない。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
1015 | 菅島しろんご祭(複写写真)5-3-4 | 白い磯着が濡れている所を見ると、一潜目を終えたところだろうか。菅島は鳥羽でも、最もウエットスーツの着用が遅かった地域である。写真は紙焼き写真からの複写写真であるが、旧所蔵者及び撮影年代、撮影者などは明らかにされていない。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
1016 | 菅島しろんご祭(複写写真)5-3-5 | 菅島しろんご祭。写真は紙焼き写真からの複写写真であるが、旧所蔵者及び撮影年代、撮影者などは明らかにされていない。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
1017 | 菅島しろんご祭(複写写真)5-3-6 | 菅島しろんご祭。写真は紙焼き写真からの複写写真であるが、旧所蔵者及び撮影年代、撮影者などは明らかにされていない。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
1018 | 菅島しろんご祭(複写写真)5-4-1 | 菅島しろんご祭。海上安全と大漁を祈る。写真は紙焼き写真からの複写写真であるが、旧所蔵者及び撮影年代、撮影者などは明らかにされていない。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
1019 | 菅島しろんご祭(複写写真)5-4-2 | 菅島しろんご祭。写真は紙焼き写真からの複写写真であるが、旧所蔵者及び撮影年代、撮影者などは明らかにされていない。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
1020 | 菅島しろんご祭(複写写真)5-4-3 | 菅島しろんご祭。写真は紙焼き写真からの複写写真であるが、旧所蔵者及び撮影年代、撮影者などは明らかにされていない。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
1021 | 菅島しろんご祭(複写写真)5-4-4 | 菅島しろんご祭。写真は紙焼き写真からの複写写真であるが、旧所蔵者及び撮影年代、撮影者などは明らかにされていない。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
1022 | 菅島しろんご祭(複写写真)5-4-5 | 菅島しろんご祭。祭が終わると、海女達は海女の用具を磯桶に入れ、頭に頂いて帰宅する。写真は紙焼き写真からの複写写真であるが、旧所蔵者及び撮影年代、撮影者などは明らかにされていない。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
1023 | 菅島しろんご祭(複写写真)5-4-6 | 菅島しろんご祭。焚火を囲み冷えた躰を温める。写真は紙焼き写真からの複写写真であるが、旧所蔵者及び撮影年代、撮影者などは明らかにされていない。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
1024 | 菅島しろんご祭(複写写真)5-5-1 | 菅島しろんご祭。写真は紙焼き写真からの複写写真であるが、旧所蔵者及び撮影年代、撮影者などは明らかにされていない。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
1025 | 菅島しろんご祭(複写写真)5-5-2 | 菅島しろんご祭。焚火を囲み冷えた躰を温める。写真は紙焼き写真からの複写写真であるが、旧所蔵者及び撮影年代、撮影者などは明らかにされていない。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
1026 | 菅島しろんご祭(複写写真)5-5-3 | 菅島しろんご祭。祭を終えたのだろう。帰宅の準備をする海女達。写真は紙焼き写真からの複写写真であるが、旧所蔵者及び撮影年代、撮影者などは明らかにされていない。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
1027 | 菅島しろんご祭(複写写真)5-5-4 | 菅島しろんご祭。海女達が獲ってきた鮑や栄螺を集める祭の集荷場。写真は紙焼き写真からの複写写真であるが、旧所蔵者及び撮影年代、撮影者などは明らかにされていない。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
1028 | 菅島しろんご祭(複写写真)5-6-1 | 菅島のシロンゴ祭。操業開始の合図が出され、一年間止め磯になっていた白浜(通称シロンゴの浜)から一斉に海に入る海女達。写真は紙焼き写真からの複写写真であるが、旧所蔵者及び撮影年代、撮影者などは明らかにされていない。 | 鳥羽市菅島町 | (不明) |
1029 | 石鏡の進水式様子11-2-1 | 船上には「祝大漁 鳥羽市石鏡町漁業協同組合」/「大漁 第五三忠丸 本浦大工村田正一」/「大漁 鳥羽市石鏡町 己徳造船所」/「祝 三忠丸 鳥羽市桃取町小浦嘉三」等と記された大漁旗が見える。アルバムのデータ記載欄には「石鏡 49.1.20」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1974.01.20 |
1030 | 石鏡の進水式様子11-2-2 | 船上には「祝大漁 鳥羽市石鏡町漁業協同組合」/「大漁 第五三忠丸 本浦大工村田正一」/「大漁 鳥羽市石鏡町 己徳造船所」/「祝 三忠丸 鳥羽市桃取町小浦嘉三」等と記された大漁旗が見える。アルバムのデータ記載欄には「49.1.20」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1974.01.20 |
1031 | 石鏡の進水式様子11-2-3 | 船上には「祝大漁 鳥羽市石鏡町漁業協同組合」/「大漁 第五三忠丸 本浦大工村田正一」/「大漁 鳥羽市石鏡町 己徳造船所」/「祝 三忠丸 鳥羽市桃取町小浦嘉三」等と記された大漁旗が見える。アルバムのデータ記載欄には「49.1.20」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1974.01.20 |
1032 | 石鏡の進水式様子11-2-4 | 船上には「祝大漁 鳥羽市石鏡町漁業協同組合」/「大漁 第五三忠丸 本浦大工村田正一」/「大漁 鳥羽市石鏡町 己徳造船所」/「祝 三忠丸 鳥羽市桃取町小浦嘉三」等と記された大漁旗が見える。アルバムのデータ記載欄には「49.1.20」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1974.01.20 |
1033 | 石鏡の進水式様子11-3-1 | 漁港で遊ぶ子供達。アルバムのデータ記載欄には「石鏡の進水式様子 49.1.20」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1974.01.20 |
1034 | 石鏡の進水式様子11-3-2 | 石鏡漁港の堤防から見た集落景観。写真右側の手前に広がる海は、今は埋め立てられて漁港の荷上場となっている。アルバムのデータ記載欄には「49.1.20」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1974.01.20 |
1035 | 石鏡の進水式様子11-3-3 | 船上には「祝大漁 鳥羽市石鏡町漁業協同組合」/「大漁 第五三忠丸 本浦大工村田正一」/「大漁 鳥羽市石鏡町 己徳造船所」/「祝 三忠丸 鳥羽市桃取町小浦嘉三」等と記された大漁旗が見える。アルバムのデータ記載欄には「石鏡の進水式様子 49.1.20」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1974.01.20 |
1036 | 石鏡の進水式様子11-3-4 | 船上には「祝大漁 鳥羽市石鏡町漁業協同組合」/「大漁 第五三忠丸 本浦大工村田正一」/「大漁 鳥羽市石鏡町 己徳造船所」/「祝 三忠丸 鳥羽市桃取町小浦嘉三」等と記された大漁旗が見える。アルバムのデータ記載欄には「石鏡の進水式様子 49.1.20」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1974.01.20 |
1037 | 石鏡の進水式様子11-3-5 | 船上には「祝大漁 鳥羽市石鏡町漁業協同組合」/「大漁 第五三忠丸 本浦大工村田正一」/「大漁 鳥羽市石鏡町 己徳造船所」/「祝 三忠丸 鳥羽市桃取町小浦嘉三」等と記された大漁旗が見える。アルバムのデータ記載欄には「石鏡の進水式様子 49.1.20」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1974.01.20 |
1038 | 石鏡11-4-1 | 海を眺める年配の男性。アルバムのデータ記載欄には「石鏡」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (不明) |
1039 | 石鏡11-4-2 | 石鏡の海岸堤防。(具体的な場所は要調査) アルバムのデータ記載欄には「石鏡」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (不明) |
1040 | 石鏡11-4-3 | 画像№1039と同じ石鏡の海岸堤防である。崖と浜の間の狭い道路を歩く住民。写真左にあるのはゴミの焼却炉である。男性が担いでいるのは、木製のトロ箱(海産物を入れる箱)。子どもたちはこの狭い堤防沿いを走り回り、ときに危ないと怒られることがあった。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) | 鳥羽市石鏡町 | (不明) |
1041 | 石鏡11-4-4 | 女性の首から提げられた真鍮製らしきお守りには「三重縣志摩國本尊十一面観世音 青峯山正福寺」と記されている。青峯山正福寺は真言宗高野山派の寺院であるが、地元では「あおのみねさん」の愛称で親しまれ、海女や漁業者をはじめ海と係わる人々からは海上安全の祈願寺として深く信仰される。開基は天武天皇天平勝宝年中に僧行基が伊勢神宮に参詣したおり、神託を受けこの地に伽藍を築いたのが始まりだと伝えられる。本尊は相差村白浜の海中から鯨が運んできたという十一面観世音菩薩である。アルバムのデータ記載欄には「石鏡 おまもり」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (不明) |
1042 | 石鏡11-4-5 | 女性の首から提げられた木製のお守りは、長い間使い続けているのか摩耗して図柄や文字は判読しずらいが、海女や海を生業とする人々の信仰の深さがわかる。アルバムのデータ記載欄には「石鏡 お守り」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (不明) |
1043 | 石鏡11-4-6 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。船揚げが終わり、すべての船がきれいに並んだ状態。当時は一家に1?3隻(海女船、網船、ノリ養殖をしていた家はノリ用の船)あったため「とんでもない船の多さ」だった。子どもたちは船の間でかくれんぼをして遊ぶことがあった。ウエットスーツが干された船もみえる。写真右にあるコンクリートの建物は市場で、その背後、崖沿いに並ぶのが海女小屋。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) アルバムのデータ記載欄には「石鏡港」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (不明) |
1044 | 石鏡の進水式様子11-5-1 | 船上には「祝大漁 鳥羽市石鏡町漁業協同組合」/「大漁 第五三忠丸 本浦大工村田正一」/「大漁 鳥羽市石鏡町 己徳造船所」/「祝 三忠丸 鳥羽市桃取町小浦嘉三」等と記された大漁旗が見える。アルバムのデータ記載欄には「石鏡 船下ろし 49.1.20」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1974.01.20 |
1045 | 石鏡の進水式様子11-5-2 | 船上には「祝大漁 鳥羽市石鏡町漁業協同組合」/「大漁 第五三忠丸 本浦大工村田正一」/「大漁 鳥羽市石鏡町 己徳造船所」/「祝 三忠丸 鳥羽市桃取町小浦嘉三」等と記された大漁旗が見える。アルバムのデータ記載欄には「石鏡 船下ろし 49.1.20」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1974.01.20 |
1046 | 石鏡の進水式様子11-5-3 | 船上には「祝大漁 鳥羽市石鏡町漁業協同組合」/「大漁 第五三忠丸 本浦大工村田正一」/「大漁 鳥羽市石鏡町 己徳造船所」/「祝 三忠丸 鳥羽市桃取町小浦嘉三」等と記された大漁旗が見える。アルバムのデータ記載欄には「石鏡 船下ろし 49.1.20」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1974.01.20 |
1047 | 石鏡の進水式様子11-5-4 | 新造船の家族だろうか。男の子が堤防から立ち小便をしている。アルバムのデータ記載欄には「石鏡 船下ろし 49.1.20」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1974.01.20 |
1048 | 石鏡の進水式様子11-5-5 | 船上には「祝大漁 鳥羽市石鏡町漁業協同組合」/「大漁 第五三忠丸 本浦大工村田正一」/「大漁 鳥羽市石鏡町 己徳造船所」/「祝 三忠丸 鳥羽市桃取町小浦嘉三」等と記された大漁旗が見える。アルバムのデータ記載欄には「石鏡 船下ろし 49.1.20」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1974.01.20 |
1049 | 石鏡の進水式様子11-5-6 | 船上には「祝大漁 鳥羽市石鏡町漁業協同組合」/「大漁 第五三忠丸 本浦大工村田正一」/「大漁 鳥羽市石鏡町 己徳造船所」/「祝 三忠丸 鳥羽市桃取町小浦嘉三」等と記された大漁旗が見える。アルバムのデータ記載欄には「石鏡 船下ろし 49.1.20」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1974.01.20 |
1050 | 石鏡の進水式様子11-6-1 | 船上には「祝大漁 鳥羽市石鏡町漁業協同組合」/「大漁 第五三忠丸 本浦大工村田正一」/「大漁 鳥羽市石鏡町 己徳造船所」/「祝 三忠丸 鳥羽市桃取町小浦嘉三」等と記された大漁旗が見える。アルバムのデータ記載欄には「船下ろし 石鏡 49.1.20」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1974.01.20 |
1051 | 石鏡の進水式様子11-6-2 | 石鏡の集落景観であるが、写真中央左寄りに「清酒多聞 料理旅館江本屋」の看板が見える。アルバムのデータ記載欄には「船下ろし 49.1.20」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1974.01.20 |
1052 | 石鏡の進水式様子11-6-3 | アルバムのデータ記載欄には「伊豆の模型船 49.1.20」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1974.01.20 |
1053 | 石鏡の進水式様子11-6-4 | アルバムのデータ記載欄には「49.1.20」と記される。伊豆の模型船。№1052と同じ。 | 鳥羽市石鏡町 | 1974.01.20 |
1054 | 石鏡の進水式様子11-6-5 | アルバムのデータ記載欄には「49.1.20」と記される。伊豆の模型船。№1052と同じ。 | 鳥羽市石鏡町 | 1974.01.20 |
1055 | 石鏡の進水式様子11-6-6 | アルバムのデータ記載欄には「49.1.20」と記される。漁港で遊ぶ子供。№1033と同じ。 | 鳥羽市石鏡町 | 1974.01.20 |
1056 | 石鏡海女の出漁12-1-1 | 鳥羽市商工観光課の昭和48年11月1日現在(2023年)『鳥羽市海女就業者綴』によれば、石鏡の海女人数は241人。舟人71人、徒人160人、ノリアイ10人と記載されている。アルバムのデータ記載欄には「48.7.11 石鏡海女の出漁柄 ニコンF 榊原」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1057 | 石鏡海女の出漁12-1-3 | 海女達が着替えを済ませて港に来る前に、船頭達は出漁の準備を済ませる。石鏡漁港の北側から南側を撮影した写真であるが、今は漁港整備によって埋め立てられ、手前の船揚場や海面部分は石鏡漁港の荷上場になっている。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1058 | 石鏡海女の出漁12-1-4 | 石鏡漁港の港内風景。市営定期船が廃止されるのは、パールロードが整備された昭和50年に入ってからである。カメラを手に持って女性が立つ突堤は、市営定期船の発着場かも知れない。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1059 | 石鏡海女の出漁12-1-5 | 石鏡漁港の港内風景。市営定期船が廃止されるのは、パールロードが整備された昭和50年に入ってからである。写真左上の突堤は、市営定期船の発着場かも知れない。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1060 | 石鏡海女の出漁12-1-6 | 石鏡漁港の港内風景。市営定期船が廃止されるのは、パールロードが整備された昭和50年に入ってからである。写真左上の突堤は、市営定期船の発着場かも知れない。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1061 | 石鏡海女の出漁12-2-1 | 石鏡漁港の港内風景。市営定期船が廃止されるのは、パールロードが整備された昭和50年に入ってからである。写真中央左の突堤は、市営定期船の発着場かも知れない。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1062 | 石鏡海女の出漁12-2-2 | 石鏡漁港の港内風景。市営定期船が廃止されるのは、パールロードが整備された昭和50年に入ってからである。写真中央左の突堤は、市営定期船の発着場かも知れない。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1063 | 石鏡海女の出漁12-2-3 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。石鏡漁港は昭和9年度に時局匡救事業で船溜を造成し、同13・14両年度で東防波堤と北防波堤の築造と船曳場の造成・浚渫を行い漁港としての形を整え、同26年12月に第1種漁港に指定されている。その後、同31・32年度で東防波堤の延長と船揚場を造成したが、漁船の増加と大型化が進み船揚場が狭くなったことから、同42~47年度に物揚場と船揚場を造成し泊地の浚渫を実施した。また、同48年からは整備計画漁港(第五次計画)の指定を受け、防波堤の築造、物揚場の造成、漁港用地の造成を続け平成5年度に終えた第8次整備計画で、ほぼ現在(2023年)の石鏡漁港が完成した。参考文献:『三重の漁港-第9次漁港整備長期計画』三重県漁港協会・平成7年発行 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1064 | 石鏡海女の出漁12-2-4 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。海女漁に出漁する準備をしているのであろう。多くの船は波打際まで降ろされているが、一艘の漁船は数人の漁師達によって、斜路の上から降ろされようとしている。何人かの漁師が手にしているのはコロと呼ばれる丸太や板材で、船底を痛めないように船の下に敷いて、その上に船を乗せて移動させていく。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1065 | 石鏡海女の出漁12-2-5 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。海女漁に出漁する準備をしているのであろう。多くの船は波打際まで降ろされているが、一艘の漁船は数人の漁師達によって、今、斜路の上から降ろされたところである。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1066 | 石鏡海女の出漁12-2-6 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。海女漁に出漁する準備をしているのであろう。多くの船は波打際まで降ろされているが、斜路の上に揚げられている船は、漁師達によって順次降ろされていく。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1067 | 石鏡海女の出漁12-3-1 | 石鏡漁港の風景。海から潮を汲んで運ぶ様子。担い棒は、かまどで沸かすための水や、畑の肥料用の糞尿を運ぶためにも用いた。畑が遠方にあるため、重い糞尿をかついで長い距離を歩くこともしばしばだった。当時は写真にあるような笠をよく被っていたという。海女漁の前後に畑仕事や家事をしたりと、昔も今も忙しい。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1068 | 石鏡海女の出漁12-3-2 | 石鏡漁港の風景。一斗缶程の丸い缶を二つ、担い棒で運ぶ女性。塩水をくみに来たのであろうか?。(要調査) | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1069 | 石鏡海女の出漁12-3-3 | 石鏡漁港の風景。一斗缶程の丸い缶を二つ、担い棒で運ぶ女性。塩水をくみに来たのであろうか?。(要調査) | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1070 | 石鏡海女の出漁12-3-4 | 石鏡漁港の風景。一斗缶程の丸い缶を二つ、担い棒で運ぶ女性。塩水をくみに来たのであろうか?。(要調査) | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1071 | 石鏡海女の出漁12-3-5 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。海女漁に出漁する準備をしているのであろう。多くの船は波打際まで降ろされているが、まだ斜路の上に揚げられていた漁船の一艘が、数人の漁師達によって降ろされたところである。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1072 | 石鏡海女の出漁12-3-6 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1073 | 石鏡海女の出漁12-4-1 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。海女達はウエットスーツに着替え、港で待つ漁船へと急ぐ。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1074 | 石鏡海女の出漁12-4-2 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。海女達はウエットスーツに着替え、港で待つ漁船へと急ぐ。手には竹篭やナイロン袋等が握られているが、海女漁に用いる用具類が入れられている物と思われる。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1075 | 石鏡海女の出漁12-4-3 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。海女達はウエットスーツに着替え、港で待つ漁船へと急ぐ。手には竹篭やナイロン袋等が握られているが、海女漁に用いる用具類が入れられている物と思われる。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1076 | 石鏡海女の出漁12-4-4 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。海女達はウエットスーツに着替え、港で待つ漁船へと急ぐ。手には竹篭やナイロン袋等が握られているが、海女漁に用いる用具類が入れられている物と思われる。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1077 | 石鏡海女の出漁12-4-5 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。海女達はウエットスーツに着替え、港で待つ漁船へと急ぐ。写真中央右下の海女の腰にはスカリらしきものも付けられている。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1078 | 石鏡海女の出漁12-4-6 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。海女達はウエットスーツに着替え、港で待つ漁船へと急ぐ。写真中央右下の海女の腰にはスカリらしきものも付けられている。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1079 | 石鏡海女の出漁12-5-1 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。写真の至るところに海女と船頭がいて、浜の活気が伝わる。石鏡では昭和40年(1965年)代前半にウエットスーツが導入されたという。見た目が当時流行していたダッコちゃん人形に似ていたという理由で、ウエットスーツは「ダッコちゃん」とも呼ばれた。発泡スチロールのタンポではなく、木製の桶を使用している。写真左奥の、長方形の建物はアワビの蓄養施設である。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1080 | 石鏡海女の出漁12-5-2 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。海女達はウエットスーツに着替え、磯桶を小脇に抱えて港で待つ漁船へと急ぐ。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1081 | 石鏡海女の出漁12-5-3 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。海女達はウエットスーツに着替え、磯桶を小脇に抱えて港で待つ漁船へと急ぐ。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1082 | 石鏡海女の出漁12-5-4 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。海女達はウエットスーツに着替え、磯桶を小脇に抱えて港で待つ漁船へと急ぐ。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1083 | 石鏡海女の出漁12-5-5 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。いざ海女船に乗り込むところ。現在(2023年)は、漁がある日は「本日は海女に行きます」と町内放送があるが、当時はクチマエと呼ばれる海女の取りまとめ役の男性が「出てこいよー!」と声をかけた。石鏡の船は地元にあった2軒の造船所(巳徳(みとく)造船と協生(きょうせい)造船)で製造され、この時期は動力なしの木造船と動力つきの木造船が混在していた。写真右奥、電信柱の後ろの建物周辺に木造の映画館があった。石鏡に映画館があったことを誇らしげに話す住民が何人もおり、子ども時代に勉強をさぼって映画館に行き怒られたという話もあった。映画は内容によって値段が20?50円程度と異なり、美空ひばりが出演する映画や忠臣蔵などが人気だった。中は土間で、長椅子の代わりに板が渡してあった。廃業後、子どもたちは建物の不気味さに「お化け屋敷」と呼んでいたという。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1084 | 石鏡海女の出漁12-5-6 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。ウエットスーツに着替えた海女達が、それぞれの海女舟へと乗り込む。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1085 | 石鏡海女の出漁12-6-1 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。これから港の海女船へと向かうのであろう。カンゴ(竹篭)やスカリを手にする海女。昭和期、ウエットスーツは石鏡町内でつくられていた。背中にファスナーがあるものだけでなく、写真のように前にファスナーがついたものも使用されていた。ウエットスーツを着脱しやすい、中に入り込んだ水を出しやすいというメリットがあった。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1086 | 石鏡海女の出漁12-6-2 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。ウエットスーツに着替えた海女達が、それぞれの海女舟へと乗り込む。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1087 | 石鏡海女の出漁12-6-3 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。ウエットスーツに着替えた海女達が、それぞれの海女舟へと乗り込む。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1088 | 石鏡海女の出漁12-6-4 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。舟人の海女で、男性は船頭だろうか。カンゴとよぶ竹篭やスカリを手に話をする海女。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1089 | 石鏡海女の出漁12-6-5 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。ウエットスーツに着替えを済ませた海女が乗り込み、準備の終わった海女船から出港していく。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1090 | 石鏡海女の出漁12-6-6 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景である。ウエットスーツに着替えを済ませた海女が乗り込み、準備の終わった海女船から出港していく。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
1091 | 国崎の海女1-2-1 | 国崎漁港の風景。新年を迎えるためか陸揚げされた漁船に「久吉丸」の大漁旗が立つ。また、船舶登録番号「ME3-33499/ME3-34245」の記号も見える。アルバムのデータ記載欄には「49.1.2」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.01.02 |
1092 | 国崎の海女1-2-2 | 崖を背にしながら浜辺に近く風が最も当たりにくい場所を選んで、竹で周囲を囲った海女小屋だと思われる。アルバムのデータ記載欄には「49.1.2」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.01.02 |
1093 | 国崎の海女1-2-4 | 通称大津浜(オオツハマ)と呼ばれる国崎漁港とその周辺の集落景観である。国崎の海域は「伊勢の神前、国崎の鎧、波切大王なけりゃよい」とまで船乗り達に恐れられた海の難所である。写真は昭和48年度から始まった第5次整備計画の修築事業中で、まだ漁船は直接係留がされず陸に揚げられている。参考文献:『三重の漁港1971/1995』 写真の船には正月の大漁旗が掲げられており、写真手前には網を干す竿や広げられた網が写り込んでいる。写真右手(浜の向こう側)には、設置前の消波ブロックがあり、写真中央にはブロック造りの海女小屋がある。その近くには網干竿があり、後ろには笹で作った塀のような風よけが立てられている。漁港整備前は大津浜によく強風が吹きつけたため、このような風よけを作った。(「海辺の毎日 国崎の暮らし写真展」報告書より)アルバムのデータ記載欄には「49.1.2」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.01.02 |
1094 | 国崎の海女1-2-5 | 崖を背にしながら浜辺に近く風が最も当たりにくい場所を選んで、竹で周囲を囲った海女小屋だと思われる。アルバムのデータ記載欄には「49.1.2」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.01.02 |
1095 | 国崎の海女1-2-6 | 崖を背にしながら浜辺に近く風が最も当たりにくい場所を選んで、竹で周囲を囲った海女小屋だと思われる。アルバムのデータ記載欄には「49.1.2」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.01.02 |
1096 | 国崎の海女1-3-1 | 徒人の海女具だろうか、フゴやイソカゴにメガネ箱や磯着などが入れられている。アルバムのデータ記載欄には「国崎海女具49.5.9」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1097 | 国崎の海女1-3-2 | 陸に引き揚げられた「■信丸」と記された漁船の前を老婦人が一人歩く。アルバムのデータ記載欄には「S49年 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1098 | 国崎の海女1-3-3 | 徒人及びノリアイ海女の操業風景。アルバムのデータ記載欄には「S49年 国崎」と記される。アルバムのデータ記載欄には「S49年 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1099 | 国崎の海女1-3-4 | 徒人及びノリアイ海女の操業風景。アルバムのデータ記載欄には「S49年 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1100 | 国崎の海女1-3-5 | 徒人及びノリアイ海女の操業風景。アルバムのデータ記載欄には「S49年 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1101 | 国崎の海女1-3-6 | 徒人及びノリアイ海女の操業風景。アルバムのデータ記載欄には「S49年 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1102 | 国崎の海女1-4-1 | 徒人及びノリアイ海女の操業風景。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 鳥羽市国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1103 | 国崎の海女1-4-2 | 徒人及びノリアイ海女の操業風景。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 鳥羽市国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1104 | 国崎の海女1-4-3 | 徒人及びノリアイ海女の操業風景。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 鳥羽市国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1105 | 国崎の海女1-4-4 | 磯着や日除けの帽子が入れられたフゴ、水筒の入ったイソカゴと共にメガネ箱や担い棒などが写される。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 鳥羽市国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1106 | 国崎の海女1-4-5 | フゴ、イソカゴ、メガネ箱、薪などが写される。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 鳥羽市国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1107 | 国崎の海女1-4-6 | 国崎の街角風景。ドラム缶の横で、子供を背負い日傘を差す女性が写される。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 鳥羽市国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1108 | 国崎の海女1-5-1 | 浜辺で暖をとる海女達。AMと記されていることから午前の一潜を終え、午後からの二潜目に備えた休息の風景である。写真左端にウエットスーツのゴム帽子が干されているが、磯着に着替えカマドを囲んで冷えた躰を温める。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 鳥羽市国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1109 | 国崎の海女1-5-2 | 浜辺で暖をとる海女達。AMと記されていることから午前の一潜を終え、午後からの二潜目に備えた休息の風景である。写真左端にウエットスーツのゴム帽子が干されているが、磯着に着替えカマドを囲んで冷えた躰を温める。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 鳥羽市国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1110 | 国崎の海女1-5-3 | 浜辺で暖をとる海女達。AMと記されていることから午前の一潜を終え、午後からの二潜目に備えた休息の風景である。濡れたウエットスーツを干し、磯着に着替えてカマドを囲んで冷えた躰を温める。周囲にはタンポやフゴ、イソカゴ、メガネ箱などが置かれている。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 鳥羽市国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1111 | 国崎の海女1-5-4 | 午前の一潜(ひとかづき)を終え、午後からの二潜(ふたかづき)目に備えた休息の風景である。周囲にはタンポやフゴ、イソカゴ、メガネ箱などが置かれている。ウエットスーツがかけられているのは、網の干場を転用したものではないかという。海女が着用している絣のナカネは、現在(2023年)ではほぼ見られなくなった。保温性に優れ、美しい絣だったという。「ヨウノマエカケ」とも呼ばれていた。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 鳥羽市国崎」と記される。(「海辺の毎日 国崎の暮らし写真展」報告書より) | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1112 | 国崎の海女1-5-5 | 浜辺で暖をとる海女達。AMと記されていることから午前の一潜を終え、午後からの二潜目に備えた休息の風景である。濡れたウエットスーツを干し、磯着に着替えてカマドを囲んで冷えた躰を温める。周囲にはタンポやフゴ、イソカゴ、メガネ箱などが置かれている。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 鳥羽市国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1113 | 国崎の海女1-5-6 | 浜辺で暖をとる海女達。AMと記されていることから午前の一潜を終え、午後からの二潜目に備えた休息の風景である。濡れたウエットスーツを干し、磯着に着替えてカマドを囲んで冷えた躰を温める。周囲にはタンポやフゴ、イソカゴ、メガネ箱などが置かれている。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 鳥羽市国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1114 | 国崎の海女1-6-1 | アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 鳥羽市国崎」と記される。浜辺で暖をとる海女達。AMと記されていることから午前の一潜を終え、午後からの二潜目に備えた休息の風景である。濡れたウエットスーツを干し、磯着に着替えてカマドを囲んで冷えた躰を温める。周囲にはタンポやフゴ、イソカゴ、メガネ箱などが置かれている。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1115 | 国崎の海女1-6-2 | AMと記されていることから午前の一潜を終え、午後からの二潜目に備えた休息の風景である。濡れたウエットスーツが干され、周囲にはタンポやフゴ、イソカゴ、メガネ箱などが置かれている。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 鳥羽市国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1116 | 国崎の海女1-6-3 | 浜辺で暖をとる海女達。AMと記されていることから午前の一潜を終え、午後からの二潜目に備えた休息の風景である。濡れたウエットスーツを干し、磯着に着替えてカマドを囲んで冷えた躰を温める。周囲にはタンポやフゴ、イソカゴ、メガネ箱などが置かれている。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 鳥羽市国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1117 | 国崎の海女1-6-4 | 浜辺で暖をとる海女達。AMと記されていることから午前の一潜を終え、午後からの二潜目に備えた休息の風景である。濡れたウエットスーツを干し、磯着に着替えてカマドを囲んで冷えた躰を温める。周囲にはフゴやイソカゴなどが置かれている。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 鳥羽市国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1118 | 国崎の海女1-6-5 | 浜辺で暖をとる海女達。AMと記されていることから午前の一潜を終え、午後からの二潜目に備えた休息の風景である。濡れたウエットスーツを干し、磯着に着替えてカマドを囲んで冷えた躰を温める。周囲にはフゴやイソカゴなどが置かれている。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 鳥羽市国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1119 | 国崎の海女1-6-6 | 浜辺で暖をとる海女達。AMと記されていることから午前の一潜を終え、午後からの二潜目に備えた休息の風景である。濡れたウエットスーツを干し、磯着に着替えてカマドを囲んで冷えた躰を温める。周囲にはフゴやイソカゴなどが置かれている。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 鳥羽市国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1120 | 国崎の海女2-1-1 | 徒人海女の操業風景かと思われる。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1121 | 国崎の海女2-1-2 | 徒人海女の操業風景かと思われる。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1122 | 国崎の海女2-1-3 | 徒人海女の操業風景かと思われる。発泡スチロールになる以前の木製のタンポに掴まり、息を整える海女。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1123 | 国崎の海女2-1-4 | 徒人海女の操業風景かと思われる。ハッポースチロールになる以前の木製のタンポに掴まり、息を整える海女。手前には発泡スチロールのタンポも浮かぶ。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1124 | 国崎の海女2-1-5 | 徒人海女の操業風景かと思われる。ハッポースチロールになる以前の木製のタンポと、手前には発泡スチロールのタンポも浮かぶ。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1125 | 国崎の海女2-1-6 | 徒人海女の操業風景かと思われる。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1126 | 国崎の海女2-2-1 | 徒人海女の操業風景かと思われる。潜水中の海女の前方に発泡スチロールのタンポが浮かぶ。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1127 | 国崎の海女2-2-2 | 徒人海女の操業風景かと思われる。発泡スチロールのタンポに掴まり息を整える。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1128 | 国崎の海女2-2-3 | 徒人海女の操業風景かと思われる。潜水中の海女。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1129 | 国崎の海女2-2-4 | 徒人海女の操業風景かと思われる。浮上中の海女。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1130 | 国崎の海女2-2-5 | 徒人海女の操業風景かと思われる。潜水中の海女の前方に発泡スチロールのタンポが浮かぶ。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1131 | 国崎の海女2-2-6 | 国崎の漁港風景。小型の定置網だろうか、漁師達が錨と網の修繕を進める。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1132 | 国崎の海女2-3-1 | 徒人海女の操業風景かと思われる。潜水中の海女の前方に発泡スチロールのタンポが浮かぶ。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1133 | 国崎の海女2-3-2 | 徒人海女の操業風景かと思われる。発泡スチロールになる以前の木製のタンポが浮かぶ。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1134 | 国崎の海女2-3-3 | 徒人海女の操業風景かと思われる。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1135 | 国崎の海女2-3-4 | 国崎の街角風景。男児が一人菓子袋を手に歩く。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1136 | 国崎の海女2-3-5 | 国崎の街角風景。男児が一人菓子袋を手に歩く。アルバムのデータ記載欄には「S49.5.9 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.05.09 |
1137 | 国崎の海女2-4-1 | 国崎の海女漁の出漁風景。「ME3-27285」船舶登録番号が読み取れる。アルバムのデータ記載欄には「国崎 49.8.10」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.08.10 |
1138 | 国崎の海女2-4-2 | 国崎の海女漁の出漁風景。「ME3-33241」船舶登録番号が読み取れる。アルバムのデータ記載欄には「国崎 49.8.10」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.08.10 |
1139 | 国崎の海女2-4-3 | 国崎の海女漁の出漁風景。船尾に「佐栄(丸)」及び「清宝(丸)」の船名が読み取れる。アルバムのデータ記載欄には「国崎 49.8.10」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.08.10 |
1140 | 国崎の海女2-4-4 | 国崎の海女の船上風景。ウエットスーツを着込み、磯手拭いを頭に被り、腰には鉛のベルトとスカリを付けている。アルバムのデータ記載欄には「国崎 49.8.10」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.08.10 |
1141 | 国崎の海女2-4-5 | 国崎の海女の船上風景。ウエットスーツを着込み、磯手拭いを頭に被り、スカリを付ける準備を進める。アルバムのデータ記載欄には「国崎 49.8.10」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.08.10 |
1142 | 国崎の海女2-4-6 | 国崎の舟人海女の船上風景。ウエットスーツを着込み、頭に被った磯手拭いの上から磯メガネをかけて操業開始の合図を待つ。船頭は艪で海女が潜る磯場に船を留める。アルバムのデータ記載欄には「国崎 49.8.10」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.08.10 |
1143 | 国崎の海女2-5-1 | 国崎の舟人海女の船上風景。海底から浮上した海女は船縁に掴まり息を整える。岸に近い陸では数人の徒人海女が操業を続ける。写真右手は国崎の集落で、二階建ての民家の右横の道路は山腹に見えるパールロードへと続く取り付け道路。民家の左手は国崎の墓地で相差町へと続く市道である。アルバムのデータ記載欄には「国崎 49.8.10」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.08.10 |
1144 | 国崎の海女2-5-2 | 国崎の舟人海女の操業風景。海底の海女から合図があったのだろう。船頭は懸命に命綱をたぐり上げる。アルバムのデータ記載欄には「国崎 49.8.10」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.08.10 |
1145 | 国崎の海女2-5-3 | 国崎の舟人海女の操業風景。船縁で息を整える海女と、次の潜水のタイミングをはかる船頭。船上の竿には「丸に青」の字を染め抜いた海上安全の祈願寺・青峯山正福寺の旗が取付けられている。アルバムのデータ記載欄には「国崎 49.8.10」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.08.10 |
1146 | 国崎の海女2-5-4 | 国崎の舟人海女の操業風景。海底から浮上した海女。船上の竿には「丸に青」の字を染め抜いた海上安全の祈願寺・青峯山正福寺の旗が取付けられている。アルバムのデータ記載欄には「国崎 49.8.10」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.08.10 |
1147 | 国崎の海女2-5-5 | 国崎の舟人海女の操業風景。船縁で息を整える海女。写真右端に見える灯台は国崎の鎧崎灯台である。この灯台は、昭和38年2月27日点灯。八角形のコンクリート造りで高さ9.61m、平均水面からの高さ26.06m。灯質は明暗白光・明3秒暗3秒。実効光度110カンデラ。光達距離は5.5海里とされる。【参考文献】第四管区海上保安本部編・発行『航路標識一覧表』平成23年発行 アルバムのデータ記載欄には「国崎 49.8.10」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.08.10 |
1148 | 国崎の海女2-5-6 | 国崎の舟人海女の操業風景。海底の海女から合図を待つ船頭。アルバムのデータ記載欄には「国崎 49.8.10」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.08.10 |
1149 | 国崎の海女2-6-1 | 国崎の海女用具。写真右からメガネ箱と磯メガネ、カギノミ、コノミ、オオザシ(エノミ)。アルバムのデータ記載欄には「国崎 49.8.10」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.08.10 |
1150 | 国崎の海女2-6-2 | 国崎の海女用具。写真右からメガネ箱と磯メガネ鏡、カギノミ、コノミ、オオザシ(エノミ)。アルバムのデータ記載欄には「国崎 49.8.10」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.08.10 |
1151 | 国崎の海女2-6-3 | 国崎の海女用具。写真右からイソカゴ、スカリ。アルバムのデータ記載欄には「国崎 49.8.10」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.08.10 |
1152 | 国崎の海女2-6-5 | 崖を背にしながら浜辺に近く風が最も当たりにくい場所を選んで、竹で周囲を囲って作られた海女小屋。アルバムのデータ記載欄には「国崎の海女小屋 49.12.14」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.08.10 |
1153 | 国崎の海女2-6-6 | 崖を背にしながら浜辺に近く風が最も当たりにくい場所を選んで、竹で周囲を囲って作られた海女小屋。アルバムのデータ記載欄には「国崎の海女小屋 49.12.14」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1974.08.10 |
1154 | 国崎の海女3-1-1 | 国崎の八幡祭の弓引き神事の祭場か? | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1155 | 国崎の海女3-1-2 | 国崎の集落風景。 | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1156 | 国崎の海女3-1-3 | 国崎町の集落の背後にある、地元の人達が「小富士山」とか「浅間山」と呼ぶ山か?。山の山頂付近には「浅間社」の社が建てられている。 | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1157 | 国崎の海女3-1-4 | 国崎の集落風景。 | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1158 | 国崎の海女3-2-1 | 二十数隻の海女船が国崎の大津浜(オオツハマ)から出漁する風景である。フナド(舟人)海女やノリアイの海女船が写される。木造船からプラスチック船への過渡期で、この写真は木造船、プラスチック船、船外機、沿岸漁業(クルマエビなど)用の船舶という、当時国崎にあったすべての種類の船が写っている貴重な1枚だという。船上では海女がハリザオで船の角度調整をしている。船が大きいとハリザオが使いづらくなるため、海女船は大型化されなかった。浜辺には、船の上げ下ろしに用いた丸太のコロが並べられている。コロを「スベリ」と呼ぶ人もいた。(「海辺の毎日 国崎の暮らし写真展」報告書より)アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 口明 磯に向かう船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1159 | 国崎の海女3-2-2 | 二十数隻の海女船が国崎のオオツハマ(大津浜)から出漁する風景である。舟人海女やノリアイの海女船が写される。浜辺には船の上げ下ろしに用いたと思われる丸太のコロが並べられている。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 口明 磯に向かう船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1160 | 国崎の海女3-3-1 | 崖を背にしながら浜辺に近く風が最も当たりにくい場所を選んで、竹で周囲を囲って作られた海女小屋。アルバムのデータ記載欄には「56.1.17」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1981.01.17 |
1161 | 国崎の海女3-3-2 | 現在(2023年)の鳥羽磯部漁協国崎支所の市場の向かいにあった、笹で作られた海女小屋。海女のお手製で、複数の囲いを重ねるため風はほとんど通さなかった。風除として、入り口に筵をかけることもあった。 海女小屋の立地は、風が当たりにくい崖の下が選ばれている。昭和中期頃まではこのような笹の海女小屋があちこちにあった。写真の海女小屋の近くにはタコカゴが積まれ、その後ろには、当時中間育成をしていた蓄養所の建物の一部が見えている。アルバムのデータ記載欄には「56.1.17」と記される。(「海辺の毎日 国崎の暮らし写真展」報告書より) | 鳥羽市国崎町 | 1981.01.17 |
1162 | 国崎の海女3-3-3 | 宴席。男性、女性各1名。要調査 | 鳥羽市国崎町 | (1981.01.17) |
1163 | 国崎の海女3-3-4 | 宴席。男性、女性各1名。要調査 | 鳥羽市国崎町 | (1981.01.17) |
1164 | 国崎の海女3-3-5 | 男性、女性各1名。男性は野村史隆氏か?要調査 | 鳥羽市国崎町 | (1981.01.17) |
1165 | 国崎の海女3-3-6 | 海女の操業風景。 | 鳥羽市国崎町 | (1981.01.17) |
1166 | 国崎の海女3-3-7 | 海女の操業風景。右手にはカギノミを持つ。 | 鳥羽市国崎町 | (1981.01.17) |
1167 | 国崎の海女3-3-8 | 操業を終えて帰港した海女船の船上げ風景。船頭と二人の海女が船を陸へと上げる。浜辺には丸太のコロが並べられている。船尾には「漁昌(丸)」の船名が記される。 | 鳥羽市国崎町 | (1981.01.17) |
1168 | 国崎の海女3-3-9 | 操業を終えて帰港した海女船の船上げ風景。船頭と二人の海女が船を陸へと上げる。浜辺には丸太のコロが並べられている。船尾には「漁昌(丸)」の船名が記される。 | 鳥羽市国崎町 | (1981.01.17) |
1169 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟3-4-3 | 舟人海女の操業風景。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1170 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟3-4-4 | 舟人海女の操業風景。船縁に取付けられたイソグルマの下に吊されたイソカゴにはウニが入れられている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1171 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟3-4-5 | 舟人海女の操業風景。命綱を右手に浮上した海女。イソカゴにはウニが入れられている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1172 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟3-4-6 | 舟人海女の操業風景。船縁で息を整え、次の潜水に備える海女。船縁に取付けられたイソグルマの下に吊されたイソカゴにはウニが入れられている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1173 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟3-5-1 | 舟人海女の操業風景。船縁で息を整え、次の潜水に備える海女。船縁に取付けられたイソグルマの下に吊されたイソカゴにはウニが入れられている。船頭は左手で艪を操り、海女の潜水を待つ。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1174 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟3-5-2 | 舟人海女の操業風景。船縁で息を整え、次の潜水に備える海女。船縁に吊されたイソカゴにはウニが入れられている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1175 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟3-5-3 | 舟人海女の操業風景。船縁で息を整えた後、潜水を始めようとする海女。船縁に取付けられたイソグルマの下に吊されたイソカゴにはウニが入れられている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1176 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟3-5-4 | 舟人海女の操業風景。右手にカギノミを握り、命綱で海面へと引き上げられた海女。船縁に取付けられたイソグルマの下に吊されたイソカゴにはウニが入れられている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1177 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟3-5-5 | 舟人海女の操業風景。午前の一潜目の操業も終わりなのか、ウニが入れられたイソカゴは船頭によって船上に上げられている。イソグルマもすでに船頭の後に取り外されている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1178 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟3-5-6 | 舟人海女の操業風景。午前の一潜目の操業が終わったようである。ウニが入れられたイソカゴは船上に上げられ、イソグルマもすでに取り外されている。海女が左舷側から船上へと上がる。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1179 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟3-6-1 | 舟人海女の操業風景。午前の一潜目の操業が終わったようである。ウニが入れられたイソカゴは船上に上げられ、イソグルマもすでに取り外されている。海女が左舷側から船上へと上がる。船頭は艪を仕舞い、梶を用意しエンジンをかける準備を進める。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1180 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟3-6-2 | 舟人海女の操業風景。午前の一潜目の操業が終わったようである。ウニが入れられたイソカゴは船上に上げられ、イソグルマもすでに取り外されている。海女が左舷側から船上へと上がる。船頭は艪を仕舞い、梶を用意しエンジンをかける準備を進める。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1181 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟3-6-3 | 舟人海女の操業風景。午前の一潜目の操業が終わったようである。ウニが入れられたイソカゴは船上に上げられ、イソグルマもすでに取り外されている。海女が左舷側から船上へと上がる。船頭は艪を仕舞い、梶を用意しエンジンをかける準備を進める。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1182 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟3-6-4 | 舟人海女の操業風景。午前の一潜目の操業が終わったようである。ウニが入れられたイソカゴは船上に上げられ、イソグルマもすでに取り外されている。海女が左舷側から船上へと上がる。船頭は艪を仕舞い、梶を用意しエンジンをかける準備を進める。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1183 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟3-6-5 | 舟人海女の操業風景。午前の一潜目の操業が終わったようである。ウニが入れられたイソカゴは船上に上げられ、イソグルマもすでに取り外されている。海女が左舷側から船上へと上がる。船頭は艪を仕舞い、梶を用意しエンジンをかける準備を進める。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1184 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟3-6-6 | 舟人海女の操業風景。午前の一潜目を終え、船上に上がった海女。磯メガネを外し、ウエットスーツのゴム帽子を脱ぎ、帰り支度を始める。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1185 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟4-1-1 | 舟人海女の操業風景。午前の一潜目を終え、船上に上がった海女。磯メガネを外し、ウエットスーツのゴム帽子を脱ぎ、帰り支度を始める。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1186 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟4-1-2 | 舟人海女の操業風景。午前の一潜目を終え、船上に上がった海女。磯メガネを外し、ウエットスーツのゴム帽子を脱ぎ、帰り支度を始める。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1187 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟4-1-3 | 舟人海女の操業風景。午前の一潜目を終え、船上に上がった海女。磯メガネを外し、ウエットスーツのゴム帽子を脱ぎ、腰に巻いた鉛のベルトを外して帰り支度を始める。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1188 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟4-1-4 | 舟人海女の操業風景。午前の一潜目を終え、船上に上がった海女。磯メガネを外し、ウエットスーツのゴム帽子を脱ぎ、腰に巻いた鉛のベルトを外して帰り支度を始める。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1189 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟4-1-5 | 舟人海女の操業風景。午前の一潜目を終え、船上に上がった海女。磯メガネを外し、ウエットスーツのゴム帽子を脱ぎ、腰に巻いた鉛のベルトを外して帰り支度を始める。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1190 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟4-1-6 | 舟人海女の操業風景。午前の一潜目を終え、船上に上がった海女。磯メガネを外し、ウエットスーツのゴム帽子を脱ぎ、腰に巻いた鉛のベルトを外して帰り支度を進める。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1191 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟4-2-1 | 舟人海女の操業風景。午前の一潜目を終え帰港する船上の海女。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1192 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟4-2-2 | 舟人海女の操業風景。午前の一潜目を終え帰港する船上の海女。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1193 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟4-2-3 | 舟人海女の操業風景。午前の一潜目を終え帰港する船上の海女。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1194 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟4-2-4 | 午前の一潜目を終え、前の浜に戻ってきた舟人の海女船。写真左手は国崎町の集落、右手は鎧崎で船揚場斜路のすぐ横に海女小屋が、その斜め上には熨斗鰒調製所が建てられている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1195 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟4-2-5 | 午前の一潜目を終え、前の浜に戻ってきた舟人の海女船。写真右上の小さな建物は海女小屋である。その斜め上には熨斗鰒調製所が建てられている。隣に付けられている漁船には「廣栄丸」の船名が見える。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1196 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟4-2-6 | 午前の一潜目を終え、次々と前の浜に戻ってくる海女船。写真左は鎧崎で、この斜路の上には海女小屋と熨斗鰒調製所が建てられている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1197 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟4-3-1 | 午前の一潜目を終え、次々と前の浜に戻ってくる海女船。午後からも二潜目があるのか、海女船は引き揚げられずに波打際に係留されていく。写真左は鎧崎で、この斜路の上には海女小屋と熨斗鰒調製所が建てられている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1198 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟4-3-2 | 午前の一潜目を終え、次々と前の浜に戻ってくる海女船。午後からも二潜目があるのか、海女船は引き揚げられずに波打際に係留されていく。写真左は鎧崎で、この斜路の上には海女小屋と熨斗鰒調製所が建てられている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1199 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟4-3-3 | 午前の一潜目を終え、前の浜に戻ってきた海女。写真左上のブロック積みの建物は海女小屋である。これから暖をとり食事をすませ休憩した後二潜目へと向かう。海女小屋の左上は熨斗鰒調製所である。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1200 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟4-3-4 | 午前の一潜目を終え、前の浜の海女小屋へと向かう海女達。海女小屋の左手の建物は漁船を陸へと引き揚げる為に使うウインチ小屋である。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1201 | 国崎海女 ウニ取り 世古昌男の舟4-3-5 | 午前の一潜目を終え、前の浜の海女小屋へと向かう海女。海女小屋の左手の建物は漁船を陸へと引き揚げる為に使うウインチ小屋である。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎海女 ウニ取り・世古昌男の船」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1202 | 国崎ウニとり4-4-4 | 舟人海女の操業風景。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニとり」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1203 | 国崎ウニとり4-4-5 | 舟人海女の操業風景。船縁で息を整え、次の潜水準備をする海女。採ったウニを入れるイソカゴが吊されている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニとり」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1204 | 国崎ウニとり4-4-6 | 舟人海女の操業風景。船縁で息を整え、次の潜水準備をする海女。採ったウニを入れるイソカゴが吊されている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニとり」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1205 | 国崎ウニとり4-5-1 | 舟人海女の操業風景。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニとり」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1206 | 国崎ウニとり4-5-2 | 舟人海女の操業風景。命綱を握り浮上した海女。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニとり」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1207 | 国崎ウニとり4-5-3 | 舟人海女の操業風景。採ってきたウニを入れるイソカゴ。赤ウニらしきウニが入れられている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニとり」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1208 | 国崎ウニとり4-5-4 | 舟人海女の操業風景。採ってきたウニを入れるイソカゴ。赤ウニらしきウニが入れられている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニとり」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1209 | 国崎ウニとり4-5-5 | 舟人海女の操業風景。採ってきたウニを入れるイソカゴ。赤ウニらしきウニが入れられている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニとり」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1210 | 国崎ウニとり4-5-6 | 舟人海女の操業風景。命綱を握り浮上した海女。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニとり」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1211 | 国崎ウニとり4-6-1 | 舟人海女の操業風景。海底から浮上して息を整える海女。船縁には採ってきたウニを入れるイソカゴが吊されている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニとり」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1212 | 国崎ウニとり4-6-2 | 舟人海女の操業風景。海底から浮上して息を整える海女。船縁には採ってきたウニを入れるイソカゴが吊されている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニとり」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1213 | 国崎ウニとり4-6-3 | 舟人海女の操業風景。海底から浮上して息を整える海女。船縁には採ってきたウニを入れるイソカゴが吊されている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニとり」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1214 | 国崎ウニとり4-6-4 | 海女の操業風景。海底から浮上して息を整える海女。船縁には採ってきたウニを入れるイソカゴが吊されている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニとり」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1215 | 国崎ウニとり4-6-5 | 舟人海女の操業風景。右手にカギノミを握り、海底から命綱で引き上げられ浮上した海女。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニとり」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1216 | 国崎ウニとり4-6-6 | 舟人海女の操業風景。左手で艪を操りながら、海女の操業を見守る船頭。船腹には「ME3-28824」の船舶登録番号と「(廣)栄丸」の船名が見える。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニとり」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1217 | 国崎ウニとり5-1-1 | 舟人海女の操業風景。命綱を握り浮上した海女。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニとり」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1218 | 国崎ウニとり5-1-2 | 舟人海女の操業風景。命綱を握り浮上した海女。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニとり」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1219 | 国崎ウニとり5-1-3 | 舟人海女の操業風景。命綱を握り浮上した海女。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニとり」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1220 | 国崎ウニとり5-1-4 | 舟人海女の操業風景。船縁で息を整え次の潜水に備える海女。船縁には、採ってきたウニを入れるイソカゴが吊されている。船腹には「ME3-31857」の船舶登録番号が見える。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニとり」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1221 | 国崎ウニとり5-1-5 | 舟人海女の操業風景。船縁で息を整え次の潜水に備える海女。船縁には、採ってきたウニを入れるイソカゴが吊されている。船腹には「ME3-31857」の船舶登録番号が見える。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニとり」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1222 | 国崎ウニとり5-2-3 | 陸に揚げた漁船の片付けをする婦人。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニとり」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1223 | 国崎ウニとり5-2-4 | 漁船の船揚げ風景。船底に丸太のコロを敷いてウインチで巻き上げる。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニとり」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1224 | 国崎ウニとり5-2-5 | 海女漁から戻ってきたのか、ウエットスーツを脱ぎ磯着に着替える海女。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニとり」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1225 | 国崎ウニ漁5-3-1 | 海女のネガネ箱。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1226 | 国崎ウニ漁5-3-2 | ウニ漁の出漁を前に、鎧崎の前の浜の波打際に留めた船上で休憩を取る船頭達。一隻の船腹には「ME3-28824」の船舶登録番号が見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1227 | 国崎ウニ漁5-3-3 | ウニ漁の出漁を前に、鎧崎の前の浜の波打際に留めた船上で休憩を取る船頭達。一隻の船腹には「ME3-28824」の船舶登録番号が見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1228 | 国崎ウニ漁5-3-4 | ウニ漁の出漁を前に、鎧崎の前の浜の波打際に留めた船上で休憩を取る船頭達。船腹に「ME3-■7682 大和丸」、「ME3-28824」、「ME3-27285 廣栄丸」、「ME3-24125 初浪丸」、「ME3-33448」等の船舶登録番号や船名が見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1229 | 国崎ウニ漁5-3-5 | ウニ漁の出漁を前に、鎧崎の前の浜の波打際に留めた船上で休憩を取る船頭達。船腹に「ME3-■7682 大和丸」、「ME3-28824」、「ME3-27285 廣栄丸」、「ME3-24125 初浪丸」、「ME3-33448」等の船舶登録番号や船名が見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1230 | 国崎ウニ漁5-3-6 | 漁船のエンジンルームの前に張られた「(海上)安全 青(峯山)」の御札。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1231 | 国崎ウニ漁5-4-1 | これから出漁するのか、鎧崎の前の浜の波打際に留めた船上で休憩を取る船頭達。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1232 | 国崎ウニ漁5-4-2 | これから出漁するのかウエットスーツに着替え、磯手拭いを頭に被って海女小屋を出る海女達。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1233 | 国崎ウニ漁5-4-3 | 鎧崎の前の浜から出漁する海女船。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1234 | 国崎ウニ漁5-4-4 | 鎧崎の前の浜から出漁する海女船。船腹には「ME3-33448」の船舶登録番号が見える。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1235 | 国崎ウニ漁5-4-5 | 鎧崎の前の浜から出漁するノリアイ海女達。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1236 | 国崎ウニ漁5-4-6 | ノリアイ海女の出漁風景。船上では海女達が磯メガネの曇りを取る。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1237 | 国崎ウニ漁5-5-1 | ノリアイ海女の出漁風景。船上では海女達がメガネ鏡の曇りを取る。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1238 | 国崎ウニ漁5-5-2 | 舟人海女の操業風景。腰に鉛のベルトを巻き、操業の合図を待つ。船腹には「ME3-32688」の船舶登録番号と、船尾には「福平(丸)」の船名が見える。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1239 | 国崎ウニ漁5-5-3 | 沖の消波ブロック。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1240 | 国崎ウニ漁5-5-4 | 海女の出漁風景。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1241 | 国崎ウニ漁5-5-5 | 海女の操業風景。梶棒を手に漁を見守る船頭。写真左上の灯台は、国崎の鎧崎灯台である。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1242 | 国崎ウニ漁5-5-6 | 海女の操業風景。海士か?アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1243 | 国崎ウニ漁5-6-1 | 海女の操業風景。海士か?アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1244 | 国崎ウニ漁5-6-2 | 海女の操業風景。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1245 | 国崎ウニ漁5-6-3 | 海女の操業風景。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1246 | 国崎ウニ漁5-6-4 | 海女の操業風景。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1247 | 国崎ウニ漁5-6-5 | 舟人海女の操業風景。海女は手にカギノミを持って船縁に足を置き、船頭は左手で艪を操り、右手に旗竿を持って操業の合図を待つ。船腹には「ME3-28824」の船舶登録番号が読み取れる。写真左端の白い建造物は国崎の鎧崎灯台である。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1248 | 国崎ウニ漁5-6-6 | 舟人海女の操業風景。海女は手にカギノミを持って船縁に足を置き、船頭は左手で艪を操り、右手に旗竿を持って操業の合図を待つ。船腹には「ME3-28824」の船舶登録番号が読み取れる。写真左端の白い建造物は国崎の鎧崎灯台である。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1249 | 国崎ウニ漁女6-1-1 | 舟人海女の操業風景。海女は手にカギノミを持って船縁に足を置き、船頭は左手で艪を操り、右手に旗竿を持って操業の合図を待つ。船腹には「ME3-28824」の船舶登録番号が読み取れる。写真左上部の白い建造物は国崎の鎧崎灯台である。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1250 | 国崎ウニ漁6-1-2 | 舟人海女の操業風景。海女は手にカギノミを持って船縁に足を置き、船頭が操業開始の旗竿を立てる。船腹には「ME3-28824」の船舶登録番号が読み取れる。写真左上部の白い建造物は国崎の鎧崎灯台である。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1251 | 国崎ウニ漁6-1-3 | 舟人海女の操業風景。船頭が操業開始の旗竿を立て、艪を操って磯場を確認しこれから操業に入る。船腹には「ME3-28824」の船舶登録番号が読み取れる。写真左上部の白い建造物は国崎の鎧崎灯台である。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1252 | 国崎ウニ漁6-1-4 | 海女の操業場所の背後に迫る山の景観。鳥羽志摩地域における海岸線の植生は自生するウバメガシが多い。こうした海岸線の植物群は魚付林として陸と海の生態系を考える上で重要だという。要調査。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1253 | 国崎ウニ漁6-1-5 | 舟人海女の操業風景。船頭に命綱で引き上げられた海女。右手にはカギノミを、左手にはウニを持っている。ウニの実入りを調べたのかエンジンの煙突の横に割られたウニが乗せられている。船頭が指にはめているのは命綱を手繰上げる時の滑り止めか?アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1254 | 国崎ウニ漁6-1-6 | 舟人海女の操業風景。船縁で息を整え次の潜水に備える海女。右手にはカギノミが握られている。イソグルマの下には採ってきたウニを入れるイソカゴが吊されている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1255 | 国崎ウニ漁6-2-1 | 舟人海女の操業風景。海底から海女の合図があったのだろう。船上で船頭は懸命に命綱を手繰上げる。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1256 | 国崎ウニ漁6-2-2 | 舟人海女の操業風景。命綱を手繰上げる船頭によって海面に浮上した海女。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1257 | 国崎ウニ漁6-2-3 | 舟人海女の操業風景。命綱を手繰上げる船頭によって海面に浮上した海女。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1258 | 国崎ウニ漁6-3-1 | 海女船の船降ろし風景。波打際まで丸太のコロを敷き、ウインチを使って斜路に引き揚げられていた船を降ろす。船尾には「初漁丸」、「しんせい(丸)」等の船名が読み取れる。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1259 | 国崎ウニ漁6-3-2 | 海女船の船降ろし風景。波打際まで丸太のコロを敷き、ウインチを使って斜路に引き揚げられていた船を降ろす。船尾には「漁昌(丸)」、船腹からは「ME3-31857」の船舶登録番号が読み取れる。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1260 | 国崎ウニ漁6-3-3 | 海女船の出漁風景。国崎の船揚場を出漁する舟人とノリアイの海女船。船尾には「しんせい(丸)」、船腹からは「ME3-33448」の船舶登録番号が読み取れる。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1261 | 国崎ウニ漁6-3-4 | ノリアイ海女の操業準備風景。国崎の前の浜を出漁したノリアイ海女の船上での準備風景である。船腹には「ME3-28312」の船舶登録番号が読み取れる。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20AM 国崎ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1262 | 国崎の海女作業 ウニ漁6-4-1 | 舟人海女やノリアイ海女の操業準備風景。国崎の船揚場を出漁したノリアイ海女の船上での準備風景である。船腹には「ME3-28312」の船舶登録番号が読み取れる。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1263 | 国崎の海女作業 ウニ漁6-4-2 | アノリアイ海女の操業準備風景。国崎の船揚場を出漁したノリアイ海女の船上での準備風景である。ルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1264 | 国崎の海女作業 ウニ漁6-4-3 | 舟人海女やノリアイ海女の操業準備風景。国崎の船揚場を出漁した海女達の船上での準備風景である。写真上部右手は鎧崎、左手は船揚場と国崎の集落景観である。一隻の船腹からは「福平丸」の船名が読み取れる。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1265 | 国崎の海女作業 ウニ漁6-4-4 | 舟人海女やノリアイ海女の操業準備風景。国崎の船揚場を出漁した海女達の船上での準備風景である。写真上部右手は船揚場と鎧崎、中央は国崎の集落景観である。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1266 | 国崎の海女作業 ウニ漁6-4-5 | 鎧崎の前の浜で、フナドやノリアイの海女たちが操業準備をする風景。 海岸線の後背地は国崎の集落景観で「かどや」の民宿名や、海上に並んだ海女船からは「福平丸」や「大和丸」と書かれた船名が確認できる。背後の山には浅間さんと荒神さんがあり、現在も町民がお参りしている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。(「海辺の毎日 国崎の暮らし写真展」報告書より) | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1267 | 国崎の海女作業 ウニ漁6-4-6 | 国崎の船揚場を出漁した海女船での準備風景である。黒のウエットスーツを着込み、腰に鉛のベルトとスカリを付け、カギノミを持ち手袋をはめる海女の姿が写される。船縁には、イソカゴが一つ置かれている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1268 | 国崎の海女作業 ウニ漁6-5-1 | 舟人海女の磯場へと向かう出漁風景である。写真中央の白い建造物は国崎の鎧崎灯台である。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1269 | 国崎の海女作業 ウニ漁6-5-2 | 国崎の船揚場を出漁した海女船での準備風景である。黒のウエットスーツと足ヒレを身に付け、腰には鉛のベルトとスカリを巻き、磯メガネの曇り止めを施す海女の姿が写される。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1270 | 国崎の海女作業 ウニ漁6-5-3 | 舟人海女の磯場へと向かう出漁風景である。写真右上の白い建造物は国崎の鎧崎灯台である。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1271 | 国崎の海女作業 ウニ漁6-5-4 | 舟人海女の磯場へと向かう船上風景である。黒のウエットスーツを着込み、腰には鉛のベルトと命綱を付けた海女が写される。船縁には採ったウニを入れると思われるイソカゴが一つ置かれている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1272 | 国崎の海女作業 ウニ漁6-5-5 | 舟人海女の操業風景。磯場に到着したのだろう。全ての準備を終えた海女が磯メガネを洗っているのか、船縁から身を乗り出して海面をのぞき込む。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1273 | 国崎の海女作業 ウニ漁6-5-6 | 舟人海女の操業風景。海底から海女の合図があったのだろう。磯グルマにかけた命綱を船頭が懸命に手繰上げる。命綱を掛けた磯グルマからも潮吹雪が飛ぶ。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1274 | 国崎の海女作業 ウニ漁6-6-1 | 舟人海女の操業風景。船頭が手繰上げた命綱で、勢いよく浮上した海女。ほぼ腰の辺りまで海面から飛び出す。磯グルマの下には採ってきたウニを入れるイソカゴが吊されている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1275 | 国崎の海女作業 ウニ漁6-6-2 | 舟人海女の操業風景。海底の海女からの合図を待っているのか、磯グルマに掛けた命綱を持つ手に全神経をとがらせる。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1276 | 国崎の海女作業 ウニ漁6-6-3 | 舟人海女の操業風景。船頭が手繰上げた命綱で、勢いよく浮上した海女。ほぼ腰の辺りまで海面から飛び出す。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1277 | 国崎の海女作業 ウニ漁6-6-4 | 舟人海女の操業風景。船縁に取付けられた、命綱を手繰上げる磯グルマ。取り外しが出来るようになっていて、漁が終わると外して仕舞う。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1278 | 国崎の海女作業 ウニ漁6-6-5 | 舟人海女の操業風景。船頭が手繰上げた命綱で、勢いよく浮上した海女。ほぼ腰の辺りまで海面から飛び出す。磯グルマの下には採ってきたウニを入れるイソカゴが吊されている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1279 | 国崎の海女作業 ウニ漁6-6-6 | 舟人海女の操業風景。船頭が手繰上げた命綱で、勢いよく浮上した海女。ほぼ腰の辺りまで海面から飛び出す。磯グルマの下には採ってきたウニを入れるイソカゴが吊されている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1280 | 国崎の海女作業 ウニ漁7-1-1 | 舟人海女の操業風景。船頭が手繰上げた命綱で、勢いよく浮上した海女。ほぼ腰の辺りまで海面から飛び出す。磯グルマの下には採ってきたウニを入れるイソカゴが吊されている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1281 | 国崎の海女作業 ウニ漁7-1-2 | 舟人海女の操業風景。船頭が手繰上げた命綱で、勢いよく浮上した海女。ほぼ腰の辺りまで海面から飛び出す。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1282 | 国崎の海女作業 ウニ漁7-1-3 | 舟人海女の操業風景。船頭が手繰上げた命綱で、勢いよく浮上した海女。ほぼ腰の辺りまで海面から飛び出す。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1283 | 国崎の海女作業 ウニ漁7-1-4 | 海女の操業場所の背後に迫る山の景観。鳥羽志摩地域における海岸線の植生は自生するウバメガシが多い。こうした海岸線の植物群は魚付林として陸と海の生態系を考える上で重要だという。要調査。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1284 | 国崎の海女作業 ウニ漁7-2-3 | 舟人海女の操業風景。右手にカギノミを持ち、船縁に掴まって息を整え、次の潜水に備える海女。磯グルマに掛けられているのは分銅であろう。船上の船頭は艪を操りながら海女の潜水合図を待つ。船腹には「ME3-28824」の船舶登録番号が見える。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1285 | 国崎の海女作業 ウニ漁7-2-4 | 舟人海女の操業風景。右手にカギノミを持ち、船縁に掴まって息を整え、次の潜水に備える海女。磯グルマに掛けられているのは分銅であろう。船上の船頭は艪を操りながら海女の潜水合図を待つ。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1286 | 国崎の海女作業 ウニ漁7-2-5 | 舟人海女の操業風景。右手にカギノミを持ち、船縁に掴まって息を整え、次の潜水に備える海女。磯グルマに掛けられているのは分銅であろう。船上の船頭は艪を操りながら海女の潜水合図を待つ。船腹には「ME3-28824」の船舶登録番号が見える。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1287 | 国崎の海女作業 ウニ漁7-2-6 | 舟人海女の操業風景。右手にカギノミを持ち、船縁に掴まって息を整え、次の潜水に備える海女。磯グルマに掛けられているのは分銅であろう。船縁には海女が採ってきたウニを入れるイソカゴも吊されている。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1288 | 国崎の海女作業 ウニ漁7-3-1 | 舟人海女の操業風景。右手にカギノミを持ち、船縁に掴まって息を整え、次の潜水に備える海女。磯場によっても異なるが、潜水に備えて海面から海底の状況を確認したりもする。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1289 | 国崎の海女作業 ウニ漁7-3-2 | 舟人海女の操業風景。船上で海女の合図を待つ船頭。海女が操業する上や反対側に船が流されないように、命綱で海底の海女の動きを予測しながら船を操る船頭。一つ間違えば命に関わるだけに、綱一本に託す夫婦のやりとりは真剣である。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1290 | 国崎の海女作業 ウニ漁7-3-3 | ノリアイ又は徒人の海女の操業風景。岸辺の近くに発泡スチロール製のタンポとその横に海女の足ヒレが見える。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1291 | 国崎の海女作業 ウニ漁7-3-4 | 船縁に吊されたイソカゴに入れられたウニ。赤ウニかと思われる。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1292 | 国崎の海女作業 ウニ漁7-3-5 | 船縁に吊されたイソカゴに入れられたウニ。赤ウニかと思われる。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1293 | 国崎の海女作業 ウニ漁7-3-6 | ノリアイ海女の操業風景。タンポを抱えて息を整えているところか? 前方には十数隻の海女船が見える。アルバムのデータ記載欄には「S53.9.20 国崎海女作業 ウニ漁」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.09.20 |
1294 | 国崎二船祭 殿入祭(小舟づくり)のオオフネ7-4-1 | 毎年11月21日~23日に行われる二船祭の内、22日の殿入祭(小舟づくり)で作られるオオブネである。オオブネはミズの木を削り、それに見押と帆柱と、椎の木の皮を12枚つないだ帆を取付け全長43㎝程にした舟で神前に供えられる。参考文献:『国崎の熨斗鰒づくり調査報告書』国崎町内会 2011年発行 アルバムのデータ記載欄には「S53.10.12 国崎/大舟」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.10.12 |
1295 | 国崎二船祭 殿入祭(小舟づくり)のオオフネ7-4-2 | 毎年11月21日~23日に行われる二船祭の内、22日の殿入祭(小舟づくり)で作られるオオブネである。オオブネはミズの木を削り、それに見押と帆柱と、椎の木の皮を12枚つないだ帆を取付け全長43㎝程にした舟で神前に供えられる。参考文献:『国崎の熨斗鰒づくり調査報告書』国崎町内会 2011年発行 アルバムのデータ記載欄には「S53.10.12 国崎/大舟」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.10.12 |
1296 | 国崎の街並み景観7-4-3 | 国崎町鎧崎の船揚場斜路の上である乾燥させたアラメかカジメの様な海藻が積上げられている。写されてはいないが写真右手には海女小屋があり、さらにその斜め上には熨斗鰒調製所が建てられている。アルバムのデータ記載欄には「S53.10.12 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.10.12 |
1297 | 国崎の街並み景観7-4-4 | アラメ切り(アラメの収獲)の様子を、鎧崎の船揚場近くで撮影したものである。 写真には乾燥アラメを背負って運ぶ年配女性が写っている。画像№1299、1300参照(「海辺の毎日 国崎の暮らし写真展」報告書より)アルバムのデータ記載欄には「S53.10.12 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.10.12 |
1298 | 国崎の街並み景観7-4-5 | 年配の婦人が左手に鎌を持ち乾燥させたアラメかカジメらしき海藻を背負って運ぶ。アルバムのデータ記載欄には「S53.10.12 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.10.12 |
1299 | 国崎の街並み景観7-5-1 | アラメ切り(アラメの収獲)の様子を、鎧崎の船揚場近くで撮影したものである。 国崎町鎧崎の船揚場斜路の上である乾燥させたアラメが積上げられ、年配女性が背負って運んでいる。写ってはいないが、写真右手には海女小屋があり、さらにその斜め上には熨斗鰒調製所が建てられていた。斜路に引き揚げられた漁船の船腹には「ME3-31857」の船舶登録番号が確認できる。画像№1297、1300参照 アルバムのデータ記載欄には「S53.10.12 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.10.12 |
1300 | 国崎の街並み景観7-5-2 | 乾燥アラメを積んだ「アラメ塚」である。共同刈りのアラメの売上は、町内会の運営費や漁港整備の地元負担金になった。1世帯2人ずつ参加し、不参加の世帯は罰金を支払った。時期としては、8月の土用前後に数回アラメを切り(収穫し)、10月の受け取りまでアラメ塚にして置いていた。近年では台風を警戒し受け取りが早まっている。暑い時期の作業で、アラメをかつぐと色が移って肌や衣類が真っ黒になった。(「海辺の毎日 国崎の暮らし写真展」報告書より) | 鳥羽市国崎町 | 1978.10.12 |
1301 | 国崎の街並み景観7-5-3 | 国崎町鎧崎の船揚場斜路の上である。シートをかぶせられたドーム状の物は、食材用の乾燥アラメではないかと思われる。アルバムのデータ記載欄には「S53.10.12 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.10.12 |
1302 | 国崎の街並み景観7-5-4 | 和服を着た年配の婦人が三人街中の道を歩く。要調査。アルバムのデータ記載欄には「S53.10.12 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.10.12 |
1303 | 国崎の街並み景観7-5-5 | 和服を着た年配の婦人が三人街中の道を歩く。要調査。アルバムのデータ記載欄には「S53.10.12 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.10.12 |
1304 | 国崎の注連縄7-5-6 | 国崎町の注連縄の木札である。各家庭の注連縄は邪気を払い神域を示す紙垂(しで)、子孫繁栄を象徴するダイダイやユズリハ、誠実・清廉潔白を象徴するウラジロ等が添えられることが多い。全国的には小正月の後に外されることが多いようであるが、鳥羽では一年中飾られ、その家に不幸事が起こるまで毎年新しい注連縄が重ねられていく地域もある。最近は、市販されている物を飾る家が多くなったが、かつては家人が思いを込めて注連縄を作ったもので、木札の表には「七福即生 七難即滅 蘇民将来子孫家門」、裏には「急々如律令」と「魔除印=ドーマン・セーマン」が記される。アルバムのデータ記載欄には「S53.10.12 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.10.12 |
1305 | 国崎の注連縄7-6-1 | 国崎町の注連縄の木札である。裏側には裏には「急々如律令」と「魔除印=ドーマン・セーマン」の略字が記されている。アルバムのデータ記載欄には「S53.10.12 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.10.12 |
1306 | 国崎の注連縄7-6-2 | 国崎町の注連縄の木札である。裏側には裏には「急々如律令」と「魔除印=ドーマン・セーマン」の略字が記されている。アルバムのデータ記載欄には「S53.10.12 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.10.12 |
1307 | 国崎の注連縄7-6-4 | 国崎町の注連縄の木札である。木札の表には「七福即生 七難即滅 蘇民将来子孫家門」、裏には「急々如律令」と「魔除印=ドーマン・セーマン」が記される。アルバムのデータ記載欄には「S53.10.12 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1978.10.12 |
1308 | 国崎熨斗鰒づくり8-1-1 | 伊勢神宮の神饌として納められる国崎の熨斗鰒作りである。熨斗鰒は国崎の海女達が採ったアワビを鎧崎の調製所で熨斗にして毎年6月と12月の月次祭と10月の神嘗祭に納めるもので、2千年もの長きにわたって続けられてきたと言う。写真は身取鰒を作る作業風景である。参考文献:『国崎の熨斗鰒づくり調査報告書』国崎町内会 2011年発行 | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1309 | 国崎熨斗鰒づくり8-1-2 | 伊勢神宮の神饌として納められる国崎の熨斗鰒作りである。熨斗鰒は国崎の海女達が採ったアワビを鎧崎の調製所で熨斗にして毎年6月と12月の月次祭と10月の神嘗祭に納めるもので、2千年もの長きにわたって続けられてきたと言う。写真は身取鰒を作る作業風景である。参考文献:『国崎の熨斗鰒づくり調査報告書』国崎町内会 2011年発行 | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1310 | 国崎熨斗鰒づくり8-1-3 | 伊勢神宮の神饌として納められる国崎の熨斗鰒作りである。熨斗鰒は国崎の海女達が採ったアワビを鎧崎の調製所で熨斗にして毎年6月と12月の月次祭と10月の神嘗祭に納めるもので、2千年もの長きにわたって続けられてきたと言う。写真は身取鰒を作る作業風景である。参考文献:『国崎の熨斗鰒づくり調査報告書』国崎町内会 2011年発行 | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1311 | 国崎熨斗鰒づくり8-1-4 | 伊勢神宮の神饌として納められる国崎の熨斗鰒作りである。熨斗鰒は国崎の海女達が採ったアワビを鎧崎の調製所で熨斗にして毎年6月と12月の月次祭と10月の神嘗祭に納めるもので、2千年もの長きにわたって続けられてきたと言う。写真は身取鰒を作る作業風景である。参考文献:『国崎の熨斗鰒づくり調査報告書』国崎町内会 2011年発行 | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1312 | 国崎熨斗鰒づくり8-1-5 | 伊勢神宮の神饌として納められる国崎の熨斗鰒作りである。熨斗鰒は国崎の海女達が採ったアワビを鎧崎の調製所で熨斗にして毎年6月と12月の月次祭と10月の神嘗祭に納めるもので、2千年もの長きにわたって続けられてきたと言う。写真は身取鰒を作る作業風景である。参考文献:『国崎の熨斗鰒づくり調査報告書』国崎町内会 2011年発行 | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1313 | 国崎熨斗鰒づくり8-1-6 | 伊勢神宮の神饌として納められる国崎の熨斗鰒作りである。熨斗鰒は国崎の海女達が採ったアワビを鎧崎の調製所で熨斗にして毎年6月と12月の月次祭と10月の神嘗祭に納めるもので、2千年もの長きにわたって続けられてきたと言う。写真は身取鰒を作る作業風景である。参考文献:『国崎の熨斗鰒づくり調査報告書』国崎町内会 2011年発行 | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1314 | 国崎の熨斗鰒づくり8-2-1 | 伊勢神宮の神饌として納められる国崎の熨斗鰒作りである。熨斗鰒は国崎の海女達が採ったアワビを鎧崎の調製所で熨斗にして毎年6月と12月の月次祭と10月の神嘗祭に納めるもので、2千年もの長きにわたって続けられてきたと言う。写真は貝殻付きのアワビを並べておくセイロと貝から外したアワビのヌメリをとる洗い桶と手桶である。参考文献:『国崎の熨斗鰒づくり調査報告書』国崎町内会 2011年発行 | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1315 | 国崎熨斗鰒づくり8-2-2 | 伊勢神宮の神饌として納められる国崎の熨斗鰒作りである。熨斗鰒は国崎の海女達が採ったアワビを鎧崎の調製所で熨斗にして毎年6月と12月の月次祭と10月の神嘗祭に納めるもので、2千年もの長きにわたって続けられてきたと言う。写真は貝殻付きのアワビを並べておくセイロと貝から外したアワビのヌメリをとる洗い桶と手桶である。参考文献:『国崎の熨斗鰒づくり調査報告書』国崎町内会 2011年発行 | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1316 | 国崎長浜の海士8-4-1 | 手前はノリアイ海女、奥は舟人海女かと思われる。出漁風景である。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士/大津浜(オオツハマ)の船人 出発」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1317 | 国崎長浜の海士8-4-2 | 手前はノリアイ海女、奥は舟人海女かと思われる。出漁風景である。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士/大津浜(オオツハマ)の船人 出発」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1318 | 国崎長浜の海士8-4-3 | 火を焚き暖をとっている海士達の回りにはタンポやスカリ、イソカゴやフゴ等が置かれている。白のスーツは海士で有ろうが、黒のスーツに磯手拭いを被るのは海女ではないかと思われる。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士/カチドのカマド」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1319 | 国崎長浜の海士8-4-4 | 火を焚き暖をとっている海士達の回りにはタンポやスカリ、イソカゴやフゴ等が置かれている。白のスーツの海士と共に、黒のスーツに磯手拭いを被るのは海女ではないかと思われる。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士/操業前」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1320 | 国崎長浜の海士8-4-5 | 操業開始の時間が来たのであろう。発泡スチロール製のタンポとスカリ、カギノミを持ち波打際で磯メガネを洗う。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士/泳ぎ出し」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1321 | 国崎長浜の海士8-4-6 | 操業開始の時間が来たのであろう。発泡スチロール製のタンポとスカリ、カギノミを置いて、波打際で磯メガネを洗い足ヒレを付ける。磯場に向かって泳ぎ始めたアマの姿も見える。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1322 | 国崎長浜の海士8-5-1 | 波打際で白のウエットスーツと白い磯手拭いを身に付け、左手に発泡スチロール製のタンポとスカリ、右手にカギノミを持つアマと、その横で磯メガネを洗う白いウエットスーツ姿のアマは年配の海女ではないかと思われる。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士/カチドの姿」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1323 | 国崎長浜の海士8-5-2 | カマドの回りで暖をとる海士達。回りには、メガネ箱やスカリ、イソカゴ、フゴ等が置かれている。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士/30人位はいる海士(若者)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1324 | 国崎長浜の海士8-5-3 | 「長間」という磯場で漁を終え、浜で火を囲んで暖をとる海士たち(左は海女)。海女と同じ磯場で潜る。周囲には、メガネ箱やスカリ、イソカゴ、フゴ等が置かれている。彼らは国崎町内外で仕事に就いており、専業海士ではない。この写真は、休日に海士をした時のもの。ウエットスーツが1世帯1着のため着衣で出漁している。この磯場は周辺が崖や岩場に囲まれており、足場が悪いため集落からの移動が大変な場所。崖のわずかな突起や窪みに四肢をかけて伝い下りる。皆、足腰が強く、崖からの落下事故は全くなかった。担い棒をかつげない場所は、まず地面に荷物を放り投げてから崖を下りていった。(「海辺の毎日 国崎の暮らし写真展」報告書より) アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士/海士の格好」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1325 | 国崎長浜の海士8-5-4 | 波打際に立つ手前の海士は左手に磯メガネ、右手にカギノミと発泡スチロール製のタンポとスカリを持つが、タンポにはアワビの大きさを計測するスンポとエノミが括り付けられている。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士/海士の姿」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1326 | 国崎長浜の海士8-5-5 | 右手にカギノミを握り発泡スチロール製のタンポに掴まって磯場へと泳ぎ出す海士(海女)。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1327 | 国崎長浜の海士8-5-6 | 右手に発泡スチロール製のタンポとスカリを抱え、左手にカギノミを握って磯場へと向かう海士。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1328 | 国崎長浜の海士8-6-1 | 右手に発泡スチロール製のタンポとスカリを持ち、左手にカギノミを握って磯場へと向かう海士。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1329 | 国崎長浜の海士8-6-2 | これから磯場へと向かうのであろうが、波打際に発泡スチロール製のタンポとスカリ、カギノミと足ヒレを置いて、磯メガネをかける海士。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1330 | 国崎長浜の海士8-6-3 | これから磯場へと向かうのであろうが、波打際で磯メガネの点検をする。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1331 | 国崎長浜の海士8-6-4 | 右手にカギノミを握り、発泡スチロール製のタンポに掴まって海底をのぞき込む。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士/水深3mくらい。海士(カチド)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1332 | 国崎長浜の海士8-6-5 | 右手にカギノミを握り、発泡スチロール製のタンポに掴まって磯場を移動する。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1333 | 国崎長浜の海士8-6-6 | 足の立つ深さのようある。磯場を確認しながら移動をする海士。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1334 | 国崎長浜の海士9-1-1 | 一潜目の操業を終えたのであろう。ウエットスーツを脱ぎ、磯着に着替える海女達。傍らには着替えなどが入れられているのであろうフゴが置かれている。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士/海から上がって着替えをするカチド海女」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1335 | 国崎長浜の海士9-1-2 | 「長間」で撮影された海士の写真。この写真も仕事の休みに潜りに来ていた時のもの。後ろで着替えているのは海女である。この磯場は崖や岩場に囲まれており、浜が狭いため、男女とも同じ場所で着替えや休憩をしていた。画像№1324参照(「海辺の毎日 国崎の暮らし写真展」報告書より) アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士/若いカマド」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1336 | 国崎長浜の海士9-1-3 | カマドの回りで暖をとるのは海士であるが、その奥で着替えをするのは海女達の様に見える。ここ国崎では、若い海士も海女も同じ磯場で操業をし、同じカマドを使って暖をとるようである。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士/若いカマド」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1337 | 国崎長浜の海士9-1-4 | 一潜目を終え、濡れたウエットスーツを脱いで磯着に着替えた海女。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士/若いカチド海女」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1338 | 国崎長浜の海士9-1-5 | 一潜目を終え、濡れたウエットスーツを脱いで磯着に着替えた海女。傍らには、発泡スチロール製のタンポやスカリ、フゴなどが置かれている。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士/若いカチド海女」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1339 | 国崎長浜の海士9-2-1 | アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士/海士の操業→水深3メートルの所で約40分もぐった。1回の息は20~30秒」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1340 | 国崎長浜の海士9-2-2 | 年配の海女か?アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1341 | 国崎長浜の海士9-2-3 | 年配の海女か?アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1342 | 国崎長浜の海士9-2-4 | 年配の海女か?アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1343 | 国崎長浜の海士9-2-5 | アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士/45分の海士」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1344 | 国崎長浜の海士9-2-6 | アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1345 | 国崎長浜の海士9-3-1 | カマドで暖をとる若い海女。左端は海士かと思われる。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1346 | 国崎長浜の海士9-3-2 | 『昭和48年11月1日現在 鳥羽市海女就業者綴り』によれば、国崎町における20歳代の徒人海女は19名と記されている。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士/ウニのトゲをとってもらう海士。1㎝ほどのトゲが刺さっていた」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1347 | 国崎長浜の海士9-3-3 | 『昭和48年11月1日現在鳥羽市海女就業者綴り』によれば、国崎町における20歳代の徒人海女は19名と記されている。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.11 国崎長浜の海士/ウニのトゲをとってもらう海士。1㎝ほどのトゲが刺さっていた」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.11 |
1348 | 国崎(徒人海女)9-4-1 | 一潜目を終えた徒人海女達であろう。少し遅れて上がってきたのか、ウエットスーツを脱いでいる海女や、すでに磯着に着替えてカマドで暖をとる海女など10人ほどが写される。傍らにはイソカゴやフゴ、担い棒などが置かれている。カマドでは海女達の小腹を満たすための、丸餅やサツマイモと思われるものが焼かれているようである。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.20 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.20 |
1349 | 国崎(徒人海女)9-4-4 | アルバムのデータ記載欄には「S54.6.20 国崎」と記される。一潜目を終えた徒人海女だろう。右手にカギノミ、左手で発泡スチロール製のタンポとスカリを肩に掛け浜辺に上がってきたところである。スカリにはアワビらしき物が入れられている。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.20 |
1350 | 国崎(徒人海女)9-4-5 | 一潜目を終えた徒人海女であろう。まだウエットスーツ姿であるが磯メガネを外し、磯着に着替えようとするところである。傍らには、発砲スチロール製のタンポやスカリにイソカゴ、着替えが入っているのか布製の手提袋などが見える。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.20 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.20 |
1351 | 国崎(徒人海女)9-4-6 | 一潜目を終えた徒人海女であろう。まだウエットスーツ姿であるが磯メガネを外し、磯着に着替えようとするところである。傍らには、発砲スチロール製のタンポやスカリにイソカゴ、着替えが入っているのか布製の手提袋などが見える。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.20 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.20 |
1352 | 国崎(徒人海女)9-5-1 | カマドで暖をとる徒人海女。一潜目を終えたのだろう。濡れたウエットスーツを脱いで磯着に着替え、カマドの火を背に暖をとる。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.20 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.20 |
1353 | 国崎(徒人海女)9-5-2 | 徒人海女の海女用具である。発泡スチロール製のタンポとスカリ、磯メガネ、カギノミ、手袋(軍手)が確認できる。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.20 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.20 |
1354 | 国崎(徒人海女)9-5-3 | 一潜目を終え、カマドへと向かう徒人海女だろう。右手に発泡スチロール製のタンポを、左手にスカリと足ヒレを小脇に挟んでいる。スカリにはアワビやサザエらしき物が入れられている。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.20 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.20 |
1355 | 国崎(徒人海女)9-5-4 | 一潜目を終えた徒人海女達であろう。ウエットスーツを脱ぎ磯着に着替える海女達や、すでに磯着に着替えてカマドで暖をとる海女など7人ほどが写される。傍らにはイソカゴやフゴ、カギノミ、メガネ箱などが置かれている。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.20 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.20 |
1356 | 国崎(徒人海女)9-5-5 | 一潜目を終えた徒人海女達であろう。ウエットスーツを脱ぎ磯着に着替える海女達や、すでに磯着に着替えてカマドで暖をとる海女など7人ほどが写される。傍らにはイソカゴやフゴ、メガネ箱、カギノミなどが置かれている。アルバムのデータ記載欄には「S54.6.20 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.20 |
1357 | 国崎(徒人海女)9-5-6 | 一潜(ひとかづき)目を終え、休息をとる10人ほどの海女。ウエットスーツ姿でカギノミと磯メガネを持つ海女や、ナカネに着替えて暖をとる海女がみられる。周囲にはイソカゴやフゴ、カギノミ、メガネ箱、担い棒などが置かれている。海女小屋が建てられない立地では、このように岩場の陰で火を焚いていた。火場では小腹を満たすための、丸餅やサツマイ モと思われるものが焼かれている。当時は髪の長い海女は珍しかった。(「海辺の毎日 国崎の暮らし写真展」報告書より)アルバムのデータ記載欄には「S54.6.20 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1979.06.20 |
1358 | 磯部のり場1-1-1 | アルバムのデータ記載欄には「1~4 磯部のり場」と記される。支柱網張り式のアオサ養殖風景である。アオサはアオサ目アオサ科の緑藻の総称であるが、流通しているアオサの多くはヒトエグサ(ヒトエグサ科)だと言われる。潮の満ち引きのある浅い海で育つため、波の静かな浅瀬に竹ソダを立てて網を張り養殖をする。 | 志摩市磯部町坂崎(伊雑浦) | (不明) |
1359 | 磯部のり場1-1-2 | アルバムのデータ記載欄には「1~4 磯部のり場」と記される。支柱網張り式のアオサ養殖風景である。アオサはアオサ目アオサ科の緑藻の総称であるが、流通しているアオサの多くはヒトエグサ(ヒトエグサ科)だと言われる。潮の満ち引きのある浅い海で育つため、波の静かな浅瀬に竹ソダを立てて網を張り養殖をする。 | 志摩市磯部町坂崎(伊雑浦) | (不明) |
1360 | 磯部のり場1-1-3 | 谷惣瓦店の瓦を焼く釜と思われる。 | 志摩市磯部町坂崎(伊雑浦) | (不明) |
1361 | 磯部のり場1-1-4 | アルバムのデータ記載欄には「1~4 磯部のり場」と記される。支柱網張り式のアオサ養殖風景である。アオサはアオサ目アオサ科の緑藻の総称であるが、流通しているアオサの多くはヒトエグサ(ヒトエグサ科)だと言われる。潮の満ち引きのある浅い海で育つため、波の静かな浅瀬に竹ソダを立てて網を張り養殖をする。 | 志摩市磯部町坂崎(伊雑浦) | (不明) |
1362 | 徒人海女1-1-5 | これから漁に行くのか海女用具を入れた磯桶を頭に乗せ、鉛のベルトを腰に巻いた二人の海女が急な坂道を歩く。 | 不明 | 不明 |
1363 | 徒人海女1-1-6 | これから漁に行くのか海女用具を入れた磯桶を肩に乗せ、波打際を二人の海女が歩く。 | 不明 | 不明 |
1364 | 大王・波切の海女1-4-1 | アルバムのデータ記載欄には「48.5.9 大王・波切の海女」と記される。大王崎の難所として知られるこの海域は、岩礁に富む豊かな漁場でもあることから、早くから避難港を兼ねた漁港としての整備が強く望まれてきた。波切漁港の整備は、大正7年に着工。昭和26年に漁港指定がなされ、同44年に整備計画漁港の指定を受けて第4次計画のもとで改修事業が進められてきた。写真の昭和48年は第5次の修築事業へと移行する年である。写真上部、やや右寄りの白い建造物は波切灯台かと思われる。参考文献:『三重の漁港1971/1995』 | 志摩市大王町波切 | 1973.05.09 |
1365 | 大王・波切の海女(波切の街並み景観)1-4-2 | アルバムのデータ記載欄には「48.5.9 大王・波切の海女/くり石」と記される。船の錨(アンカー)か、舟人海女が用いる古い形の分銅かと思われる。要調査 | 志摩市大王町波切 | 1973.05.09 |
1366 | 大王・波切の海女(波切の街並み景観)1-5-1 | アルバムのデータ記載欄には「48.5.9 大王・波切の海女」と記される。大王町波切の海岸線と街並景観である。写真左端に「たから荘」、中央やや右寄りに波切灯台と「奥志摩観光センター」の文字が確認できる。 | 志摩市大王町波切 | 1973.05.09 |
1367 | 大王・波切の海女(波切の街並み景観)1-5-2 | アルバムのデータ記載欄には「48.5.9 大王・波切の海女」と記される。大王町波切の街並景観である。大王町は石工を職業とする人達が多い町として知られるが、まるで城壁の様な石組みと斜面に軒を連ねる波切独特の街並みが写される。 | 志摩市大王町波切 | 1973.05.09 |
1368 | 大王・波切の海女(波切の街並み景観)1-5-3 | アルバムのデータ記載欄には「48.5.9 大王・波切の海女」と記される。大王町波切の海岸線と街並景観である。写真、中央やや右寄りに波切灯台と「奥志摩観光センター」、その下に「ミヤサキ真珠店」の文字が確認できる。 | 志摩市大王町波切 | 1973.05.09 |
1369 | 大王・波切の海女(波切の街並み景観)1-5-4 | アルバムのデータ記載欄には「48.5.9 大王・波切の海女」と記される。大王町波切の街並景観である。写真、中央に波切灯台と「奥志摩観光センター」、その下に「ミヤサキ真珠店」の文字が確認できる。 | 志摩市大王町波切 | 1973.05.09 |
1370 | 大王・波切の海女(波切の街並み景観)1-6-1 | アルバムのデータ記載欄には「48.5.9 大王・波切の海女」と記される。大王町波切の街並景観である。写真、中央に波切灯台と「奥志摩観光センター」、その下に「ミヤサキ真珠店」の文字が確認できる。モルタル造りの家の前では老人が一人、木々の片付けを続ける。 | 志摩市大王町波切 | 1973.05.09 |
1371 | 大王・波切の海女(波切の街並み景観)1-6-2 | アルバムのデータ記載欄には「48.5.9 大王・波切の海女」と記される。大王町波切の街並景観である。写真、中央に波切灯台と「奥志摩観光センター」、その下に「ミヤサキ真珠店」の文字が確認できる。海岸の防波堤から道路一つを隔てて、斜面に石垣を組上げながら民家が建ち並ぶ波切特有の景観である。 | 志摩市大王町波切 | 1973.05.09 |
1372 | 大王・波切の海女(波切の街並み景観)1-6-3 | アルバムのデータ記載欄には「48.5.9 大王・波切の海女」と記される。大王町波切の海岸線と街並景観である。海の難所として知られる海域である。打ち寄せる波を和らげるための改修工事が進められているのか、浜辺には真新しい消波ブロックが積上げられている。 | 志摩市大王町波切 | 1973.05.09 |
1373 | 大王・波切の海女(波切の街並み景観)1-6-4 | アルバムのデータ記載欄には「48.5.9 大王・波切の海女」と記される。大王町波切の街並景観である。石垣を組上げ、つづら折りに取付けられた階段状の小道を、子供を背負った婦人や漁師らしき男性が降りてくる。 | 志摩市大王町波切 | 1973.05.09 |
1374 | 大王・波切の海女(波切の街並み景観)1-6-5 | アルバムのデータ記載欄には「48.5.9 大王・波切の海女」と記される。大王町の波切漁港に作られた市場風景である。係留船からは「松和海事(株)」の作業船や、「ME3-30687」の船舶登録番号を付けた漁船が、市場には「港内スロー」の文字や「波切漁港」と記されたトロ箱が確認できる。写真上部の白い建造物は波切灯台である。 | 志摩市大王町波切 | 1973.05.09 |
1375 | 大王・波切の海女(波切の街並み景観)1-6-6 | アルバムのデータ記載欄には「48.5.9 大王・波切の海女」と記される。大王町波切漁港の景観である。係留船からは船尾に「■光丸」、「政丸」、「大黒丸」、「」壽和丸」、「三重波切港正栄丸」と記された漁船が確認できる。写真中央上部の白い建造物は波切灯台である。 | 志摩市大王町波切 | 1973.05.09 |
1376 | 国崎(海女)3-1-1 | れから磯へ行くのか、磯の帰りなのか、手拭いで頬被りをしてイナイボウの前にアラメらしき海藻を、後にはイソカゴを掛けた女性が海浜を歩く姿が写される。アルバムのデータ記載欄には「国崎」と記される。こ | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1377 | 国崎(海女)3-1-2 | 国崎の街角風景である。トラックの側に三人の婦人が話し込む。手拭いで頬被りをし、白の磯着を身に付ける女性は海女の様に見える。アルバムのデータ記載欄には「国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1378 | 国崎(海女)3-1-3 | 国崎の街角風景である。トラックの側に三人の婦人が話し込む。手拭いで頬被りをし、白の磯着を身に付ける女性は海女の様に見える。アルバムのデータ記載欄には「国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1379 | 国崎(海女)3-1-4 | 海女小屋で暖をとる海女達。これから一潜目に出漁するのか、一潜目を終えた後の休憩なのか不明であるが、カマドの火に背を向けて暖をとる。手前の女性は小腹を満たすためか、餅かオニギリのような物を手にする。アルバムのデータ記載欄には「国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1380 | 国崎(海女)3-1-5 | 女小屋の中であろう、磯手拭いでほおかぶりをした海女。側には幼児の姿も写る。アルバムのデータ記載欄には「国崎」と記される。海 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1381 | 国崎(海女)3-1-6 | カギノミかと思われる。ノミの持ち方を写したもの。アルバムのデータ記載欄には「国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1382 | 国崎(海女)3-1-7 | 場所は国崎の鎧崎にある船揚場斜路の上。写されては居ないが、写真の右手に海女小屋と熨斗鰒調製所が、左側には国崎の集落がある。アラメらしき海藻が干されているが、その先を後ろ手を組んだ婦人が集落に向かって歩いて行く。アルバムのデータ記載欄には「国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1383 | 国崎(海女)3-1-8 | 国崎の前の浜と集落の風景である。国崎の人々にとってこの前の浜は神聖な所で、ノット正月や二舟祭を始め、海女達が海の神様に供え物をする場所でもある。アルバムのデータ記載欄には「国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1384 | 国崎(海女)3-2-1 | 婦人と子 供と犬。孫だろうか、白の手拭いで頬被りをした婦人が幼児を膝に乗せて微笑む。アルバムのデータ記載欄には「国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1385 | 国崎(海女)3-2-2 | 国崎鎧崎の船揚場に設置されている巻上機小屋の前である。白の磯手拭いを被り、白の磯着を身に付けた女性が陸に揚げた漁船の片付けをする。海女だろうか、傍らには黒のウエットスーツが置かれている。アルバムのデータ記載欄には「国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1386 | 国崎(海女)3-2-3 | 鎧崎の船揚場斜路の山際に置かれた蛸壺。素焼きのタコツボが徐々に姿を消していく中、プラスチック製のものや写真のようなコンクリート製のタコツボが使われるようになってきた。アルバムのデータ記載欄には「国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1387 | 国崎(海女)3-2-4 | 海女だろうか、白の手拭いで頬被りをした婦人が石垣の前の険しい道を歩む。アルバムのデータ記載欄には「国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1388 | 国崎(海女)3-2-5 | 鎧崎の方向から集落へと入った所である。アラメらしき海藻をはみ出るほど入れたフゴを背負った婦人が集落へと向かう。アルバムのデータ記載欄には「国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1389 | 国崎(海女)3-2-6 | 集落から鎧崎へと向かう婦人達。一人は担い棒でイソカゴを担ぎ、もう一人は幼児を背負う。アルバムのデータ記載欄には「国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1390 | 国崎(海女)3-3-1 | 鎧崎の船揚場近くにある海女小屋の風景である。カマドでは火が焚かれているのか、磯着を身に付け戸口に立つ海女の間から白い煙が漏れ出している。戸口の側には、発泡スチロール製のタンポやスカリ、ウエットスーツなどが置かれている。アルバムのデータ記載欄には「国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1391 | 国崎(海女)3-3-2 | 鎧崎の船揚場近くにある海女小屋の風景である。カマドでは火が焚かれ、磯着を身に付けた海女達が暖をとる。戸口近くに立つ海女は小腹を満たすのか、甘藷らしき物を口にする。小屋の入り口近くにはは、流木などの薪が積まれ、発泡スチロール製のタンポ木製の浮樽(磯樽)、スカリ、イソカゴ、フゴ、ウエットスーツなどが置かれている。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる)アルバムのデータ記載欄には「国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1392 | 国崎(海女)3-3-3 | 鎧崎の船揚場近くにある海女小屋の風景である。カマドでは火が焚かれ、磯着を身に付けた海女達が暖をとる。小屋の入り口近くにはは、発泡スチロール製のタンポ、スカリ、イソカゴ、フゴ、ウエットスーツなどが置かれている。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる)アルバムのデータ記載欄には「国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1393 | 国崎(海女)3-3-4 | 海女だろうか、鎧崎の船揚場の斜路を頬被りをした婦人が先を急ぐ。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる)アルバムのデータ記載欄には「国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1394 | 国崎(海女)3-3-5 | 木製の浮樽(磯樽)とアワビの大きさを計測するスンポ、鉛のベルトである。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる)アルバムのデータ記載欄には「国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1395 | 国崎(海女)3-3-6 | 鎧崎の船揚場近くにある海女小屋で暖をとる海女達。磯着を身に付けた海女達がカマドの火を背にして暖をとる。写真手前の海女は小腹を満たすのか、甘藷らしき物を口にする。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる)アルバムのデータ記載欄には「国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1396 | 国崎(海女)3-4-1 | 国崎町鎧崎の船揚場の斜路である。丸太のコロに乗せて引き揚げられた漁船にはウエットスーツが干され、その傍らに海女らしき婦人が一人、周囲の様子を伺う。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1397 | 国崎(海女)3-4-2 | 国崎町鎧崎の船揚場である。頬被りをした年配の婦人が天日干しされたアラメらしき海藻を段ボールに入れて運んでいる。婦人の後には漁船を揚げるための巻上機が写されている。写されてはいないが、写真の左側は国崎町の集落、右側は海女小や熨斗鰒調製所が建つ鎧崎である。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1398 | 国崎(海女)3-4-3 | 国崎町鎧崎の船揚場である。頬被りをした年配の婦人が天日干しされたアラメの様な海藻を段ボールに入れて運んでいる。すれ違う様に漁から戻ってきたのか発泡スチロール製のタンポとスカリを肩に掛けた海女らしき婦人が集落へと向かう。その前方には漁船を揚げるための巻上機が写されている。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1399 | 国崎(海女)3-4-4 | 国崎町鎧崎の船揚場である。頬被りをした年配の婦人が集落へと向かう。その前方には漁船を揚げるための巻上機が写されている。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1400 | 国崎(海女)3-4-5 | 国崎町の船揚場と前の浜の景観である。二船祭りやノット正月の祭場として使われるなど、町の人達はこの浜を神聖な場所として大切にしている。写真右上に見える民家は国崎町の集落へと続き、手前の船揚場は海女小屋や熨斗鰒調製所が建つ鎧崎へと続く。 | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1401 | 国崎(海女)3-4-6 | 休憩をする海女。海女用具を入れるフゴを前に磯着を身に付けた海女が寛いでいるが、海女小屋の中での撮影かと思われる。 | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1402 | 国崎(海女)3-5-1 | かつては海女を生業としていたのだろうか。老婆が部屋で洗濯物をたたんでいる。孫か曽孫の物なのか、オシメの様である。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1403 | 国崎(海女)3-5-2 | かつては海女を生業としていたのだろうか。老婆が部屋で洗濯物をたたんでいる。孫か曽孫の物なのか、オシメの様である。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1404 | 国崎(海女)3-5-3 | かつては海女を生業としていたのだろうか。老婆が部屋で洗濯物をたたんでいる。孫か曽孫の物なのか、オシメの様である。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1405 | 国崎(海女)3-5-4 | かつては海女を生業としていたのだろうか。老婆が部屋で洗濯物をたたんでいる。孫か曽孫の物なのか、オシメの様である。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1406 | 国崎(海女)3-5-5 | かつては海女を生業としていたのだろうか。老婆が部屋で洗濯物をたたんでいる。孫か曽孫の物なのか、オシメの様である。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1407 | 国崎(海女)3-5-6 | 国崎町の街並み景観。木箱を担いだ村人が一人、鎧崎の船揚場方面から堤防沿いの道路を集落へと向かう。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1408 | 国崎(海女)3-6-1 | 国崎町鎧崎の船揚場の上に建てられている海女小屋の側であろう。漁を終え自宅へと帰るのか、これから漁に出かけるのか、磯着姿の海女がイナイボウにフゴとイソカゴを吊し出かけようとするところである。フゴには浮樽(磯樽)とスカリ、イソカゴにはメガネ箱とカギノミが入れられている。まだ、他にも海女達が居るのか傍らには浮樽や発泡スチロール製のタンポ、カギノミ等が置かれている。 | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1409 | 国崎(海女)3-6-2 | 国崎町鎧崎の船揚場の上に建てられている海女小屋で暖をとる海女達。 | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1410 | 国崎(海女)3-6-3 | 国崎町鎧崎の船揚場の上に建てられている海女小屋で暖をとる海女達。(手にしている物は何か=要調査) | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1411 | 国崎(海女)3-6-4 | 国崎町鎧崎の船揚場の上に建てられている海女小屋で暖をとる海女達。(手にしている物は何か=要調査) | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1412 | 国崎(海女)3-6-5 | 国崎町の街並み景観である。漁村特有の、家々が軒を連ねる。路地の奥へと向かう一匹の犬と、右手には「清酒神鷹 奥田酒店」の看板が見て取れる。 | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1413 | 国崎(海女)4-2-1 | 試し撮り、路面。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) アルバムのデータ記載欄には「国崎 47.8.25」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.25 |
1414 | 国崎(海女)4-2-2 | 徒人の海女達であろう。10人ほどの海女達が砂浜で焚火をし、暖をとりながら磯着へと着替える。周囲にはフゴやイソカゴ、発泡スチロール製のタンポ、スカリ等が置かれている。写真右下には数人の子供達が写る。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) アルバムのデータ記載欄には「国崎 47.8.25」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.25 |
1415 | 国崎(海女)4-2-3 | 徒人の海女達であろう。10人ほどの海女達が砂浜で焚火をし、暖をとりながら磯着へと着替える。周囲にはフゴやイソカゴ、発泡スチロール製のタンポ、スカリ等が置かれている。写真右下には数人の子供達が写る。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) アルバムのデータ記載欄には「国崎 47.8.25」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.25 |
1416 | 国崎(海女)4-3-1 | 徒人の海女達であろう。10人ほどの海女達が砂浜で焚火をし、暖をとりながら磯着へと着替える。周囲にはフゴやイソカゴ、発泡スチロール製のタンポ、スカリ等が置かれている。その手前では、学校教育の一環だろうか、教師らしき男性と8人の子供達がタンポやスカリの側で、同じ様に暖をとる。(緑色の斑点など劣化の兆候が見受けられる) アルバムのデータ記載欄には「国崎 47.8.25」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.25 |
1417 | 国崎(海女)4-3-2 | 徒人の海女達であろう。10人ほどの海女達が砂浜で焚火をし、暖をとりながら磯着へと着替える。周囲にはフゴやイソカゴ、発泡スチロール製のタンポ、スカリ等が置かれている。その手前では、学校教育の一環だろうか、教師らしき男性と8人の子供達がタンポやスカリの側で、同じ様に暖をとる。アルバムのデータ記載欄には「国崎 47.8.25」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.25 |
1418 | 国崎(海女)4-3-3 | 徒人の海女達であろう。12人ほどの海女達が砂浜で焚火をし、暖をとる。周囲にはフゴやイソカゴ、発泡スチロール製のタンポ、木製の浮樽(磯樽)、スカリ、イナイボウ等が置かれている。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) アルバムのデータ記載欄には「国崎 47.8.25」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.25 |
1419 | 国崎(海女)4-3-4 | 徒人の海女達であろう。12人ほどの海女達が砂浜で焚火をし、暖をとる。周囲にはフゴやイソカゴ、発泡スチロール製のタンポ、木製の浮樽(磯樽)、スカリ、イナイボウ等が置かれている。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) アルバムのデータ記載欄には「国崎 47.8.25」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.25 |
1420 | 国崎(海女)4-3-5 | 国崎漁港の港内風景である。出漁の準備か、漁師が一人船のエンジンを点検している様である。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) アルバムのデータ記載欄には「国崎 47.8.25」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.25 |
1421 | 国崎(海女)4-3-6 | 国崎漁港の港内風景で、20艘ほどの海女船の出漁と、写真右下には徒人であろうか、磯メガネの曇り止めをする海女や磯メガネをかける海女達が見て取れる。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) アルバムのデータ記載欄には「国崎 47.8.25」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.25 |
1422 | 国崎(海女)4-4-1 | 国崎漁港から磯場へと向かう海女船の出漁風景である。17~18艘程の海女船が写されているが、ノリアイの海女船は見当たらず、全てが舟人海女のようである。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) アルバムのデータ記載欄には「国崎 47.8.25」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.25 |
1423 | 国崎(海女)4-4-2 | 国崎漁港から磯場へと向かう海女船の出漁風景である。(青色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) アルバムのデータ記載欄には「国崎 47.8.25」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.25 |
1424 | 国崎(海女)4-4-3 | 国崎漁港から磯場へと向かう海女船の出漁風景である。(青色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) アルバムのデータ記載欄には「国崎 47.8.25」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.25 |
1425 | 国崎(海女)4-4-4 | 磯場に到着し、操業の合図を待つ海女船。アルバムのデータ記載欄には「国崎 47.8.25」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.25 |
1426 | 国崎(海女)4-4-5 | 海女の操業風景。写真上部には舟人海女であろう数隻の海女船が見える。写真下部の海女は徒人海女であろう。木製の浮樽(磯樽)にスカリを付けている。アルバムのデータ記載欄には「国崎 47.8.25」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.25 |
1427 | 国崎(海女)4-5-2 | 国崎町の海女の操業風景。徒人の海女かと思われる。発泡スチロール製のタンポに掴まり、息を整え次の潜水に備える。腰に鉛のベルトを付けているが、ウエットスーツは着用していないように見える。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1428 | 国崎(海女)4-5-3 | 国崎町の舟人海女の操業風景。良い磯場なのか、4隻の海女船は今にも船縁が当たりそうである。船頭達は右手でイソグルマの命綱を、左手で艪を操り、海底の海女達の動きに神経を尖らせる。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1429 | 国崎(海女)4-5-4 | 国崎町の舟人海女の操業風景。良い磯場なのか、3隻の海女船は今にも船縁が当たりそうである。船頭達は右手でイソグルマの命綱を、左手で艪を操り、海底の海女達の動きに神経を尖らせる。船腹には「ME3-28824」の船舶登録番号が見て取れる。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1430 | 国崎(海女)4-5-5 | 国崎町の舟人海女の操業風景。良い磯場なのか、3隻の海女船は今にも船縁が当たりそうである。船頭達は右手でイソグルマの命綱を、左手で艪を操り、海底の海女達の動きに神経を尖らせる。真ん中の船頭は、海女からの合図があったのか、命綱を手繰上げる手に力が入る。船腹には「ME3-28824」の船舶登録番号が見て取れる。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1431 | 国崎(海女)4-5-6 | 国崎町の舟人海女の操業風景。20隻ほどの海女船が岩礁の沖合で操業を続ける。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1432 | 国崎(海女)4-6-1 | 国崎町の舟人海女の操業風景。良い磯場なのか、3隻の海女船は今にも船縁が当たりそうである。船頭達は右手でイソグルマの命綱を、左手で艪を操り、海底の海女達の動きに神経を尖らせる。船腹には「ME3-28824/ME3-25851」の船舶登録番号が見て取れる。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1433 | 国崎(海女)4-6-2 | 国崎町の舟人海女の操業風景。良い磯場なのか、3隻の海女船は今にも船縁が当たりそうである。船頭達は右手でイソグルマの命綱を、左手で艪を操り、海底の海女達の動きに神経を尖らせる。船腹には「ME3-28824/ME3-25851」の船舶登録番号が見て取れる。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1434 | 国崎(海女)4-6-3 | 国崎町の舟人海女の操業風景。良い磯場なのか、2隻の海女船は今にも船縁が当たりそうである。船頭達は右手でイソグルマの命綱を、左手で艪を操り、海底の海女達の動きに神経を尖らせる。船腹には「ME3-25851」の船舶登録番号が見て取れる。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1435 | 国崎(海女)4-6-4 | 国崎町の舟人海女の操業風景。良い磯場なのか、2隻の海女船は今にも船縁が当たりそうである。船頭達は右手でイソグルマの命綱を、左手で艪を操り、海底の海女達の動きに神経を尖らせる。沖側の船頭は、海女からの合図があったのか、命綱を手繰上げる手に力が入る。船腹には「ME3-2585■」の船舶登録番号が見て取れる。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1436 | 国崎(海女)4-6-5 | 国崎町の徒人海女の操業風景。発泡スチロール製のタンポの綱を握り海底の様子を伺う海女も写るが、ウエットスーツは身につけていないようである。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1437 | 国崎(海女)4-6-6 | 国崎町の徒人海女の操業風景。発泡スチロール製のタンポに掴まり息を整え次の潜水に備える。ウエットスーツは身につけていないようである。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1438 | 国崎(海女)5-1-1 | 国崎町の徒人海女の操業風景。発泡スチロール製のタンポに掴まり息を整え次の潜水に備える。ウエットスーツは身につけていないようである。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1439 | 国崎(海女)5-1-2 | 国崎町の徒人海女の操業風景。木製の浮樽(磯樽)や発泡スチロール製のタンポに掴まり、海底の様子を確認しながら磯場を移動していく。白の磯着だけで、ウエットスーツは身につけていないように思われる。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1440 | 国崎(海女)5-1-3 | 国崎漁港の港内風景。海女漁の操業を終え帰港したところであろう、数隻の海女船が港内の浜辺へと向かう。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1441 | 国崎(海女)5-1-4 | 国崎漁港の港内風景。海女漁の操業を終え帰港したのであろう、十隻程の海女船が波打際に艫から留められている。海女達は船が波で動いてしまわないように棒で船上から操る。写真上部に道路が見えるか、右手は国崎町の集落、左手は相差町へと続く。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1442 | 国崎(海女)5-1-5 | 国崎漁港の港内風景。海女漁の操業を終え帰港したのであろう、十隻程の海女船が波打際に艫から留められている。海女達は船が波で動いてしまわないように棒で船上から操る。写真上部に道路が見えるか、右手は国崎町の集落、左手は相差町へと続く。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1443 | 国崎(海女)5-1-6 | 国崎町鎧崎の船揚場かと思われる。海女漁の操業を終え帰港したのであろう、漁船の引揚げ作業風景である。漁港整備が十分でない時代には、漁を終えればその都度、丸太のコロを船底に敷き村人達が共同で陸へと引き揚げた。また、木造船の場合は船底に着く貝や海藻を取り除き、防虫を兼ねて藁や茅等で船底を焼く「フナダテ」も行われた。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1444 | 国崎(海女)5-2-1 | 国崎町鎧崎の船揚場である。海女漁の操業を終え帰港したのであろう、漁船の引揚げ作業風景である。漁港整備が十分でない時代には、漁を終えればその都度、丸太のコロを船底に敷き村人達が共同で陸へと引き揚げた。写されてはいないが、写真右手に海女小屋や熨斗鰒の調製所がある。左手堤防沿いの道路を行けば国崎町の集落である。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1445 | 国崎(海女)5-2-2 | 国崎町鎧崎の船揚場である。写真中下段の右端には、海女達が採ってきた漁獲物をイソカゴに入れて畜養する姿が写る。中央の赤い旗は、海女漁の操業開始と終了を合図する時に使われる物かと思われる。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1446 | 国崎(海女)5-2-3 | 海女漁の操業開始と終了を合図する時に使われる旗竿かと思われる。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1447 | 国崎(海女)5-2-4 | 海女漁の操業開始と終了を合図する時に使われる旗竿かと思われる。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1448 | 国崎(海女)5-2-5 | 海女漁の操業開始と終了を合図するサイレンかと思われる(要調査)。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1449 | 国崎(海女)5-2-6 | 海女漁等に関する張り紙。「告知:本日は鮑採の予定 場所 棚波瀬・みじもの・とおり・ぼんぼ 一回磯/要望 時間はお互いに守ってください、稚貝は愛護致しませう、エンジンは使用に注意しませう/八月二十五日/各位/国崎漁業協同組合」、「告示:皆様方のご協力によりまして諸海藻の値段は下記の通りです。今後共にお願い致します。上天草10K 5,320円原価/青天草10K 4,880円原価/長■10K ■■■」、「■■十六日(旧十八日) ■会式(御盆会) ■峯 青峯山」、「■・・・■老の浜にお願いします。目鏡其の他は禁止、事故防止の為御協力をお願い致します。/各位/国崎漁業協同組合」の張り紙が確認できる。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1450 | 国崎(海女)5-3-1 | 海女漁等に関する張り紙。「告知:本日は鮑採の予定 場所 棚波瀬・みじもの・とおり・ぼんぼ 一回磯/要望 時間はお互いに守ってください、稚貝は愛護致しませう、エンジンは使用に注意しませう/八月二十五日/各位/国崎漁業協同組合」、「告示:皆様方のご協力によりまして諸海藻の値段は下記の通りです。今後共に■■■」、「■■■六日(旧十八日) ■■■」の張り紙が確認できる。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1451 | 国崎(海女)5-3-2 | 国崎町の海女用具。フゴ、イソカゴ、メガネ箱等 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1452 | 国崎(海女)5-3-3 | かつては海女を生業としていたのだろうか。玄関先で孫の守をしながら豆を剥く老婆。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1453 | 国崎(海女)5-3-4 | 国崎町の街並み景観である。これから海女漁に出かけるのか磯手拭に菅笠を被り、薪とイソカゴを前に、浮樽(磯樽)を入れたフゴを後に掛けたイナイボウを担ぐ婦人が集落内の路地を歩いて行く。少し分かり難いが路地の奥にも同様の婦人が見える。 | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1454 | 国崎(海女)5-3-5 | 国崎町の街並み景観である。これから海女漁に出かけるのか磯手拭を被った婦人が、薪らしき物を入れたフゴを肩に、その後を発砲スチロール製のタンポとイソカゴ、スカリを吊したイナイボウを担ぐ婦人達が海岸方面へと急ぐ。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1455 | 国崎(海女)5-3-6 | 国崎町の堤防道路の光景である。孫だろうか、子供を背負い煙草をくわえた老人の横を、これから海女漁に出かけるのか発泡スチロール製のタンポとイソカゴ、スカリを吊したイナイボウを担ぐ婦人と右手に木製の浮樽(磯樽)とスカリ、左肩に薪らしき物を入れたフゴを担いだ婦人が、鎧崎方面から国崎漁港方面へと堤防道路を歩いて行く。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (1972) |
1456 | 国崎6-3-1 | 今では見ることも少なくなってきた蛸壺漁に用いる首くくり式の素焼きのタコツボである。地域によっては「タコガメ」と呼んだりもするが、常滑や三州製のものが多く、大・中・小の大きさがある。タコはきれいな住処を好むと言われ、海中から引き揚げられたタコツボは、海藻やフジツボ等を取り除く作業が行われる。【参考文献】『海の図鑑』海の博物館編・1988年発行 アルバムのデータ記載欄には「S47.8.17 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.17 |
1457 | 国崎6-3-2 | 蛸壺漁に用いる首くくり式の素焼きのタコツボである。地域によっては「タコガメ」と呼んだりもするが、常滑や三州製の素焼きの物に取って代わって出てきたコンクリート製やプラスチック製のタコツボである。【参考文献】『海の図鑑』海の博物館編・1988年発行 アルバムのデータ記載欄には「S47.8.17 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.17 |
1458 | 国崎6-3-3 | 国崎町の海女用具、イソカゴである。アルバムのデータ記載欄には「S47.8.17 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.17 |
1459 | 国崎6-3-4 | 国崎町の海女用具、イソカゴと発泡スチロール製のタンポとスカリである。アルバムのデータ記載欄には「S47.8.17 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.17 |
1460 | 国崎(海女)6-3-5 | 国崎町の海女用具、フゴである。地域によっては「イジコ」と呼ばれたりする。海女漁に出かけるとき、着替えや弁当、お茶などを入れ、イナイボウで担いだり、肩に掛けたりして持って行く。アルバムのデータ記載欄には「S47.8.17 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.17 |
1461 | 国崎6-3-6 | 放流鮑の稚貝標本。各々の鮑貝の下に「ふ化後7か月放流時40.6.1/放流後1か月/放流後2か月/放流後9か月/放流後11か月」と記された表記カードが入れられている。アルバムのデータ記載欄には「S47.8.17 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.17 |
1462 | 国崎6-4-1 | 国崎の海域は「伊勢の神前、国崎の鎧、波切大王なけりゃよい」とまで船乗り達に恐れられた海の難所である。ひとたび海が荒れ始めると打ち寄せる波はなんなく堤防を乗り越えてくる。漁師達にとって漁港の整備は長年の悲願でもあった。アルバムのデータ記載欄には「S47.8.17 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.17 |
1463 | 国崎6-4-2 | 国崎の海域は「伊勢の神前、国崎の鎧、波切大王なけりゃよい」とまで船乗り達に恐れられた海の難所である。ひとたび海が荒れ始めると打ち寄せる波はなんなく堤防を乗り越えてくる。漁師達にとって漁港の整備は長年の悲願でもあった。アルバムのデータ記載欄には「S47.8.17 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.17 |
1464 | 国崎6-4-3 | 国崎町の船揚場へと続く前の浜と海岸沿いの集落景観である。二船祭りやノット正月の祭場として使われるなど、町の人達はこの浜を神聖な場所として大切にしている。写真に写されてはいないが、右側は船揚場と海女小屋、熨斗鰒調製所が建つ鎧崎である。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.17 |
1465 | 国崎6-4-4 | 伊勢神宮の神饌として納められる国崎の熨斗鰒作りである。熨斗鰒は国崎の海女達が採ったアワビを鎧崎の調製所で熨斗にして毎年6月と12月の月次祭と10月の神嘗祭に納めるもので、2千年もの長きにわたって続けられてきたと言う。写真は身取鰒を作る作業風景で、アワビの汚れを洗い落とす。参考文献:『国崎の熨斗鰒づくり調査報告書』国崎町内会 2011年発行 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.17 |
1466 | 国崎6-4-5 | 放流鮑の稚貝標本。各々の鮑貝の下に「ふ化後7か月放流時40.6.1/放流後1か月/放流後2か月/放流後9か月/放流後11か月」と記された表記カードが入れられている。アルバムのデータ記載欄には「S47.8.17 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.08.17 |
1467 | 国崎6-4-6 | 国崎町鎧崎近辺の景観。家屋の横に止められている軽トラックには「鳥羽市国崎町 世古建設」の名前が見て取れる。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1468 | 国崎7-1-1 | 国崎町鎧崎の船揚場横に建てられている海女小屋の内部である。ブロックで囲われた小屋のほぼ中央には土を掘ってカマドが作られ、壁には発泡スチロール製のタンポやスカリ、ウエットスーツ、磯着等が掛けられている。アルバムのデータ記載欄には「S47 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972 |
1469 | 国崎7-1-2 | 国崎町鎧崎の船揚場横に建てられている海女小屋の外観である。周囲をブロックで囲い、屋根はトタン葺きである。小屋の外には流木と思われるカマド用の薪が積まれている。アルバムのデータ記載欄には「S47 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972 |
1470 | 国崎7-1-3 | 国崎町鎧崎の熨斗鰒調製所から見た船揚場風景。調製所の外には漁師らしき老人が腰を下ろしている。漁は休みなのか、老人の視線の先にある船揚場には、二重、三重に陸揚げされた漁船が並ぶ。アルバムのデータ記載欄には「S47 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972 |
1471 | 国崎7-1-4 | 熨斗鰒調製所で寛ぐ古老達。平成14年の漁業協同組合合併までは、国崎漁協が中心となって熨斗づくりが行われてきた。熨斗鰒づくりが一段落したのか、窓際に並べられた手桶やノシガタナの側で4人の古老達が休息を取る。アルバムのデータ記載欄には「S47 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972 |
1472 | 国崎7-1-5 | 熨斗鰒調製所で寛ぐ古老達。平成14年の漁業協同組合合併までは、国崎漁協が中心となって熨斗づくりが行われてきた。熨斗鰒づくりが一段落したのか、古老達が休息を取る。窓際に手桶やノシガタナが並べられている。アルバムのデータ記載欄には「S47 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972 |
1473 | 国崎7-1-6 | 国崎の海岸風景。アルバムのデータ記載欄には「S47 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972 |
1474 | 国崎7-2-1 | 国崎町の集落景観。集落内の市道から海側を望む。 | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1475 | 国崎7-2-2 | 国崎町鎧崎の船揚場近辺であろうか。錨が積まれた小屋の前で、イソカゴに道具を入れ傍らに鍬を置いた婦人が畑仕事へでも行くのか、何やら作業をしている。その側に犬が一匹座っている。 | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1476 | 国崎7-2-3 | 国崎町鎧崎の船揚場横に建てられている海女小屋の入り口付近から見た風景である。海女小屋で暖をとるために使う薪の上にはウエットスーツが干されている。 | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1477 | 国崎7-2-4 | 国崎町鎧崎の船揚場横に建てられている海女小屋付近の風景である。小屋の外には刺網や素焼きのタコツボ、プラスチックのタンポ等が積まれている。写真の鳥居をくぐって階段を上って行くと山の神を祀る祠が建てられている。 | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1478 | 国崎7-2-5 | 国崎町の海女用具。発泡スチロール製のタンポとスカリ、カギノミ、メガネ箱と磯メガネである。左端の鉄製の釜は不明(要調査)。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1479 | 国崎7-2-6 | 国崎町鎧崎の船揚場横に建てられている海女小屋の内部である。ブロックで囲われた小屋のほぼ中央には土を掘ってカマドが作られ、壁際にはフゴやイソカゴが置かれている。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1480 | 国崎7-3-1 | 国崎町の海女用具。カマドで暖をとるために使用する流木などの薪の上にウエットスーツが干されている。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1481 | 国崎7-3-2 | 国崎町鎧崎の船揚場近辺の景観黒く塗られた瓦葺きの小さな家屋は、漁具などを保管する漁師小屋かと思われる。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1482 | 国崎7-3-3 | 国崎町鎧崎の船揚場の風景である。漁に出ているのか陸に揚げられた漁船はわずかである。写真の右手堤防沿いに進めば国崎町の集落。写されてはいないが左側には海女小屋や熨斗鰒調製所が建てられている。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1483 | 国崎7-3-4 | 国崎町の集落景観である。道路左側の建物は漁具等を保管する漁師小屋で戸口には屋号が記されている。子供を背負った老婦人が歩く先は鎧崎である。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1484 | 国崎7-3-5 | かつては海女を生業としていたのだろうか。老婆が部屋で洗濯物をたたんでいる。孫か曽孫の物なのか、オシメの様である。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる)(№1402に写される老婆と同一人物) アルバムのデータ記載欄には「S46」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1485 | 国崎7-3-6 | かつては海女を生業としていたのだろうか。老婆が部屋で洗濯物をたたんでいる。孫か曽孫の物なのか、オシメの様である。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる)(№1402に写される老婆と同一人物) アルバムのデータ記載欄には「S46」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | (不明) |
1486 | 国崎アラメ拾い7-4-1 | 国崎町鎧崎の前の浜であろう。昔から海の難所として恐れられてきた海域である。少しの気圧の変化でも海はうねり、海底を揺すり白波が岩場を洗う。アラメや天草などの海藻類も岩から剥がれたり千切れたりして海岸へ打ち寄せられるが、漁村地域ではそれらを拾い集めて、食材や田畑の肥料として活用してきた。 アルバムのデータ記載欄には「S47年不明 国崎アラメ拾い」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972 |
1487 | 国崎アラメ拾い7-4-2 | 国崎町鎧崎の前の浜であろう。昔から海の難所として恐れられてきた海域である。少しの気圧の変化でも海はうねり、海底を揺すり白波が岩場を洗う。アラメや天草などの海藻類も岩から剥がれたり千切れたりして海岸へ打ち寄せられるが、漁村地域ではそれらを拾い集めて、食材や田畑の肥料として活用してきた。 アルバムのデータ記載欄には「S47年不明 国崎アラメ拾い」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972 |
1488 | 国崎アラメ拾い7-4-3 | 国崎漁港を相差町寄りの浜からみた風景である。昔から海の難所として恐れられてきた海域である。少しの気圧の変化でも海はうねり、海底を揺すり白波が岩場を洗う。アラメや天草などの海藻類も岩から剥がれたり千切れたりして浜辺や海岸に打ち寄せられるが、漁村地域ではそれらを拾い集めて、食材や田畑の肥料として活用してきた。アルバムのデータ記載欄には「S47年不明 国崎アラメ拾い」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972 |
1489 | 国崎アラメ拾い7-4-4 | 国崎漁港を相差町寄りの浜からみた風景である。昔から海の難所として恐れられてきた海域である。少しの気圧の変化でも海はうねり、海底を揺すり白波が岩場を洗う。アラメや天草などの海藻類も岩から剥がれたり千切れたりして浜辺や海岸に打ち寄せられるが、漁村地域ではそれらを拾い集めて、食材や田畑の肥料として活用してきた。アルバムのデータ記載欄には「S47年不明 国崎アラメ拾い」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972 |
1490 | 国崎アラメ拾い7-4-5 | 昔から海の難所として恐れられてきた海域である。少しの気圧の変化でも海はうねり、海底を揺すり白波が岩場を洗う。アラメや天草などの海藻類も岩から剥がれたり千切れたりして浜辺や海岸に打ち寄せられるが、漁村地域ではそれらを拾い集めて、食材や田畑の肥料として活用してきた。アルバムのデータ記載欄には「S47年不明 国崎アラメ拾い」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972 |
1491 | 国崎アラメ拾い7-4-6 | 国崎漁港を相差町寄りの浜からみた風景である。昔から海の難所として恐れられてきた海域である。少しの気圧の変化でも海はうねり、海底を揺すり白波が岩場を洗う。アラメや天草などの海藻類も岩から剥がれたり千切れたりして浜辺や海岸に打ち寄せられるが、漁村地域ではそれらを拾い集めて、食材や田畑の肥料として活用してきた。アルバムのデータ記載欄には「S47年不明 国崎アラメ拾い」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972 |
1492 | 国崎アラメ拾い7-5-1 | 国崎漁港を相差町寄りの浜からみた風景である。昔から海の難所として恐れられてきた海域である。少しの気圧の変化でも海はうねり、海底を揺すり白波が岩場を洗う。アラメや天草などの海藻類も岩から剥がれたり千切れたりして浜辺や海岸に打ち寄せられるが、漁村地域ではそれらを拾い集めて、食材や田畑の肥料として活用してきた。アルバムのデータ記載欄には「S47年不明 国崎アラメ拾い」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972 |
1493 | 国崎アラメ拾い7-5-2 | 海が荒れるとアラメや天草などの海藻類が岩から剥がれたり千切れたりして浜辺に打ち寄せられる。漁村地域では昔からそれらの海藻類が打ち寄せられるのを拾い集めて、食材や田畑の肥料として活用してきた。アルバムのデータ記載欄には「S47年不明 国崎アラメ拾い」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972 |
1494 | 国崎アラメ拾い7-5-3 | 海が荒れるとアラメや天草などの海藻類が岩から剥がれたり千切れたりして浜辺に打ち寄せられる。漁村地域では昔からそれらの海藻類が打ち寄せられるのを拾い集めて、食材や田畑の肥料として活用してきた。アルバムのデータ記載欄には「S47年不明 国崎アラメ拾い」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972 |
1495 | 国崎アラメ拾い7-5-4 | 海が荒れるとアラメや天草などの海藻類が岩から剥がれたり千切れたりして浜辺に打ち寄せられる。漁村地域では昔からそれらの海藻類が打ち寄せられるのを拾い集めて、食材や田畑の肥料として活用してきた。アルバムのデータ記載欄には「S47年不明 国崎アラメ拾い」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972 |
1496 | 国崎アラメ拾い7-5-5 | 海が荒れるとアラメや天草などの海藻類が岩から剥がれたり千切れたりして浜辺に打ち寄せられる。漁村地域では昔からそれらの海藻類が打ち寄せられるのを拾い集めて、食材や田畑の肥料として活用してきた。アルバムのデータ記載欄には「S47年不明 国崎アラメ拾い」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972 |
1497 | 国崎アラメ拾い7-5-5 | 海が荒れるとアラメや天草などの海藻類が岩から剥がれたり千切れたりして浜辺に打ち寄せられる。漁村地域では昔からそれらの海藻類が打ち寄せられるのを拾い集めて、食材や田畑の肥料として活用してきた。アルバムのデータ記載欄には「S47年不明 国崎アラメ拾い」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972 |
1498 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-1-1 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。磯手拭いを被り、ウエットスーツに鉛のベルトを巻き、命綱を付けた海女が磯場へと向かう船上風景である。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31 |
1499 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-1-2 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。磯場へと向かう出漁風景である。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31 |
1500 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-1-3 | 国崎町鎧崎灯台。鳥羽市国崎町の鎧崎に建つ。昭和38年2月27日点灯。八角形のコンクリート造りで高さ9.61m、平均水面からの高さ26.06m。灯質は明暗白光・明3秒暗3秒。実効光度110カンデラ。光達距離は5.5海里である。【参考文献】第四管区海上保安本部編・発行『航路標識一覧表』平成23年発行 アルバムのデータ記載欄には「48.7.31 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31 |
1501 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-1-4 | ノリアイ海女であろう。船縁にはイソグルマが取付けられているが、船には3人の海女が乗り込んでいる。船頭は船縁からイソカゴを降ろしている。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31 |
1502 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-1-5 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。磯場へ到着し、操業開始の合図を待つ海女と船頭。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31 |
1503 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-1-6 | ノリアイ海女であろう。船には磯手拭いを被り、ウエットスーツに着替えて磯メガネの曇り止めをする海女等3人が乗り込んでいる。船縁には発泡スチロール製のタンポとスカリが置かれているのが見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31 |
1504 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-2-1 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。磯場へ到着し、操業開始の合図を待つ海女と船頭。白い建造物は、鎧崎灯台である。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31 |
1505 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-2-2 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。磯場へと向かう出漁風景である。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31 |
1506 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-2-3 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。磯手拭いを被りウエットスーツに着替え鉛のベルトを巻き、コシスカリと命綱を付け、磯メガネの曇り止めを施す海女の船上風景である。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31 |
1507 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-2-4 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。磯手拭いを被りウエットスーツに着替え鉛のベルトを巻き、コシスカリと命綱を付け、磯メガネの曇り止めを施す海女の船上風景である。船頭の側にはイソカゴも置かれている。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31 |
1508 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-2-5 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。国崎町と石鏡町の磯境に近い磯場へと向かう出漁風景である。写真の上部白い帯の様に見えるのは、パールロード、山腹に点在する白い建物は「サンレポータウン」の名称で宅地開発された別荘地である。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31 |
1509 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-2-6 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。国崎町と石鏡町の磯境に近い磯場に到着し操業開始の合図を待つ海女船。写真右上の丸い建造物はパールロード箱田山展望台のレストハウス、その下をパールロードが走り、左中央部の山腹に点在する白い建物は「サンレポータウン」の名称で宅地開発された別荘地である。 パールロードは、自衛隊の協力を得て昭和37年11月に着工。同39年6月に安楽島~浦村町今浦間の幅員6m、総延長約3.8㎞の工事が完成した。その後、麻生浦大橋の建設工事が進められ、磯部町三ヶ所までの18.2㎞の第一期工事は昭和48年に完成した。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31 |
1510 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-3-1 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。国崎町と石鏡町の磯境に近い磯場に到着し操業開始の合図を待つ。写真右上の丸い建造物はパールロード箱田山展望台のレストハウス、その下をパールロードが走り、左中央部の山腹に点在する白い建物は「サンレポータウン」の名称で宅地開発された別荘地である。左端の漁船の船尾には「清宝」の船名が確認できる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31 |
1511 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-3-2 | 男のアマ「海士」の様である。磯メガネをかけ、右手にカギノミと発泡スチロール製のタンポにスカリ、左手にタンポに付けた石の重りを持って船縁を歩く。間もなく操業が開始されそうである。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31 |
1512 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-3-3 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。国崎町と石鏡町の磯境に近い磯場に到着し操業開始の合図を待つ。漁船の船尾には「清宝」の船名が確認できる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31 |
1513 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-3-4 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。磯手拭いを被り磯メガネをかけ、ウエットスーツにコシスカリを付けたアマが船縁に腰掛け業開始の合図を待つ。船には2本のイソグルマが取付けられている。梶は引き揚げられて船頭が艪をつかって船を操る。船縁のイソカゴには「○に正」の屋号が記されている。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)/旗合図まち」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31 |
1514 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-3-5 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。磯手拭いを被り磯メガネをかけ、ウエットスーツにコシスカリを付け、手にはカギノミを持ったアマが船縁に腰掛け業開始の合図を待つ。船にはイソグルマが取付けられ、梶は引き揚げられて船頭が艪をつかって船を操る。船縁からはイソカゴが吊り下げられている。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31 |
1515 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-3-6 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。磯手拭いを被り磯メガネをかけ、ウエットスーツにコシスカリを付け、手にはカギノミを持ったアマが船縁に腰掛け業開始の合図を待つ。船にはイソグルマが取付けられ、梶は引き揚げられて船頭が艪をつかって船を操る。船縁からはイソカゴが吊り下げられている。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31 |
1516 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-4-1 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。舟人海女の操業風景である。船頭が命綱を引き揚げ海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整える。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1517 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-4-2 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。舟人海女の操業風景である。海底から海女の合図があったのか船頭は一気に命綱を手繰上げる。(船縁に取付けられた2本のイソグルマの使い分けは不明である) アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1518 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-4-3 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。舟人海女の操業風景である。船頭が命綱を引き揚げ海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整え、船縁に掴まって次の潜水に備える。(船縁に取付けられた2本のイソグルマの使い分けは不明である) アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1519 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-4-4 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。舟人海女の操業風景である。船頭が命綱を引き揚げ海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整える。海女が採ってきたウニやアワビ等を入れるためにイソグルマの下にはイソカゴが吊されている。 アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1520 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-4-5 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。舟人海女の操業風景である。海底から海女の合図があったのか船頭は一気に命綱を手繰上げる。海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整える。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1521 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-4-6 | 国崎町と石鏡町の磯境に近いところで操業する舟人海女の船団。写真山頂の丸い建造物はパールロード箱田山展望台のレストハウス、その下をパールロードが走り、山腹に点在する白い建物は「サンレポータウン」の名称で宅地開発された別荘地である。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1522 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-5-1 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。舟人海女の操業風景である。船頭が命綱を引き揚げ海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整える。海女が採ってきたウニやアワビ等を入れるためにイソグルマの下にはイソカゴが吊されている。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1523 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-5-2 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。舟人海女の操業風景である。海底から海女の合図があったのか船頭は一気に命綱を手繰上げる。海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整える。海女が採ってきたウニやアワビ等を入れるためにイソグルマの下にはイソカゴが吊されている。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1524 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-5-3 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。舟人海女の操業風景である。海面に浮上した海女は、採ってきたウニやアワビ等をイソグルマの下に吊されたイソカゴに入れ、船縁に掴まりながら息を整え次の潜水に備える。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1525 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-5-4 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。舟人海女の操業風景である。海底から海女の合図があったのか船頭は一気に命綱を手繰上げる。海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整える。船頭は梶を上げ右手で命綱を、左手で艪を操りながら海女の作業を助ける。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1526 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-5-5 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。舟人海女の操業風景である。海底から海女の合図があったのか船頭は一気に命綱を手繰上げる。海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整える。海女が採ってきたウニやアワビ等を入れるためにイソグルマの下にはイソカゴが吊されている。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1527 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-5-6 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。舟人海女の操業風景である。海底から海女の合図があると船頭はイソグルマに掛けた命綱を一気に手繰上げる。海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整える。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1528 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-6-1 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。舟人海女の操業風景である。海底から海女の合図があると船頭は命綱を一気に手繰上げる。海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整える。イソグルマの下には採ってきたウニやアワビ等を入れるためのイソカゴが吊されている。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1529 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-6-2 | 国崎町と石鏡町の磯境に近いところで操業する舟人海女の船団。写真山頂の丸い建造物はパールロード箱田山展望台のレストハウス、その下をパールロードが走る。写真左下の海女船からは「ME-33241」の船舶登録番号が確認できる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1530 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-6-3 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。舟人海女の操業風景である。海底から海女の合図があると船頭は命綱を一気に手繰上げる。海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整える。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1531 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-6-4 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。舟人海女の操業風景である。海底から海女の合図があると船頭は命綱を一気に手繰上げる。海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整える。イソグルマの下には採ってきたウニやアワビ等を入れるためのイソカゴが吊されている。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1532 | 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-6-5 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。舟人海女の操業風景である。海底から浮上した海女は、船縁に掴まりながら息を整え次の潜水へと備える。船頭は海流や風で磯場から船が流されないように、艪を使いヤマテを見ながら船を操る。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1533 | 国崎 ととかか舟9-1-3 | 国崎町と石鏡町の磯境に近いところで操業する舟人海女の船団。山腹の白い帯状のものはパールロード、その下に点在する白い建物は「サンレポータウン」の名称で宅地開発された別荘地である。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎 ととかか舟/世古昌生<夫婦>」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1534 | 国崎 ととかか舟9-1-4 | 国崎町と石鏡町の磯境に近いところで操業する舟人海女の船団。山頂の丸い建造物はパールロード箱田山展望台のレストハウス、その下をパールロードが走る。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎 ととかか舟/世古昌生<夫婦>」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1535 | 国崎 ととかか舟9-1-5 | 舟人海女の操業風景である。海底から海女の合図があると船頭は命綱を一気に手繰上げる。海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整える。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎 ととかか舟/世古昌生<夫婦>」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1536 | 国崎 ととかか舟9-1-6 | 国崎町と石鏡町の磯境に近いところで操業する舟人海女の船団。山腹の白い帯状のものはパールロード、その下に点在する白い建物は「サンレポータウン」の名称で宅地開発された別荘地である。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎 ととかか舟/世古昌生<夫婦>」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1537 | 国崎 ととかか舟9-2-1 | 舟人海女の操業風景である。海底から海女の合図があると船頭は命綱を一気に手繰上げる。海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整える。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎 ととかか舟/世古昌生<夫婦>」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1538 | 国崎 ととかか舟9-2-2 | 舟人海女の操業風景である。海底から海女の合図があると船頭は命綱を一気に手繰上げる。海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整える。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎 ととかか舟/世古昌生<夫婦>」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1539 | 国崎 ととかか舟9-2-3 | 舟人海女の操業風景である。海底から海女の合図があると船頭はイソグルマに掛けた命綱を一気に手繰上げる。海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整える。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎 ととかか舟/世古昌生<夫婦>」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1540 | 国崎 ととかか舟9-2-4 | 舟人海女の操業風景である。船頭は左手で艪を漕ぎ船の位置を調整しながら、右手は海底から海女の合図に神経を研ぎ澄ませる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎 ととかか舟/世古昌生<夫婦>」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1541 | 国崎 ととかか舟9-2-5 | 舟人海女の操業風景である。海底から海女の合図があると船頭はイソグルマに掛けた命綱を一気に手繰上げる。海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整える。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎 ととかか舟/世古昌生<夫婦>」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1542 | 国崎 ととかか舟9-2-6 | 舟人海女の操業風景である。浮上した海女は採ってきた漁獲物をイソグルマの下に吊されイソカゴに入れ、船縁に掴まりながら息を整え次の潜水に備える。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎 ととかか舟/世古昌生<夫婦>」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1543 | 国崎 ととかか舟9-3-1 | 舟人海女の操業風景である。海底から海女の合図があると船頭はイソグルマに掛けた命綱を一気に手繰上げる。海面に浮上する直前の海女の姿である。イソグルマの下にはイソカゴが吊されている。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎 ととかか舟/世古昌生<夫婦>」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1544 | 国崎 ととかか舟9-3-2 | 舟人海女の操業風景である。海底から海女の合図があると船頭はイソグルマに掛けた命綱を一気に手繰上げる。手にカギノミを持ち、海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整える。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎 ととかか舟/世古昌生<夫婦>」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1545 | 国崎 ととかか舟9-3-3 | 舟人海女の操業風景である。浮上した海女は採ってきた漁獲物をイソグルマの下に吊されイソカゴに入れ、船縁に掴まりながら息を整え次の潜水に備える。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎 ととかか舟/世古昌生<夫婦>」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1546 | 国崎 ととかか舟9-3-4 | 舟人海女の操業風景である。海底から海女の合図があると船頭はイソグルマに掛けた命綱を一気に手繰上げる。海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整える。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎 ととかか舟/世古昌生<夫婦>」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1547 | 国崎 ととかか舟9-3-5 | 舟人海女の操業風景である。海底から海女の合図があると船頭はイソグルマに掛けた命綱を一気に手繰上げる。海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整える。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎 ととかか舟/世古昌生<夫婦>」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1548 | 国崎 ととかか舟9-3-6 | ノリアイ海女の操業風景だろうか。頭から潜水し海面に残った海女の足ヒレの先に木製の浮樽(磯樽)が見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎 ととかか舟/世古昌生<夫婦>」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1549 | 国崎(海女)9-4-1 | 国崎町舟人海女の出漁風景である。鎧崎灯台近辺から海上を撮影したものかと思われる。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎(海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1550 | 国崎(海女)9-4-2 | 国崎町舟人海女の操業風景である。写真左下に写される三人の海女達はノリアイの海女か徒人の海女かと思われる。鎧崎灯台近辺から海上を撮影したものであろう。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎(海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1551 | 国崎(海女)9-4-3 | 国崎町の徒人海女である。漁を終えたのか、右手に足ヒレ、左手に発泡スチロール製のタンポとスカリ、スンポ、磯メガネを持っている。アワビ・サザエ・ウニ等が入っているのか手にするスカリは重そうである。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎(海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1552 | 国崎(海女)9-4-4 | 漁を終え鎧崎の船揚場へ戻った海女船。船は波打際に規則正しく艫から着けられ、ウインチと人力で陸へと引き揚げられる。奥の船はすでに引き揚げを始めたのか、船頭と海女が船縁を押している。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎(海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1553 | 国崎(海女)9-4-5 | 鎧崎船揚場の船揚げ風景である。漁を終え、鎧崎の船揚場に戻った海女船は、波打際に規則正しく艫から着けられ、丸太のコロを船底に敷き順次陸へと引き揚げられる。艫のロープはすでにウインチに結わえられているのであろう、船頭が左手を高々と上げて巻揚げ開始の合図を送っている。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎(海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1554 | 国崎(海女)9-4-6 | 漁を終え鎧崎の船揚場へ戻った海女船。鎧崎の船揚場に戻った海女船は波打際に規則正しく艫から着けられ、ウインチと人力で陸へと引き揚げられる。艫に「しんせい」書かれた船名が確認できる。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎(海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1555 | 国崎(海女)9-5-1 | 漁を終え鎧崎の船揚場へ戻った海女船。鎧崎の船揚場に戻った海女船は、波打際に規則正しく艫から着けられ、ウインチと人力で陸へと引き揚げられる。船頭や海女は、引き上げの順番が来るまでにコロの準備をし、風や波で船が動かないようにするなど、船揚作業が終わるまで気を抜くことが出来ない。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎(海女)/船上げ」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1556 | 国崎(海女)9-5-2 | 漁を終え鎧崎の船揚場へ戻った海女船。鎧崎の船揚場に戻った海女船は、波打際に規則正しく艫から着けられ、ウインチと人力で陸へと引き揚げられる。船頭や海女は、引き上げの順番が来るまでにコロの準備をし、風や波で船が動かないようにするなど、船揚作業が終わるまで気を抜くことが出来ない。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎(海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1557 | 国崎(海女)9-5-3 | 国崎町海岸沿いの山腹で「サンレポータウン」の名称で行われた別荘地を中心とした大規模開発である。この開発地の直ぐ下は海女漁などの重要な磯場になっており、開発工事に伴う土砂の流出や建築物から排出される生活雑排水の問題など、漁業権を持つ地元漁民との間で幾多の協議が交わされた。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎(海女)/開発」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1558 | 国崎(海女)9-5-4 | 国崎町海岸沿いの山腹で「サンレポータウン」の名称で行われた別荘地を中心とした大規模開発である。この開発地の直ぐ下は海女漁などの重要な磯場になっており、開発工事に伴う土砂の流出や建築物から排出される生活雑排水の問題など、漁業権を持つ地元漁民との間で幾多の協議が交わされた。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎(海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1559 | 国崎(海女)9-5-5 | 国崎町徒人海女の操業風景である。発砲スチロール製のタンポを持つ海女と、木製の浮樽(磯樽)を持つ海女が見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎(海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1560 | 国崎(海女)9-5-6 | 浜辺で暖をとる国崎町の徒人海女。イソカゴの数から見ると数人の海女グループの様である。これから漁に出るのか、一潜目を終え早く上がってきた海女が焚火の準備をしているのか、周囲にはフゴやイソカゴ、イナイボウ、メガネ箱等が並べられている。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎(海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1561 | 国崎(海女)9-6-1 | 国崎町徒人海女の操業風景である。発砲スチロール製のタンポを持つ海女と、木製の浮樽(磯樽)を持つ海女が見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎(海女)」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1562 | 国崎(海女)10-1-1 | 国崎町舟人海女の操業風景である。海底から海女の合図があると船頭はイソグルマに掛けた命綱を一気に手繰上げる。海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整える。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎舟人/世古昌生」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1563 | 国崎(海女)10-1-2 | 国崎町舟人海女の操業風景である。海底から海女の合図があると船頭はイソグルマに掛けた命綱を一気に手繰上げる。海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整える。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎舟人/世古昌生」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1564 | 国崎(海女)10-1-3 | 国崎町舟人海女の操業風景である。海底から海女の合図があると船頭はイソグルマに掛けた命綱を一気に手繰上げる。海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整える。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎舟人/世古昌生」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1565 | 国崎(海女)10-1-4 | 国崎町舟人海女の操業風景である。海底から海女の合図があると船頭はイソグルマに掛けた命綱を一気に手繰上げる。海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整える。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎舟人/世古昌生」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1566 | 国崎(海女)10-2-1 | 国崎町舟人海女の操業風景である。海底から海女の合図があると船頭はイソグルマに掛けた命綱を一気に手繰上げる。海面に浮上した海女は、磯笛と呼ばれる独特の呼吸法で息を整える。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎舟人/世古昌生」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1567 | 国崎(海女)10-2-2 | 国崎町舟人海女の操業風景である。操業終了の合図が出たのか、黒のウエットスーツに磯手拭いを被り磯メガネを掛けた海女が船縁に手を掛け船上に上がろうとしている。ノミを持つ時、特に親指に力が入るのか右手の軍手が破けているのが見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎舟人/世古昌生」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1568 | 国崎(海女)10-2-3 | 国崎町舟人海女の操業風景である。操業終了の合図が出たのか、黒のウエットスーツに磯手拭いを被り磯メガネを掛け、腰には鉛のベルトを巻いた海女が船縁に手を掛け船上に上がろうとしている。平成22年の調査では、国崎の一潜は1時間30分とされているが、決して楽な労働ではないのだろう、船縁に身を置くその姿からも見て取れるように思える。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎舟人/世古昌生」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1569 | 国崎(海女)10-2-4 | 国崎町舟人海女の操業風景である。操業終了の合図が出たのか、黒のウエットスーツに磯手拭いを被り磯メガネを掛け、腰には鉛の重りを巻いた海女が船上に上がって来たところである。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎舟人/世古昌生」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1570 | 国崎(海女)10-2-5 | 国崎町舟人海女の船上風景である。一潜を終え、港へ帰るところであろう。イソカゴを前に磯メガネと腰の鉛のベルトを外し、濡れた磯手拭いを直している所である。写真上部左端の山腹にパールロードとサンレポータウンが見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎舟人/世古昌生」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1571 | 国崎(海女)10-2-6 | 国崎町舟人海女の船上風景である。一潜を終え、港へ帰るところであろう。イソカゴを前に磯メガネと腰の鉛のベルトを外し、濡れた磯手拭いを直している所である。写真上部左端の山腹にパールロードとサンレポータウンが見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎舟人/世古昌生」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1572 | 国崎(海女)10-3-1 | 国崎町舟人海女の船上風景である。一潜を終え、港へ帰るところであろう。イソカゴを前に磯メガネと腰の鉛のベルトを外し、濡れた磯手拭いを直している所である。写真上部左端の山腹にパールロードとサンレポータウンが見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎舟人/世古昌生」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1573 | 国崎(海女)10-3-2 | 国崎町舟人海女の船上風景である。一潜を終え、港へ帰るところであろう。イソカゴを前に磯メガネと腰の鉛のベルトを外し、濡れた磯手拭いを直している所である。船頭は命綱か分銅のロープを巻き取っている。腹にパールロードとサンレポータウンが見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎舟人/世古昌生」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1574 | 国崎(海女)10-3-3 | 国崎町舟人海女の船上風景である。一潜を終え、港へ帰るところであろう。イソカゴを前に腰の鉛のベルトを外し、磯メガネの汚れを拭き取る。海女達はノミやメガネ等の用具を大切にする。かつては親から子へと何代も使われた来た物も有ると聞く。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎舟人/世古昌生」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1575 | 国崎(海女)10-3-4 | 国崎町舟人海女の船上風景である。一潜を終え、港へ帰るところであろう。イソカゴを前に腰の鉛のベルトを外し、磯メガネの汚れを拭き取る。海女達はノミやメガネ等の用具を大切にする。かつては親から子へと何代も使われた来た物も有ると聞く。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎舟人/世古昌生」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1576 | 国崎(海女)10-3-5 | 漁を終え、港へと帰る舟人海女の船団。写真右上山頂の丸い建造物はパールロード箱田山展望台のレストハウス、その下をパールロードが走り、山腹に点在する白い建物は「サンレポータウン」の名称で宅地開発された別荘地である。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎舟人/世古昌生」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1577 | 国崎(海女)10-3-6 | 漁を終え、港へと帰る舟人海女の船団。写真右上山頂の丸い建造物はパールロード箱田山展望台のレストハウス、その下をパールロードが走り、山腹に点在する白い建物は「サンレポータウン」の名称で宅地開発された別荘地である。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~8.1 AM 国崎舟人/世古昌生」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~8.1 |
1578 | 国崎(海女)10-4-1 | 国崎町舟人海女の船上風景である。写真の船頭は世古昌生さんかと思われる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1579 | 国崎(海女)10-4-2 | 国崎町舟人海女の船上風景である。黒のウエットスーツを着込み、白い磯手拭いを被る写真の海女は世古昌生夫妻の海女船かと思われる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1580 | 国崎(海女)10-4-3 | 国崎町舟人海女の船上風景である。黒のウエットスーツを着込み、白い磯手拭いを被る写真の海女は世古昌生夫妻の海女船かと思われる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1581 | 国崎(海女)10-4-4 | 国崎町舟人海女の船上風景である。命綱か分銅のロープを手繰る写真の船頭は世古昌生さんかと思われる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1582 | 国崎(海女)10-4-5 | 国崎町舟人海女の船上風景である。命綱か分銅のロープを手繰る写真の船頭は世古昌生さんかと思われる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1583 | 国崎(海女)10-4-6 | 国崎町舟人海女の船上風景である。黒のウエットスーツを着込み、白い磯手拭いを被る写真の海女は世古昌生夫妻の海女船かと思われる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1584 | 国崎(海女)10-5-1 | 国崎町舟人海女の船上風景である。命綱か分銅のロープを手繰る写真の船頭は世古昌生さんかと思われる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1585 | 国崎(海女)10-5-2 | 国崎町舟人海女の船上風景である。命綱か分銅のロープを手繰る写真の船頭は世古昌生さんかと思われる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1586 | 国崎(海女)10-5-3 | 国崎町舟人海女の船上風景である。磯場に着き、操業開始の合図を待っているのであろう。写真右上山腹に白く写るのはパールロードである。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1587 | 国崎(海女)10-5-4 | 国崎熨斗鰒づくり。白装束に身を包んだ老人が乾燥した熨斗アワビを束ねているが、「身取鰒」づくりかと思われる。「身取鰒」は片連10枚、双連20枚にした「大身取鰒」と、片連3枚と2枚、合わせて5枚を藁紐で綴って1連とした「小身取鰒」がある。参考文献:『国崎の熨斗鰒づくり調査報告書』国崎町内会 2011年発行 アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎/10.10」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | (1973.10.10) |
1588 | 国崎(海女)10-5-5 | 国崎熨斗鰒づくり。白装束に身を包んだ老人が乾燥した熨斗アワビを束ねているが、「玉貫鰒」づくりかと思われる。「玉貫鰒」は乾燥させた鰒の小片を編んだ藁紐に片連12枚、双連24枚を梯子のように横に挟んで一連とした物である。参考文献:『国崎の熨斗鰒づくり調査報告書』国崎町内会 2011年発行 アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎/10.10」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | (1973.10.10) |
1589 | 国崎(海女)10-6-1 | 男性のポートレート当時の国崎漁協専務かと思われる(要調査)。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1590 | 国崎(海女)10-6-2 | 若い女性のポートレート(要調査)。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1591 | 国崎(海女)10-6-3 | 鉢巻を締め、斧らしき物を手にする年配の男性が写る(要調査)。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1592 | 国崎(海女)10-6-4 | 石鏡漁港の南側に位置する港内風景かと思われる。特に石鏡地区は外海に面し、風波の影響が大きいことから、漁港整備が完備されるまでは、このように漁を終えた漁船は全て陸へと引き揚げられた。写真右端の木柱には「釣船 新屋」の看板が見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1972.07.31~1 |
1593 | 国崎(海女)10-6-5 | 女児2人、男児1人のポートレート(要調査)。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1594 | 国崎(海女)10-6-6 | 男児のポートレート(要調査)。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1595 | 国崎(海女)10-6-7 | 女児3人、男児1人のポートレート(要調査)。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1596 | 国崎(海女)10-6-8 | 漁業協同組合の市場風景かと思われる。順番を待つ十数人の女性達は海女を生業とする人々かも知れない(要調査)。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1597 | 国崎(海女)10-6-9 | 男性のポートレート。当時の国崎漁協組合長太田ヤスオさん。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1972.07.31~1 |
1598 | 国崎11-1-1 | 通称「オオツハマ(大津浜)」と呼ばれる国崎漁港の景観である。国崎の海域は「伊勢の神前、国崎の鎧、波切大王なけりゃよい」とまで船乗り達に恐れられた海の難所である。昭和28年に漁港指定がされ、昭和38年度に整備計画漁港の指定を受けて第3、4次計画で防波堤・物揚場・船揚場等を造成。昭和48年度からは第5次整備計画の基で修築事業が進められた。係留船舶からは「■勝丸」、「寿洋丸/ME3-34425」等の船名が確認できる。(参考文献:『三重の漁港1971/1995』) アルバムのデータ記載欄には「48.10.10 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.10.10 |
1599 | 国崎11-1-2 | 通称「オオツハマ(大津浜)」と呼ばれる国崎漁港の景観である。引き揚げられた漁船の側で子供達が遊ぶ。アルバムのデータ記載欄には「48.10.10 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.10.10 |
1600 | 国崎11-1-3 | 通称「オオツハマ(大津浜)」と呼ばれる国崎漁港の景観である。丸太のコロを敷いて引き揚げられた漁船の側で、漁師が刺網(要調査)の破れを繕う。波打際では、これから漁に出るのか、小船が一艘その準備を進めている。アルバムのデータ記載欄には「48.10.10 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.10.10 |
1601 | 国崎11-1-4 | 国崎漁港の船揚場の景観である。丸太のコロを敷いて引き揚げられた漁船の側で、引き揚げ用のロープを手にした漁師が忙しそうに働く。足下には船の修理に使う道具箱らしき物と、一本釣り用の釣箱などが置かれている。アルバムのデータ記載欄には「48.10.10 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.10.10 |
1602 | 国崎11-1-5 | 国崎漁港の船揚場の景観である。丸太のコロを敷いて引き揚げられた漁船の側に夫婦と思われる漁師が佇む。写真右上端の漁船からは「HAKURYU」の船名が読み取れる。アルバムのデータ記載欄には「48.10.10 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.10.10 |
1603 | 国崎11-1-6 | 国崎町鎧崎に建つ伊勢神宮の神饌を作る熨斗鰒調製所である。調製所は昭和10年に神宮司庁によって、この鎧崎に御料鰒調整所が建設されることになり、翌11年1月に竣工したと言う。熨斗鰒づくりの作業は毎年5月から6月の2か月間で行われ、6月の月次祭、10月の神嘗祭、12月の月次祭と神宮の三節祭に合わせて献上されるが、一回に使われる鰒は100㎏と言われる。なお、平成16年に三重県無形民俗文化財に指定されている。参考文献:『国崎の熨斗鰒づくり調査報告書』国崎町内会 2011年発行 アルバムのデータ記載欄には「48.10.10 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.10.10 |
1604 | 国崎11-2-1 | 国崎町の前の浜と集落の風景である。国崎の人々にとってこの前の浜は神聖な場所で、ノット正月や二舟祭を始め、海女達が海の神様に供え物をする場所でもある。写真右手は船揚場である。集落の左側、本瓦葺きの建物は曹洞宗鳥羽常安寺の末寺、宝剣山常福寺である。アルバムのデータ記載欄には「48.10.10 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.10.10 |
1605 | 国崎11-2-2 | ノシガタナを使って剥かれ、乾燥を終えた熨斗鰒である。これから身取鰒や玉貫鰒が作られていく。アルバムのデータ記載欄には「48.10.10 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.10.10 |
1606 | 国崎11-2-3 | 国崎町鎧崎の熨斗鰒調製所で作業が行われる熨斗鰒づくりである。乾燥を終えた鰒を、片連10枚、双連20枚にした「大身取鰒」と、片連3枚と2枚、合わせて5枚を藁紐で綴って1連とした「小身取鰒」、さらに鰒の小片を編んだ藁紐に片連12枚、双連24枚を梯子のように横に挟んで一連とした「玉貫鰒」が作られ、6月の月次祭、10月の神嘗祭、12月の月次祭と神宮の三節祭に合わせて献上される。アルバムのデータ記載欄には「48.10.10 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.10.10 |
1607 | 国崎11-2-4 | 国崎町鎧崎の熨斗鰒調製所で作業が行われる熨斗鰒づくりである。寸法切りと呼ばれる作業で、裁ち板の上に、伸ばしたアワビを乗せ身取用寸法である9寸(27㎝)又は玉貫用の寸法である2寸2分(6.6㎝)の長さに切り揃えていく。アルバムのデータ記載欄には「48.10.10 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.10.10 |
1608 | 国崎11-2-5 | 写真の老人が右手に持つ物は直径6㎝ほどの真竹を輪切りにした物で「コロ竹」と呼ばれる。乾燥させた長熨斗を一度水に浸し、水分を与えてコロ竹に巻き付け、タチイタの上で転がしてシワを伸ばしていく。アルバムのデータ記載欄には「48.10.10 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.10.10 |
1609 | 国崎11-2-6 | 写真の老人が右手に持つ物は直径6㎝ほどの真竹を輪切りにした物で「コロ竹」と呼ばれる。乾燥させた長熨斗を一度水に浸し、水分を与えてコロ竹に巻き付け、タチイタの上で転がしてシワを伸ばしていく。アルバムのデータ記載欄には「48.10.10 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.10.10 |
1610 | 国崎(海女)12-1-1 | 国崎町の海浜風景。写真手前には船を陸に揚げる時に用いる丸太のコロ、海上沖合に小さく写る10隻程の漁船は舟人の海女船かも知れない。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1611 | 国崎(海女)12-1-2 | 国崎町徒人海女の操業風景である。鎧崎の近辺であろうか。黒のウエットスーツを着込み、白い磯手拭いと磯メガネを付け、タンポに掴まって磯場を移動する数名の海女達が見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1612 | 国崎(海女)12-1-3 | 国崎町の集落景観である。写真上部の山腹に山肌を見せているのはパールロード。その右端に少しだけ本瓦葺の屋根を見せているのは曹洞宗鳥羽常安寺の末寺、宝剣山常福寺である。海上には徒人海女が操業しているのが見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1613 | 国崎(海女)12-1-4 | 国崎町前の浜の背後に広がる集落景観である。写真中央上部、本瓦葺の屋根の建物は曹洞宗鳥羽常安寺の末寺、宝剣山常福寺である。海上には徒人海女が操業しているのが見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1614 | 国崎(海女)12-1-5 | 国崎町の集落景観である。ここ国崎町も漁村特有の海岸線の後背地の斜面に軒を連ねるように家々が密集する。写真上部の山腹に山肌を見せているのはパールロード。海上には徒人海女が操業しているのが見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1615 | 国崎(海女)12-1-6 | 国崎町徒人海女の操業風景である。鎧崎の近辺であろうか。黒のウエットスーツを着込み、白い磯手拭いと磯メガネを付け、浮樽(磯樽)に掴まって磯場を移動する海女の姿が見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1616 | 国崎(海女)12-2-1 | 国崎町徒人海女の操業風景である。鎧崎の近辺であろうか。潜水の直後で有る。海面には黒のウエットスーツを着込んだ海女の足ヒレと、浮樽(磯樽)が見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1617 | 国崎(海女)12-2-2 | 国崎町鎧崎に立てられている御影石の石柱で「海上安全/大漁満足」の文字が刻まれる。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1618 | 国崎(海女)12-2-3 | 国崎町鎧崎灯台。鳥羽市国崎町の鎧崎に建つ。昭和38年2月27日点灯。八角形のコンクリート造りで高さ9.61m、平均水面からの高さ26.06m。灯質は明暗白光・明3秒暗3秒。実効光度110カンデラ。光達距離は5.5海里である。【参考文献】第四管区海上保安本部編・発行『航路標識一覧表』平成23年発行 アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1619 | 国崎(海女)12-2-4 | 国崎町徒人海女が暖をとる風景である。午後からの操業なのか、二人の海女が暖をとる傍らにはフゴやイソカゴ、弁当箱らしき物が置かれ、焚火には甘藷や干物等が焼かれている。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1620 | 国崎(海女)12-2-5 | 国崎町徒人海女が暖をとる風景である。傍らにはフゴやイソカゴ、スカリ、イナイボウ等が置かれている。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1621 | 国崎(海女)12-2-6 | 国崎町徒人海女が暖をとる風景である。右側の白い磯着を身に付けた海女の左手には、焚火で焼いた干物らしき物が持たれている。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1622 | 国崎(海女)12-3-1 | 国崎町徒人海女が暖をとる風景である。右側の白い磯着を身に付けた海女の左手には、焚火で焼いた干物らしき物が持たれている。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1623 | 国崎(海女)12-3-2 | 国崎町徒人海女が暖をとる風景である。右側の白い磯着を身に付けた海女は、焚火で焼いたのか、サザエらしき物の身をカギノミで取り出そうとしている。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1624 | 国崎(海女)12-3-3 | 国崎町徒人海女が暖をとる風景である。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1625 | 国崎(海女)12-3-4 | 国崎町徒人海女が暖をとる風景である。左手にはカギノミが握られている。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1626 | 国崎(海女)12-3-5 | 国崎町徒人海女が暖をとる風景である。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1627 | 国崎(海女)12-3-6 | 国崎町舟人海女の操業風景である。沖合に十数隻の海女船と思われる漁船が見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「48.9.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.09.18 |
1628 | 甲賀(海女)12-4-1 | アルバムのデータ記載欄には「甲賀 48.5.9」と記される。甲賀の浜で乾燥させた天草かと思われる海藻のゴミを取る老婦人。 | 志摩市阿児町甲賀 | 1973.05.09 |
1629 | 甲賀(海女)12-4-2 | アルバムのデータ記載欄には「火ばち 甲賀 48.5.9」と記される。海女が暖をとるときに用いる物で甲賀地域では「火鉢<ヒバチ>」と呼ばれている。 | 志摩市阿児町甲賀 | 1973.05.09 |
1630 | 甲賀(海女)12-4-3 | アルバムのデータ記載欄には「天草もみ 甲賀 48.5.9」と記される。船の錨として使っていた物だろうか、舟人海女のフンドウ(甲賀地区ではハイカラと呼んだりする)として用いていた物だろうか、穴を開けロープを付けた平たい円形の石の上で老婦人が天草のゴミを取る。傍らには乳母車が、陸に引き揚げられた漁船からは「堀口俊雄 ME3-29854」の船舶登録番号等が見て取れる。 | 志摩市阿児町甲賀 | 1973.05.09 |
1631 | 甲賀(海女)12-4-4 | アルバムのデータ記載欄には「老女の天草もみ 甲賀 48.5.9」と記される。船の錨として使っていた物だろうか、舟人海女のフンドウ(甲賀地区ではハイカラと呼んだりする)として用いていた物だろうか、穴を開け、ロープを付けた平たい円形の石の上で老婦人が天草のゴミを取る。乾燥させた天草に付着する汚れや根の部分に付いた小石等を木槌で叩いて取り除いていく。 | 志摩市阿児町甲賀 | 1973.05.09 |
1632 | 甲賀(海女)12-4-5 | アルバムのデータ記載欄には「老女の天草もみ 甲賀 48.5.9」と記される。船の錨として使っていた物だろうか、舟人海女のフンドウ(甲賀地区ではハイカラと呼んだりする)として用いていた物だろうか、穴を開け、ロープを付けた平たい円形の石の上で老婦人が天草のゴミを取る。乾燥させた天草に付着する汚れや根の部分に付いた小石等を木槌で叩いて取り除いていく。 | 志摩市阿児町甲賀 | 1973.05.09 |
1633 | 甲賀(海女)12-4-6 | アルバムのデータ記載欄には「老女の天草もみ 甲賀 48.5.9」と記される。船の錨として使っていた物だろうか、舟人海女のフンドウ(甲賀地区ではハイカラと呼んだりする)として用いていた物だろうか、穴を開け、ロープを付けた平たい円形の石の上で老婦人が天草のゴミを取る。乾燥させた天草に付着する汚れや根の部分に付いた小石等を木槌で叩いて取り除いていく。 | 志摩市阿児町甲賀 | 1973.05.09 |
1634 | 甲賀(海女)12-5-1 | アルバムのデータ記載欄には「海女小屋 48.5.9」と記される。堤防の真下に作られたいくつもの海女小屋、大半は古材やトタンで作られた簡易な物で、個人や数人のグループで使用される。 | 志摩市阿児町甲賀 | 1973.05.09 |
1635 | 甲賀(海女)12-5-2 | アルバムのデータ記載欄には「海女小屋 48.5.9」と記される。堤防の真下に作られたいくつもの海女小屋、大半は古材やトタンで作られた簡易な物で、個人や数人のグループで使用される。 | 志摩市阿児町甲賀 | 1973.05.09 |
1636 | 甲賀(海女)12-5-3 | アルバムのデータ記載欄には「老女の天草もみ 甲賀 48.5.9」と記される。船の錨として使っていた物だろうか、舟人海女のフンドウ(甲賀地区ではハイカラと呼んだりする)として用いていた物だろうか、穴を開け、ロープを付けた平たい円形の石の上で老婦人が天草のゴミを取る。乾燥させた天草に付着する汚れや根の部分に付いた小石等を木槌で叩いて取り除いていく。 | 志摩市阿児町甲賀 | 1973.05.09 |
1637 | 国崎1-1-1 | 国崎町鎧崎の景観である。写真手前は船揚場の斜路で引き揚げられている漁船からは「福平丸」の船名が確認できる。中央左のブロック塀の建物は海女小屋でその右側の鳥居の奥には山の神か祀られ、その右手階段を上れば伊勢神宮の神饌をつくる熨斗鰒調製所である。アルバムのデータ記載欄には「63.1.6」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1988.01.06 |
1638 | 国崎鎧崎と護岸工事初1-2-1 | 鎧崎の船揚場の裏側に位置する。工事が開始された直後かと思われるが、手前の土が掘られている場所から岬の先端を回り込み、鎧崎灯台の真下まで護岸工事が進められた。工事が完成した現在(2023年)ではこの海岸線を見ることは出来ない。アルバムのデータ記載欄には「63.1.6 国崎鎧崎と護岸工事初」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1988.01.06 |
1639 | 国崎鎧崎と護岸工事初1-2-2 | 鎧崎の船揚場の裏側に位置する。工事が開始された直後かと思われるが、手前の土が掘られている場所から岬の先端を回り込み、鎧崎灯台の真下まで護岸工事が進められた。工事が完成した現在(2023年)ではこの海岸線を見ることは出来ない。アルバムのデータ記載欄には「63.1.6 国崎鎧崎と護岸工事初」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1988.01.06 |
1640 | 国崎鎧崎と護岸工事初1-2-3 | 鎧崎の船揚場の裏側に位置する。工事が開始された直後かと思われるが、手前の土が掘られている場所から岬の先端を回り込み、鎧崎灯台の真下まで護岸工事が進められた。工事が完成した現在(2023年)ではこの海岸線を見ることは出来ない。アルバムのデータ記載欄には「63.1.6 国崎鎧崎と護岸工事初」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1988.01.06 |
1641 | 国崎の油タンカーもれ1-3-1 | 昭和48年5月3日、伊勢湾口を航行中のタンカー「日聖丸」が西独の大型貨物船と衝突、沈没した事件で、積載していた重油1,865トンが流出。流れ出した重油は同6日になって渥美湾から知多半島へと漂着。9日には鳥羽湾内にも侵入し、ワカメやノリ等にも壊滅的な打撃を与えた。写真は国崎町鎧崎の船揚場横の風景であるが、海女がイソカゴを手にして歩く堤防の下はゴミと共に流れ着いた重油が一面に浮かび、海藻も油にまみれている。アルバムのデータ記載欄には「S48年5月12日 油タンカーもれ<国崎の油>」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.05.12 |
1642 | 国崎の油タンカーもれ1-3-2 | 昭和48年5月3日、伊勢湾口を航行中のタンカー「日聖丸」が西独の大型貨物船と衝突、沈没した事件で、積載していた重油1,865トンが流出。流れ出した重油は同6日になって渥美湾から知多半島へと漂着。9日には鳥羽湾内にも侵入し、ワカメやノリ等にも壊滅的な打撃を与えた。写真は国崎町鎧崎の海女小屋の下の海岸風景であるが、岩場に張り付いた重油が見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「S48年5月12日 油タンカーもれ<国崎の油>」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.05.12 |
1643 | 国崎の油タンカーもれ1-3-3 | 昭和48年5月3日、伊勢湾口を航行中のタンカー「日聖丸」が西独の大型貨物船と衝突、沈没した事件で、積載していた重油1,865トンが流出。流れ出した重油は同6日になって渥美湾から知多半島へと漂着。9日には鳥羽湾内にも侵入し、ワカメやノリ等にも壊滅的な打撃を与えた。写真は国崎町鎧崎の船揚場横の風景であるが、畜養する為のイソカゴを手にした海女が立つ堤防下の水面は、流れ着いた重油で真っ黒である。アルバムのデータ記載欄には「S48年5月12日 油タンカーもれ<国崎の油>/油の中での海女」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.05.12 |
1644 | 国崎の油タンカーもれ1-3-4 | 昭和48年5月3日、伊勢湾口を航行中のタンカー「日聖丸」が西独の大型貨物船と衝突、沈没した事件で、積載していた重油1,865トンが流出。流れ出した重油は同6日になって渥美湾から知多半島へと漂着。9日には鳥羽湾内にも侵入し、ワカメやノリ等にも壊滅的な打撃を与えた。写真は国崎町鎧崎の海女小屋の下の海岸風景であるが、岩場一面にに張り付いた重油が見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「S48年5月12日 油タンカーもれ<国崎の油>」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.05.12 |
1645 | 国崎の油タンカーもれ1-3-5 | 昭和48年5月3日に発生したタンカー「日聖丸」の沈没に伴う重油の流出事件で、9日になって鳥羽湾内にも重油が侵入。ここ国崎町にも重油が流れ着いたが、それを防ぐ術はなく、畜養のイソカゴも油の海に入れられたままである。アルバムのデータ記載欄には「S48年5月12日 油タンカーもれ<国崎の油>/油の海に生かされたアワビカゴ」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.05.12 |
1646 | 国崎の油タンカーもれ1-3-6 | 海岸に置かれた発泡スチロール製のタンポとスカリ。アルバムのデータ記載欄には「S48年5月12日 油タンカーもれ<国崎の油>/タンポとスカリ」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.05.12 |
1647 | 国崎2-1-1 | 漁具等を入れる小屋だろうか。オートバイの奥にイソカゴや長靴、アルミのタライ等が見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1648 | 国崎2-1-2 | 漁具等を入れる小屋だろうか。「鳥羽212」のナンバープレートを付けたリヤカーの上にイナイボウや竹篭が乗せられ、天井近くの物干し竿には衣類等が干されている。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1649 | 国崎2-2-1 | 国崎町の街並み景観である。急傾斜の石垣の横に鉄骨の手すりを作り、鉄板を敷いて歩道が作られている。漁村の狭い集落地内を最大限有効に使おうとする工夫が見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1650 | 国崎2-2-2 | 国崎町の街並み景観である。急傾斜の石垣の横に鉄骨の手すりを作り、鉄板を敷いて歩道が作られている。漁村の狭い集落地内を最大限有効に使おうとする工夫が見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1651 | 国崎2-2-3 | 前年の注連縄かと思われる。まだ、紙垂(しで)やウラジロ、ユズリハ、ヒイラギ、松、「久々■■」の紙札等が見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1652 | 国崎2-2-4 | 五輪塔の様であるが不明(要調査)。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1653 | 国崎2-2-5 | 国崎町の街並み景観である。「コカコーラ」の看板が取付けられた雨に濡れたブロック造りの平屋根の向こう側に、白波の立つ海が見える。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1654 | 国崎2-2-6 | 井戸枠をレンガで積上げ、4本柱を立てた瓦葺きの屋根を設えた外井戸である。梁に取付けられた滑車にロープが掛けられているところを見ると水のくみ上げは釣瓶のようである。餅でも搗いたのか、傍らに蒸し器、バケツ、ザルなどが置かれている。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1655 | 国崎2-3-1 | 国崎町鎧崎と船揚場の景観である。写真左端の堤防は集落から鎧崎へと続く海岸道路で、その前のブロック造りの建物は海女小屋、隣の鳥居は山の神、その右手は伊勢神宮の神饌をつくる熨斗鰒調製所である。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1656 | 国崎2-3-2 | 国崎町鎧崎と船揚場の景観である。写真左端の堤防は集落から鎧崎へと続く海岸道路で、その前のブロック造りの建物は海女小屋、隣の鳥居は山の神、その右手は伊勢神宮の神饌をつくる熨斗鰒調製所である。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1657 | 国崎2-3-3 | 何処へと続く道路なのか(要調査)。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1658 | 国崎2-3-4 | 国崎町の集落景観であるが、斜面を宅地として利用するため石垣が多用される。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1659 | 国崎2-3-5 | 国崎町の集落景観であるが、斜面を宅地として利用するため石垣が多用される。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1660 | 国崎2-3-6 | 国崎町の集落景観である。海女を生業とする漁家であろうか、軒の下にはハッポースチロール製のタンポとスカリ、イソカゴが吊されている。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1661 | 国崎2-4-2 | アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。昭和46年12月7日に鳥羽市鳥羽1-23-11に開館した旧海の博物館である。写されてはいないが、写真の右手に本館、手前に展示棟と喫茶「あらみ」の建物が建つ。小浜町に面した海側は、起伏のある野外施設で鰹釣りの疑似体験ができる漁船や、生簀篭等が配置されていた。 | 鳥羽市鳥羽 | 1973.01.18 |
1662 | 国崎2-4-3 | 昭和46年12月7日に鳥羽市鳥羽1-23-11に開館した旧海の博物館である。写されてはいないが、写真の右手に本館、手前に展示棟と喫茶「あらみ」の建物が建つ。小浜町に面した海側は、起伏のある野外施設で鰹釣りの疑似体験ができる漁船や、生簀篭等が配置されていた。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1663 | 国崎2-4-4 | 昭和46年12月7日に鳥羽市鳥羽1-23-11に開館した旧海の博物館である。ピントが合っていないために判りづらいが、施設内の展示スペースか売店かと思われる。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1664 | 国崎2-4-5 | 昭和46年12月7日に鳥羽市鳥羽1-23-11に開館した旧海の博物館である。ピントが合っていないために判りづらいが、施設内の展示スペースか売店かと思われる。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1665 | 国崎2-4-6 | 国崎町の集落景観である。海女を生業とする漁家であろうか、軒の下にはハッポースチロール製のタンポとスカリ、イソカゴが吊されている。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1666 | 国崎2-5-1 | 国崎町の集落景観である。漁業を生業とする漁家の納屋であろう。明けられた戸口にはスカリらしき物とイソカゴが吊されている。小屋の中には薪も多く入れられているようである。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1667 | 国崎2-5-2 | 国崎町の正月飾りである。松・榊・アセビ・柊・ユズリハ等を「蘇民将来子孫家門」と記した紙札やツボキと共に括りつける。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1668 | 国崎2-5-3 | 国崎町の正月飾りである。松・榊・アセビ・柊・ユズリハ等を「蘇民将来子孫家門」と記した紙札やツボキと共に括りつける。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1669 | 国崎2-5-4 | 国崎町の集落景観である。「国崎漁業協同組合」の看板が掛けられている所を見ると、旧国崎漁協の建物であろう。現在(2023年)は国崎漁港の道路を挟んだ集落側に鉄筋コンクリート2階建ての事務所が建てられている。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1670 | 国崎2-5-5 | 「御潜神事関船乗組ノ着衣」の図である。写真の出典は不明であるが、酒井錠吉郎著『増補国崎神戸誌』昭和10年発行には、同図が掲載されている。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1671 | 国崎2-5-6 | 「御潜神事関船乗組ノ着衣(二)」の図である。写真の出典は不明であるが、酒井錠吉郎著『増補国崎神戸誌』昭和10年発行には、同図が掲載されている。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1672 | 国崎2-6-1 | 国崎町の集落景観である。海女を生業とする漁家であろうか、軒の下にはハッポースチロール製のタンポとスカリ、イソカゴが吊されている。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1673 | 国崎2-6-2 | 国崎町の集落景観である。斜面に石垣を組み家々が密集する集落は、わずかな用地を道路として共有しているようである。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1674 | 国崎2-6-3 | 国崎町の集落景観である。石垣で道路より一段高く設えた敷地には母屋と漁具等を入れる小屋が建てられ、母屋の戸口には、まだ正月飾りが飾られている。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1675 | 国崎2-6-4 | 国崎町の集落景観である。風呂場だろうか、土台をレンガで組上げ、煙突を付け外に焚場が設けられている。通路横には薪が積上げられている。台所も竃が作られているのか、軒下から出ている煙突が見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1676 | 国崎2-6-5 | 国崎町の集落景観である。鳥避けなのが瓦屋根の上に網が掛けられている。アルバムのデータ記載欄には「S48.1.18 国崎」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.01.18 |
1677 | 国崎3-1-1 | ノット正月は正月神を藁船に乗せて送り出す行事である。この日、国崎の家々では表に「咄□□(ダテンコウ)鬼神」、裏に「急々□□(セーマン・ドーマン)」と墨で書き込んだ「ツメの札」と呼ばれる木札を10枚~20枚程作る。その「ツメの札」と饌米・神酒・赤飯・ナマス・タツクリ・和紙に包んだ小銭(オヒネリ)を白木の膳に入れ藁一束を持って前の浜に集まる。まず、掌程の石を波打ち際に置き、その上に膳に入れて持ってきた赤飯・ナマス・タツクリを供え、ツメの札を立てて神酒を注ぎ竜宮様に手を合わせ拝む。それが終わると、持ち寄った藁を使って、180㎝ほどの藁船作りが始まる。藁船には舳先に「歳徳丸」と記した紙で作った幟を立て、艫には御幣を立て藁で作った人形を括り付ける。更に各戸が持ち寄ったオヒネリの和紙で紙縒りを作りそれを繋ぎ合わせて帆綱にして張り渡すと藁船が出来上がる。この藁船に饌米、赤飯・ナマス・タツクリ等を乗せ神酒を注ぎ、火を付けて海に送り出す。この行事が終わると浜に立てたツメの札以外は家に持ち帰り、神棚等に供える。また、家々の正月飾りを外し前の浜で焼く。【参考文献】浜荻文庫編『国崎の熨斗鰒づくり報告書』国崎町内会発行・2011年発行 アルバムのデータ記載欄には「平元.1.17 国崎前の浜<ノット正月のツメの札が立てられた況>」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1989.01.17 |
1678 | 国崎3-1-2 | アルバムのデータ記載欄には「平元.1.17 国崎前の浜<ノット正月のツメの札が立てられた況>/咄□□(ダテンコウ)鬼神札を立て龍神を拝んだあと」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1989.01.17 |
1679 | 国崎3-1-3 | アルバムのデータ記載欄には「平元.1.17 国崎前の浜<ノット正月のツメの札が立てられた況>/咄□□(ダテンコウ)鬼神札を立て龍神を拝んだあと」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1989.01.17 |
1680 | 国崎3-1-4 | アルバムのデータ記載欄には「平元.1.17 国崎前の浜<ノット正月のツメの札が立てられた況>/咄□□(ダテンコウ)鬼神札を立て龍神を拝んだあと」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1989.01.17 |
1681 | 国崎3-1-5 | アルバムのデータ記載欄には「平元.1.17 国崎前の浜<ノット正月のツメの札が立てられた況>/咄□□(ダテンコウ)鬼神札を立て龍神を拝んだあと」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1989.01.17 |
1682 | 国崎3-1-6 | アルバムのデータ記載欄には「平元.1.17 国崎前の浜<ノット正月のツメの札が立てられた況>/咄□□(ダテンコウ)鬼神札を立て龍神を拝んだあと」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1989.01.17 |
1683 | 石鏡潜き下り1-1 | 毎年、海女漁が始まる前に海上安全と豊漁を祈願して行われる海女の神事である。午後12時過ぎ、代表海女等が、漁協2階の天照皇太神宮の「海上安全・大漁満足」の祈祷札と石鏡海女組として青峯山正福寺で受けた祈祷札・旗が祀られている祭壇の前に集まり、赤飯(アズキ飯)とタツクリ、御酒等をお供する。午後2時前、「カズキオリを始める」旨の町内放送が流されると、白木の膳と一升枡を手にした海女達がそれぞれ、かつては集落前の海浜であったであろう前浜の堤防で、重ね餅と小石の上に赤飯・タツクリ等を供え神酒を注ぎ、アワビオコシで一升枡の角を二三度叩いてから海に向かって手を合わせて海上安全と大漁満足を祈願する。前浜での御供えが終わると、漁協一階に設けられた八大龍神の祭壇に、同様の重ね餅や小石、アズキ飯等を供え、膳に載せられた黒・赤一対のアワビをアワビオコシ(磯ノミ)で起こす仕草をし、八大龍神に手を合わせ操業の安全と大漁を祈願する。その後、集落の入口近くに立つ石柱、三界萬霊塔、六地蔵に供え物を済ませた後、海女船を持つ海女達は自家船にも御供をして回る。写真は、石鏡漁協一階に設えた八代竜神の祭壇にお供えをする海女。左上に八大竜神の掛け軸、その下には膳に載せられた赤と黒の鰒一対が見て取れる。スライド枠には「'10.2.17 石鏡かずき下り(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1684 | 石鏡潜き下り1-2 | 「潜き下りを始める」旨の町内放送が流されると、海女達は家々から白木の膳に赤飯(小豆飯)やタツクリ等、一升枡に小石や餅等を入れて前浜の堤防へと集まってくる。スライド枠には「'10.2.17 石鏡かずき下り(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1685 | 石鏡潜き下り1-3 | 前浜の堤防での御供が終わると、石鏡漁協一階に設えた八大龍神の祭壇にお供えをし、膳に載せられた赤・黒一対の鮑をノミで起こす仕草をし、一升枡の隅を2~3回叩いてから手を合わせ、海上安全と大量満足を祈願する。スライド枠には「'10.2.17 石鏡かずき下り(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1686 | 石鏡潜き下り1-4 | 前浜の堤防での御供が終わると、石鏡漁協一階に設えた八大龍神の掛け軸を掛けた祭壇に小石や重ね餅、赤飯(小豆飯)等を供え膳に載せられた赤・黒一対の鮑をノミで起こす仕草をし、一升枡の隅を2~3回叩いてから手を合わせ、海上安全と大漁満足を祈願する。スライド枠には「'10.2.17 石鏡かずき下り(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1687 | 石鏡潜き下り1-5 | 前浜の堤防での御供の後、八大龍神の掛け軸を掛けた祭壇に小石や重ね餅、赤飯(小豆飯)等を供え膳に載せられた赤・黒一対の鮑をノミで起こす仕草をし、一升枡の隅を2~3回叩いてから手を合わせ、海上安全と大漁満足を祈願する海女たち。この写真では掛け軸を掛けた祭壇が石鏡漁協施設内に変更していることがわかる。現在(2023年)もこの施設内で行われているが、これは「風雨の日だと大変だから」「これまで掛け軸を設置していた建物が取り壊されたから」といった理由によるもの。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) スライド枠には「'10.2.17 石鏡かずき下り(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1688 | 石鏡潜き下り1-6 | 前浜の堤防での御供が終わると、石鏡漁協一階に設えた八大龍神の祭壇に小石や重ね餅、赤飯(小豆飯)等を供え膳に載せられた赤・黒一対の鮑をノミで起こす仕草をし、一升枡の隅を2~3回叩いてから手を合わせ、海上安全と大量満足を祈願する。スライド枠には「'10.2.17 石鏡かずき下り(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1689 | 石鏡潜き下り1-7 | 前浜の堤防での御供が終わると、石鏡漁協一階に設えた八大龍神の祭壇に小石や重ね餅、赤飯(小豆飯)等を供え膳に載せられた赤・黒一対の鮑をノミで起こす仕草をし、一升枡の隅を2~3回叩いてから手を合わせ、海上安全と大量満足を祈願する。スライド枠には「'10.2.17 石鏡かずき下り(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1690 | 石鏡潜き下り1-8 | 前浜の堤防での御供が終わると、石鏡漁協一階に設えた八大龍神の祭壇に小石や重ね餅、赤飯(小豆飯)等を供え膳に載せられた赤・黒一対の鮑をノミで起こす仕草をし、一升枡の隅を2~3回叩いてから手を合わせ、海上安全と大量満足を祈願する。スライド枠には「'10.2.17 石鏡かずき下り(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1691 | 石鏡潜き下り1-9 | 前浜の堤防での御供が終わると、石鏡漁協一階に設えた八大龍神の祭壇に小石や重ね餅、赤飯(小豆飯)等を供え膳に載せられた赤・黒一対の鮑をノミで起こす仕草をし、一升枡の隅を2~3回叩いてから手を合わせ、海上安全と大量満足を祈願する。写真中央右奥の男性は毎日新聞社の林記者。スライド枠には「'10.2.17 石鏡かずき下り(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1692 | 石鏡潜き下り1-10 | 前浜の堤防での御供が終わると、石鏡漁協一階に設えた八大龍神の祭壇に小石や重ね餅、赤飯(小豆飯)等を供え膳に載せられた赤・黒一対の鮑をノミで起こす仕草をし、一升枡の隅を2~3回叩いてから手を合わせ、海上安全と大量満足を祈願する。写真中央右奥の男性は毎日新聞社の林記者。スライド枠には「'10.2.17 石鏡かずき下り(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1693 | 石鏡潜き下り1-11 | 前浜の堤防での御供が終わると、石鏡漁協一階に設えた八大龍神の祭壇に小石や重ね餅、赤飯(小豆飯)等を供え膳に載せられた赤・黒一対の鮑をノミで起こす仕草をし、一升枡の隅を2~3回叩いてから手を合わせ、海上安全と大量満足を祈願する。重ね餅は丸餅だけではなく、四角の重ね餅も見て取れる。スライド枠には「'10.2.17 石鏡かずき下り(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1694 | 石鏡潜き下り1-12 | 前浜の堤防での御供が終わると、石鏡漁協一階に設えた八大龍神の祭壇に小石や重ね餅、赤飯(小豆飯)等を供え膳に載せられた赤・黒一対の鮑をノミで起こす仕草をし、一升枡の隅を2~3回叩いてから手を合わせ、海上安全と大量満足を祈願する。重ね餅は丸餅だけではなく、四角の重ね餅も見て取れる。スライド枠には「'10.2.17 石鏡かずき下り(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1695 | 石鏡潜き下り1-13 | 前浜の堤防での御供が終わると、石鏡漁協一階に設えた八大龍神の掛け軸を掛けた祭壇に小石や重ね餅、赤飯(小豆飯)等を供え膳に載せられた赤・黒一対の鮑をノミで起こす仕草をし、一升枡の隅を2~3回叩いて手を合わせ、海上安全と大漁満足を祈願する。重ね餅は丸餅や四角の餅も見て取れる。スライド枠には「'10.2.17 石鏡かずき下り(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1696 | 石鏡潜き下り1-14 | 前浜の堤防での御供が終わると、石鏡漁協一階に設えた八大龍神の祭壇に小石や重ね餅、赤飯(小豆飯)等を供え膳に載せられた赤・黒一対の鮑をノミで起こす仕草をし、一升枡の隅を2~3回叩いてから手を合わせ、海上安全と大量満足を祈願する。重ね餅は丸餅だけではなく、四角の重ね餅も見て取れる。スライド枠には「'10.2.17 石鏡かずき下り(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1697 | 石鏡潜き下り1-15 | 前浜の堤防での御供が終わると、石鏡漁協一階に設えた八大龍神の祭壇に小石や重ね餅、赤飯(小豆飯)等を供え膳に載せられた赤・黒一対の鮑をノミで起こす仕草をし、一升枡の隅を2~3回叩いてから手を合わせ、海上安全と大量満足を祈願する。重ね餅は丸餅だけではなく、四角の重ね餅も見て取れる。スライド枠には「'10.2.17 石鏡かずき下り(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1698 | 石鏡潜き下り1-16 | 前浜の堤防での御供が終わると、石鏡漁協一階に設えた八大龍神の祭壇に小石や重ね餅、赤飯(小豆飯)等を供え膳に載せられた赤・黒一対の鮑をノミで起こす仕草をし、一升枡の隅を2~3回叩いて手を合わせ、海上安全と大量満足を祈願する。重ね餅は丸餅だけではなく、四角の重ね餅も見て取れる。スライド枠には「'10.2.17 石鏡かずき下り(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1699 | 石鏡潜き下り1-17 | 前浜の堤防での御供が終わると、石鏡漁協一階に設えた八大龍神の掛け軸を掛けた祭壇に小石や重ね餅、赤飯(小豆飯)等を供え膳に載せられた赤・黒一対の鮑をノミで起こす仕草をし、一升枡の隅を2~3回叩いてから手を合わせ、海上安全と大漁満足を祈願する。重ね餅は丸餅や四角の餅も見て取れる。スライド枠には「'10.2.17 石鏡かずき下り(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1700 | 石鏡潜き下り1-18 | 前浜の堤防での御供が終わると、石鏡漁協一階に設えた八大龍神の祭壇に小石や重ね餅、赤飯(小豆飯)等を供え膳に載せられた赤・黒一対の鮑をノミで起こす仕草をし、一升枡の隅を2~3回叩いてから手を合わせ、海上安全と大量満足を祈願する。重ね餅は丸餅だけではなく、四角の重ね餅も見て取れる。スライド枠には「'10.2.17 石鏡かずき下り(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1701 | 石鏡(潜き下り)2-1 | デジタル化がされていないが、このスライドの前に「石鏡 90.2.16 ⑤」と記されたタイトルスライド1枚が挟み込まれている。スライド枠には「2.2.16 (石鏡潜き下り)」と記される。潜き下りに来た老海女。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1702 | 石鏡(潜き下り)2-2 | スライド枠には「2.2.16 (石鏡潜き下り)」と記される。潜き下りに前浜に来た海女。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1703 | 石鏡(潜き下り)2-3 | 町内放送でかづきおりの開始が知らされると、海女はまず前浜の堤防で、海に向かって重ね餅と小石の上に赤飯(小豆飯)・タツクリ等を供える。神酒を注ぎ、イソノミでカミノゼンをカンカンカンと3回叩いたり、「チュッチュッ」「ツイツイ」などと声を出したりして海に向かって手を合わせ、海上安全と大漁満足を祈願する。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) スライド枠には「2.2.16 石鏡(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1704 | 石鏡(潜き下り)2-4 | 潜き下りに前浜に来た海女。スライド枠には「2.2.16 (石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1705 | 石鏡(潜き下り)2-5 | 潜き下りに前浜に来た海女。スライド枠には「2.2.16 (石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1706 | 石鏡(潜き下り)2-6 | 「潜き下りを始める」旨の町内放送が流されると、海女達は家々から白木の膳に赤飯(小豆飯)やタツクリ等、一升枡に小石や餅等を入れて前浜の堤防へと集まってくる。スライド枠には「90.2.16 石鏡(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1707 | 石鏡(潜き下り)2-7 | 潜き下りに前浜に来た海女。スライド枠には「2.2.16 (石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1708 | 石鏡(潜き下り)2-8 | 「カズキオリを始める」旨の町内放送が流されると、白木の膳と一升枡を手にした海女達がそれぞれ、前浜の堤防で、重ね餅と小石の上にアズキ飯・タツクリ等を供え神酒を注ぐ。そしてアワビオコシで一升枡の角を二三度叩いてから海に向かって手を合わせて海上安全と大漁満足を祈願する。スライド枠には「'10.2.17 石鏡潜き下り、旧堤防で祈るアマ」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1709 | 石鏡(潜き下り)2-9 | 「カズキオリを始める」旨の町内放送が流されると、白木の膳と一升枡を手にした海女達がそれぞれ、かつては集落前の海浜であったであろう前浜の堤防で、重ね餅と小石の上にアズキ飯・タツクリ等を供え神酒を注ぎ、アワビオコシで一升枡の角を二三度叩いてから海に向かって手を合わせて海上安全と大漁満足を祈願する。スライド枠には「'10.2.17 石鏡潜き下り、旧堤防で祈るアマ」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1710 | 石鏡(潜き下り)2-10 | 石鏡漁港の船舶係留堤防前の風景である。撮影が2月であることから、伊勢エビ漁の為の刺網であろう。伊勢エビ漁は前日の夕方仕掛けられ、翌日の早朝に網が引揚げげられる。刺網は伊勢エビを外し、ゴミ等が取り除かれた後、次の仕掛けに出港するまで干される。スライド枠には「'10.2.17 石鏡港」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1711 | 石鏡(潜き下り)2-11 | 石鏡漁港の船舶係留堤防前の風景である。撮影が2月であることから、伊勢エビ漁の為の刺網であろう。伊勢エビ漁は前日の夕方仕掛けられ、翌日の早朝に網が引揚げげられる。刺網は伊勢エビを外し、ゴミ等が取り除かれた後、次の仕掛けに出港するまで干される。スライド枠には「'10.2.17 石鏡港」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1712 | 石鏡(潜き下り)2-12 | 石鏡漁港の船舶係留堤防前の風景である。撮影が2月であることから、伊勢エビ漁の為の刺網であろう。伊勢エビ漁は前日の夕方仕掛けられ、翌日の早朝に網が引揚げげられる。刺網は伊勢エビを外し、ゴミ等が取り除かれた後、次の仕掛けに出港するまで干される。スライド枠には「'10.2.17 石鏡港」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1713 | 石鏡かづきおり(潜き下り)3-1 | 「カズキオリを始める」旨の町内放送が流されると、白木の膳と一升枡を手にした海女達はそれぞれ、かつては集落前の海浜であったであろう前浜の堤防で、重ね餅と小石の上に赤飯(小豆飯)・タツクリ等を供え神酒を注ぎ、アワビオコシで一升枡の角を二三度叩いてから海に向かって手を合わせて海上安全と大漁満足を祈願する。デジタル化がされていないが、このスライドの前に「石鏡かづきおり90.2.16 ②」と記されたタイトルスライド1枚が挟み込まれている。スライド枠には「2.2.16 (石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1714 | 石鏡かづきおり(潜き下り)3-2 | 町内放送でかづきおりの開始が知らされると、海女はまず前浜の堤防で、海に向かって重ね餅と小石の上に赤飯(小豆飯)・タツクリ等を供える。神酒を注ぎ、イソノミでカミノゼンをカンカンカンと3回叩いたり、「チュッチュッ」「ツイツイ」などと声を出したりして海に向かって手を合わせ、海上安全と大漁満足を祈願する。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) スライド枠には「2.2.16 石鏡(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1715 | 石鏡かづきおり(潜き下り)3-3 | 八大龍神の掛軸の前に莚を敷いた祭壇が設えられ、膳には赤・黒一対の鮑が載せられる。海女達は、赤飯(小豆飯)等の御供をした後、手を合わせて海上安全と大量満足を祈願する。スライド枠には「2.2.16 (石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1716 | 石鏡かづきおり(潜き下り)3-4 | 町内放送でかづきおりの開始が知らされると、海女はまず前浜の堤防で、海に向かって重ね餅と小石の上に赤飯(小豆飯)・タツクリ等を供える。神酒を注ぎ、イソノミでカミノゼンをカンカンカンと3回叩いたり、「チュッチュッ」「ツイツイ」などと声を出したりして海に向かって手を合わせ、海上安全と大漁満足を祈願する。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) スライド枠には「2.2.16 石鏡(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1717 | 石鏡かづきおり(潜き下り)3-5 | 頬被りをし、潜き下りに前浜に来た老海女。長年、海女を生業としてきたのであろう、顔は赤銅色に日焼けしているが、優しい眼差しを向ける。スライド枠には「2.2.16 (石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1718 | 石鏡かづきおり(潜き下り)3-6 | 潜き下りに前浜に来た海女。スライド枠には「2.2.16 (石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1719 | 石鏡かづきおり(潜き下り)3-7 | 潜き下りに前浜に来た海女。スライド枠には「2.2.16 (石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1720 | 石鏡かづきおり(潜き下り)3-8 | 「潜き下りを始める」旨の町内放送が流されると、海女達は家々から白木の膳に赤飯(小豆飯)やタツクリ等、一升枡に小石や餅等を入れて前浜の堤防へと集まってくる。スライド枠には「2.2.16 (石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1721 | 石鏡かづきおり(潜き下り)3-9 | 潜き下りに前浜に来た海女。スライド枠には「2.2.16 (石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1722 | 石鏡かづきおり(潜き下り)3-10 | 潜き下りに前浜に来た海女。手には赤飯(小豆飯)やタツクリ、小石等を入れた白木の膳が持たれている。スライド枠には「2.2.16 (石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1723 | 石鏡かづきおり(潜き下り)3-11 | 潜き下りに前浜に来た海女。スライド枠には「2.2.16 (石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1724 | 石鏡かづきおり(潜き下り)3-12 | 潜き下りに前浜に来た老海女。長年、海女を生業としてきたのであろう、顔は赤銅色に日焼けしているが、石鏡の海女達は屈託無くいつも明るい。スライド枠には「2.2.16 (石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1725 | 石鏡(潜き下り)4-1 | 八大龍神の掛軸の前に莚を敷いた祭壇が設えられ、膳には赤・黒一対の鮑が載せられる。海女達は、重ね餅や赤飯(小豆飯)等の御供をした後、手を合わせて海上安全と大量満足を祈願する。デジタル化がされていないが、このスライドの前に「石鏡 90.2.16 ④」と記されたタイトルスライド1枚が挟み込まれている。スライド枠には「2.2.16 (石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1726 | 石鏡(潜き下り)4-2 | 八大龍神の掛軸の前に莚を敷いた祭壇が設えられ、膳には赤・黒一対の鮑が載せられる。海女達は、重ね餅や赤飯(小豆飯)等の御供をした後、手を合わせて海上安全と大漁満足を祈願する。写真の頃は石鏡町内の保育園児が参加していたが、現在(2023年)では少子化のため参加していない。餅まきをして園児が拾うのが楽しみのひとつだった。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) スライド枠には「2.2.16 石鏡(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1727 | 石鏡(潜き下り)4-3 | 八大龍神の掛軸の前に莚を敷いた祭壇が設えられ、膳には赤・黒一対の鮑が載せられる。海女達は、重ね餅や赤飯(小豆飯)、タツクリ等の御供をした後、手を合わせて海上安全と大漁満足を祈願する。スライド枠には「2.2.16 石鏡(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1728 | 石鏡(潜き下り)4-4 | 八大龍神の掛軸の前に莚を敷いた祭壇が設えられ、膳には赤・黒一対の鮑が載せられる。海女達は、重ね餅や赤飯(小豆飯)、タツクリ等の御供をした後、手を合わせて海上安全と大量満足を祈願する。スライド枠には「2.2.16 石鏡(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1729 | 石鏡(潜き下り)4-5 | 前浜の堤防での御供が終わると、石鏡漁協一階に設えた八大龍神の掛け軸を掛けた祭壇に小石や重ね餅、赤飯(小豆飯)等を供え、膳に載せられた赤・黒一対の鮑をノミで起こす仕草をした後、一升枡の隅を2~3回叩いて手を合わせ、海上安全と大漁満足を祈願する。重ね餅は丸餅だけではなく、四角の重ね餅も見て取れる。このスライドの前段のスライド枠には「潜き下り '10.2.17 ②つづき」と記される。本スライド枠には「 '10.2.17 かずき下り(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1730 | 石鏡(潜き下り)4-6 | 前浜の堤防での御供が終わると、石鏡漁協一階に設えた八大龍神の掛け軸を掛けた祭壇に小石や重ね餅、赤飯(小豆飯)等を供え、膳に載せられた赤・黒一対の鮑をノミで起こす仕草をした後、一升枡の隅を2~3回叩いて手を合わせ、海上安全と大漁満足を祈願する。重ね餅は丸餅や四角の餅も見て取れる。スライド枠には「 '10.2.17 かずきおり(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1731 | 石鏡(潜き下り)4-7 | 前浜の堤防での御供が終わると、石鏡漁協一階に設えた八大龍神の祭壇に小石や重ね餅、赤飯(小豆飯)等を供え、膳に載せられた赤・黒一対の鮑をノミで起こす仕草をした後、一升枡の隅を2~3回叩いて手を合わせ、海上安全と大量満足を祈願する。重ね餅は丸餅だけではなく、四角の重ね餅も見て取れる。スライド枠には「 '10.2.17 石鏡かずきおり(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1732 | 石鏡(潜き下り)4-8 | 前浜の堤防での御供が終わると、石鏡漁協一階に設えた八大龍神の祭壇に小石や重ね餅、赤飯(小豆飯)等を供え、膳に載せられた赤・黒一対の鮑をノミで起こす仕草をした後、一升枡の隅を2~3回叩いて手を合わせ、海上安全と大量満足を祈願する。重ね餅は丸餅だけではなく、四角の重ね餅も見て取れる。スライド枠には「 '10.2.17 かずきおり(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1733 | 石鏡(潜き下り)4-9 | 前浜の堤防での御供が終わると、石鏡漁協一階に設えた八大龍神の掛け軸を掛けた祭壇に小石や重ね餅、赤飯(小豆飯)等を供え、膳に載せられた赤・黒一対の鮑をノミで起こす仕草をした後、一升枡の隅を2~3回叩いて手を合わせ、海上安全と大漁満足を祈願する。重ね餅は丸餅や四角い餅も見て取れる。スライド枠には「 '10.2.17 石鏡かずき下り(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1734 | 石鏡(潜き下り)4-10 | 石鏡漁協一階に設えた八大龍神の祭壇に供えられた小石や重ね餅、赤飯(小豆飯)やタツクリ等。膳には黒・赤一対の鮑が載せられている。スライド枠には「 '10.2.17 かずきおり(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1735 | 石鏡(潜き下り)4-11 | 石鏡漁協一階に設えられた八大龍神の祭壇。柱には「八大龍神」の掛軸が掛けられ、その下には黒・赤一対の鮑が膳に載せられ、神酒を注ぐ陶器の器を置いた祭壇が組まれる。石鏡の海女達は、前浜での御供を終えるとここでも小石や重ね餅、タツクリ等の御供をし、海上安全と大量満足の祈願をする。スライド枠には「90.2.16 潜き下り(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1736 | 石鏡(潜き下り)4-12 | 石鏡漁協一階に設えた八大龍神の祭壇に供えられた小石や重ね餅、赤飯(小豆飯)やタツクリ等。膳には黒・赤一対の鮑が載せられている。スライド枠には「 '10.2.17 石鏡潜き下り」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1998.2.17 |
1737 | 石鏡かずきおり(潜き下り)5-1 | 石鏡では3月からワカメ漁、4月からはヒジキ漁やアワビ漁など、本格的に海女漁が始まる。その前の2月16日(日にちは固定)に、大漁満足、海上安全、無病息災(石鏡では豆息災といわれる)を祈るためかづきおり(潜き下り)が行われる。海藻漁のための年中行事だという。この行事では、海女が一升枡に餅と小石、カミノゼンと呼ばれる白木の膳に小豆飯、生の米と小豆、ナマス、タツクリ、干し柿、神酒を入れ、町内の各所に供えて回る。なおカミノゼンにはイソノミと、供え物をするための箸も置かれる。小石は、自分たちが潜る浜(恵比寿さんがいるとされる特定のエリア)で5個前後拾ってくる。町内放送でかづきおりの開始が知らされると、海女達は家々から白木の膳に赤飯(小豆飯)やタツクリ等、一升枡に小石や餅等を入れて前浜の堤防へと集まってくる。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) スライド枠には平成2(1990)年2月16日と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1738 | 石鏡かずきおり(潜き下り)5-2 | 潜き下りに前浜に来た老海女。手には赤飯(小豆飯)や重ね餅等を入れた白木の膳が持たれている。スライド枠には「2.2.16(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1739 | 石鏡かずきおり(潜き下り)5-3 | 潜き下りに前浜に来た老海女。手には赤飯(小豆飯)や重ね餅等を入れた白木の膳が持たれている。スライド枠には「2.2.16(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1740 | 石鏡かずきおり(潜き下り)5-4 | 潜き下りに前浜に来た海女。スライド枠には「2.2.16(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1741 | 石鏡かずきおり(潜き下り)5-5 | 頬被りをし、潜き下りに前浜に来た老海女。長年、海女を生業としてきたのであろう、顔は赤銅色に日焼けしているが、優しい眼差しを向ける。スライド枠には「2.2.16(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1742 | 石鏡かずきおり(潜き下り)5-6 | 頬被りをし、潜き下りに前浜に来た老海女。長年、海女を生業としてきたのであろう、顔は赤銅色に日焼けしているが、優しい眼差しを向ける。スライド枠には「2.2.16(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1743 | 石鏡かずきおり(潜き下り)5-7 | 頬被りをし、潜き下りに前浜に来た老海女。長年、海女を生業としてきたのであろう、顔は赤銅色に日焼けしているが、優しい眼差しを向ける。スライド枠には「2.2.16(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1744 | 石鏡かずきおり(潜き下り)5-8 | 潜き下りに前浜に来た老海女。スライド枠には「2.2.16(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1745 | 石鏡かずきおり(潜き下り)5-9 | 潜き下りに前浜に来た老海女達。今は埋め立てられ漁港用地となっているが、老海女達が目にする先は、彼女達が若かりし頃にはまだ砂浜で青い渚が広がっていたはずである。スライド枠には「2.2.16(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1746 | 石鏡かずきおり(潜き下り)5-10 | 潜き下りに前浜に来た老海女達。今は埋め立てられ漁港用地となっているが、老海女達が目にする先は、彼女達が若かりし頃にはまだ砂浜で青い渚が広がっていたはずである。スライド枠には「2.2.16 石鏡かずきおり(石鏡潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1747 | 石鏡3-4-5 | 当時は家で葬式が執り行われていたので、葬儀関係者の食事や精進落し等の料理は親戚や隣近所の人々が作ったものである。写真のテントの下では、手拭いを被った女性たちが、煮崩れを防ぐための、竹を薄く剥ぎ組み合わせた笊状の道具を使って大鍋で煮物をしている。傍らには「ヤマ吉」の屋号が記された桶や、隣の建物には「名物荒磯料理/釣舟案内/浜乃家旅館」の看板が見られる。女性たちは朝の4?5時くらいから準備をし、賑やかな声が町内に響いた。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡/葬式共同調理場」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1977.7.1 |
1748 | 石鏡3-4-6 | 「水」は集落の生活に必要不可欠なものの一つであるが、急峻な背後地に家々が密集する石鏡では生活用水を川に依存することは難しい。そのため、幾つもの共同井戸が作られ、一年に一度は村人が協働で井戸の水替え等が行われてきた。当時は井戸に近い家しか風呂を設置できなかったので、風呂は屋外におかれ、「もらい湯」として近所の人も使っていた。奥山川の表流水を使って石鏡町に簡易水道が竣工したのは昭和38年。上水道が整備され、簡易水道が廃止されるのは昭和47年である。参考文献:『鳥羽市史 下巻』平成3年発行。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡/共同井戸」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1977.7.1 |
1749 | 石鏡3-5-1 | 全国的には小正月の後に外されることが多いようであるが、鳥羽志摩地域地では一年中飾る所が多く、石鏡町ではその家に不幸事が起こるまで毎年新しい注連縄が重ねられていく。また、最近は、市販されている物を飾る家も多くなったが、ここでは今も家人が思いを込めて作った注連縄を見ることができ、木札の表には「七福即生 七難即滅 蘇民将来子孫門」、裏には「急々如律令」と「魔除印=ドーマン・セーマン」が記される。アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡/玄関〆縄」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1977.7.1 |
1750 | 石鏡3-5-2 | 現在(2023年)ではメモリアルホールの様な商業施設が多く利用されるが、それまで農山漁村では何処とも自宅で通夜が営まれ、翌日行列を組んで寺院へと向かい葬儀を行うのが通例であった。通夜の準備か出棺の用意か不明であるが、玄関口に置かれた生花からは「御供 福井賢■/田畑起■/鳥羽市老人クラブ連合会」等の名前が読み取れる。アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡/生花」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1977.7.1 |
1751 | 石鏡3-5-3 | 『鳥羽市史 下巻 民俗編』には、明治から昭和期に至る「鳥羽市の鍛冶屋一覧表」が記載されるが、これらの農具も本市域で作られてきた物だろうか(要調査)。アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡/クワ・農具」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1977.7.1 |
1752 | 石鏡3-5-4 | 臼には「挽き臼」と「搗き臼」があるが、写真は御影石製の搗き臼である。今はもう使われていない様であるが、かつては年の暮れになると、村のあちこちで餅米を蒸す湯気が上がり、餅を搗く杵の音が聞こえた物である。アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡/石ウス」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1977.7.1 |
1753 | 石鏡3-5-5 | 臼には「挽き臼」と「搗き臼」があるが、写真は御影石製の挽き臼であろう。我が国には奈良時代に伝わり、室町時代から江戸時代にかけて普及したとも言われるようであるが、かつてはアワやヒエ、コメやムギ等を粉にするために、多くの家に備えられていた生活必需品であった。アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡/ヒキウス」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1977.7.1 |
1754 | 石鏡3-5-6 | 海女が海底で獲った獲物を入れるための用具である。浮樽(磯樽)に取付けたり、腰スカリ等は体に括り付けたりして使用する。網漁で用いる網の糸で編まれている。 アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡/スカリ(漁具)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1977.7.1 |
1755 | 石鏡3-6-1 | 自宅での葬儀風景である。玄関口に並ぶ生花からは「御供 海野 大西忠/大王町波切 旅館東洋一■・モヘジ■・大王荘」等の名前が見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1977.7.1 |
1756 | 石鏡3-6-2 | 下から2/3程の所に穴が開けられ、ローブが括り付けられるように加工されているが、御影石製の物と思われる。アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡/おもり(漁具)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1977.7.1 |
1757 | 石鏡3-6-3 | 御影石製の石柱であるが、何かの供養塔かと思われる(要調査)。アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1977.7.1 |
1758 | 石鏡3-6-4 | 煮崩れや取り出すときに形が壊れないように、竹を薄く剥いで十字に組み合わせた笊状の道具にサンマを重ね合わせ、落し蓋をし、鉄製の簡易竈で大鍋を使って煮る。数十匹程が入っていそうである。アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡/葬式料理・サンマの煮つけ」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1977.7.1 |
1759 | 石鏡3-6-5 | 煮崩れや取り出すときに形が壊れないように、竹を薄く剥いで十字に組み合わせたザル状の道具にサンマを重ね合わせ、落し蓋をし、鉄製の簡易竈で大鍋を使って煮る。数十匹程が入っていそうである。 アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1977.7.1 |
1760 | 石鏡3-6-6 | 盛り付けの煮崩れを防ぐために、炊き上がった煮付けのサンマは、しばらく冷まされる。サンマの下に敷かれているのは、焦げつきや取り出し時の型崩れを防止するのため竹を薄く剥いで十字に組み合わせた笊状の道具。他には豆の煮物やがんもどき、こんにゃくと豆腐の白和えもあったそう。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より)アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1977.7.1 |
1761 | 石鏡4-1-1 | 葬儀関係者や精進落しとして振る舞われる煮物類は、親戚や近所の人達の出会いで大鍋や大釜を使って作られた。煮豆もそのうちの一品で、インゲン豆に属する金時豆を使う事が多かったようである。 | 鳥羽市石鏡町 | 1977.7.1 |
1762 | 石鏡4-1-2 | かつては人が亡くなると、親戚や隣近所の人々が精進落し等の葬儀用の料理を作ったものである。テントの下では、手拭いでアネサンかぶりをした女性たちがその準備を進める。 アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡/共同作業」と記される。アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡/煮まめ作り」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1977.7.1 |
1763 | 石鏡4-1-3 | 女性たちが大釜で出合い(協働)によって作られた煮豆とがんもどきで、葬式の料理である。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡/出来た煮まめ」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1977.7.1 |
1764 | 石鏡4-1-4 | イケホリ(イケボリ、ハカホリ)が履いた草履が脱ぎ捨てられた様子。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡/葬式にはくぞうり」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1977.7.1 |
1765 | 石鏡4-1-5 | 公民館か老人憩いの家の会議室かと思われる。老人会等の会合であろうか(要調査)。アルバムのデータ記載欄には「S61.2.4/老人海女の」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1986.02.04 |
1766 | 石鏡4-1-6 | 公民館か老人憩いの家の会議室かと思われる。老人会等の会合であろうか(要調査)。アルバムのデータ記載欄には「S61.2.4/老人海女の」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1986.02.04 |
1767 | 石鏡4-2-1 | 石鏡は平成初期まで両墓制で、遺体を埋葬する墓地(埋め墓)と墓参のための墓地(参り墓)の2つが設けられていた。現在(2023年)は火葬で、以前埋め墓だった場所にて1つに統合されている。この写真は円照寺の前にあった参り墓で、ダントとも呼ばれた。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) アルバムのデータ記載欄には「S61.2.4」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1986.02.04 |
1768 | 石鏡4-2-2 | 男性6人、女性8人、合計14人による記念撮影である。アルバムのデータ記載欄には「S61.2.4/老人会の記念撮影」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1986.02.04 |
1769 | 石鏡4-2-3 | 男性6人、女性9人、男児1人、16人による記念撮影である。アルバムのデータ記載欄には「S61.2.4/老人会の記念撮影」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1986.02.04 |
1770 | 石鏡4-2-4 | 男性6人、女性9人、男児1人、16人による記念撮影である。アルバムのデータ記載欄には「S61.2.4/老人会の記念撮影」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1986.02.04 |
1771 | 石鏡4-2-5 | 老人会の会合等を終えた後かと思われる。かつては海女を生業としていた女性達であろう。アルバムのデータ記載欄には「S61.2.4 老海女」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1986.02.04 |
1772 | 石鏡4-2-6 | 老人会の会合等を終えた後かと思われる。かつては海女を生業としていた女性達であろう。アルバムのデータ記載欄には「S61.2.4 老海女」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1986.02.04 |
1773 | 石鏡4-3-1 | 老人会の会合等を終えた後かと思われる。かつては海女を生業としていた女性達であろう。アルバムのデータ記載欄には「S61.2.4 老海女」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1986.02.04 |
1774 | 石鏡の門神4-4-1 | アルバムのデータ記載欄には「S61.1.2 石鏡の門神/ツボキ、ヒンナイサンのついた、三ツ足のついた飾り」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1986.01.02 |
1775 | 石鏡の門神4-4-2 | アルバムのデータ記載欄には「S61.1.2 石鏡の門神/(ツボキ、ヒンナイサンのついた、三ツ足のついた飾り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1986.01.02 |
1776 | 石鏡の門神4-4-3 | 玄関先に立てかける魔除け札である。アルバムのデータ記載欄には「S61.1.2 石鏡の門神/門神、ダテンコー」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1986.01.02 |
1777 | 石鏡の門神4-4-4 | 玄関先に立てかける魔除け札である。アルバムのデータ記載欄には「S61.1.2 石鏡の門神/(門神、ダテンコー)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1986.01.02 |
1778 | 石鏡の門神4-4-5 | アルバムのデータ記載欄には「S61.1.2 石鏡の門神/南無阿弥陀仏と記した恵比須神の塔。海に出るとき必ず拝んでゆく」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1986.01.02 |
1779 | 石鏡の門神4-4-6 | 海に出るとき必ず拝んでゆく」と記される。アルバムのデータ記載欄には「S61.1.2 石鏡の門神/南無阿弥陀仏と記した恵比須神の塔。 | 鳥羽市石鏡町 | 1986.01.02 |
1780 | 石鏡の門神4-5-1 | 古い注連縄や白木の膳、宅内で飾られていた神棚等が積まれる。アルバムのデータ記載欄には「S61.1.2 石鏡の門神/石鏡神社の廃神仏」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1986.01.02 |
1781 | 石鏡の門神4-5-2 | 石鏡神社の敷地内には、古い注連縄や白木の膳(カミノゼン)、家で飾られていた神棚などを捨てる一画がある。年に一度、祈祷して処分される。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) アルバムのデータ記載欄には「S61.1.2 石鏡の門神/石鏡神社の廃神仏」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1986.01.02 |
1782 | 石鏡の門神4-5-3 | 全国的には小正月の後に外されることが多いようであるが、鳥羽志摩地域地では一年中飾る所が多く、石鏡町ではその家に不幸事が起こるまで毎年新しい注連縄が重ねられていく。また、最近は、市販されている物を飾る家も多くなったが、ここでは今も家人が思いを込めて作った注連縄を見ることができ、紙垂と共にヒイラギや椎の小枝、ウラジロ、橙などが取付けられ、木札の表には「七福即生 七難即滅 蘇民将来子孫門」、裏には「急々如律令」と「魔除印=ドーマン・セーマン」が記される。アルバムのデータ記載欄には「S61.1.2 石鏡の門神/石鏡の大戸注連縄」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1986.01.02 |
1783 | 石鏡の門神4-5-4 | 12月13日の三合松札書きが終わると正月の準備が始まる。各家々では日柄の良い日を選んで、玄関口にイマメ(ウバメガシ)とアセビ・椎・松、ヒイラギの枝、ウラジロ等を注連縄で絡げ、庶民将来子孫の門と記した木札とツボキを括り付けた門飾りを飾る。アルバムのデータ記載欄には「S61.1.2 石鏡の門神/門神飾り」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1986.01.02 |
1784 | 石鏡の門神4-5-5 | アルバムのデータ記載欄には「S62.1.2日(石鏡の門神)/三ッ足に刺すドノト」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1987.01.02 |
1785 | 石鏡の門神4-5-6 | アルバムのデータ記載欄には「S62.1.2日(石鏡の門神)/三ッ足に刺すドノト」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1987.01.02 |
1786 | 石鏡の門神4-6-1 | 各家々では玄関口の門飾りと合わせて、持ち船にもアセビ・椎・松、ヒイラギの枝、ウラジロ等を注連縄で絡げ、庶民将来子孫■と記された木札とツボキを括り付けた飾りを取付ける。アルバムのデータ記載欄には「S62.1.2日(石鏡の門神)/舟玉飾り」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1987.01.02 |
1787 | 石鏡の門神4-6-2 | 12月13日の三合松札書きが終わると正月の準備が始まる。各家々では日柄の良い日を選んで、玄関口にイマメ(ウバメガシ)とアセビ・椎・松、ヒイラギの枝、ウラジロ等を注連縄で絡げ、庶民将来子孫の門と記した木札とツボキを括り付けた門飾りを飾る。アルバムのデータ記載欄には「S62.1.2日(石鏡の門神)/ドノトが刺された門飾り」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1987.01.02 |
1788 | 石鏡の門神4-6-3 | 12月13日の三合松札書きが終わると正月の準備が始まる。各家々では日柄の良い日を選んで、玄関口にイマメ(ウバメガシ)とアセビ・椎・松、ヒイラギの枝、ウラジロ等を注連縄で絡げ、庶民将来子孫の門と記した木札とツボキを括り付けた門飾りを飾る。アルバムのデータ記載欄には「S62.1.2日(石鏡の門神)/ドノトが刺された門飾り」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1987.01.02 |
1789 | 石鏡の門神4-6-4 | 12月13日の三合松札書きが終わると正月の準備が始まる。各家々では日柄の良い日を選んで、玄関口にイマメ(ウバメガシ)とアセビ・椎・松、ヒイラギの枝、ウラジロ等を注連縄で絡げ、庶民将来子孫の門と記した木札とツボキを括り付けた門飾りを飾る。アルバムのデータ記載欄には「S62.1.2日(石鏡の門神)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1987.01.02 |
1790 | 石鏡の門神4-6-5 | 玄関口に飾られる門飾りと共に、半紙など和紙の上に小石、洗米、赤飯(小豆飯)、豆まきに使用した大豆等を供え玄関先に立てかける魔除け札である。アルバムのデータ記載欄には「S62.1.2日(石鏡の門神)/ダテンコー」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1987.01.02 |
1791 | 石鏡の門神4-6-6 | 玄関口に飾られる門飾りと共に、半紙など和紙の上に小石、洗米、赤飯(小豆飯)、豆まきに使用した大豆等を供え玄関先に立てかける魔除け札である。アルバムのデータ記載欄には「S62.1.2日(石鏡の門神)/ダテンコー」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1987.01.02 |
1792 | 石鏡の門神5-1-1 | 各家々では玄関口の門飾りと合わせて、持ち船にもアセビ・椎・松、ヒイラギの枝、ウラジロ等を注連縄で絡げ、庶民将来子孫■と記された木札とツボキを括り付けた飾りを取付ける。アルバムのデータ記載欄には「S62.1.2日(石鏡の門神)/舟玉かざり」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1987.01.02 |
1793 | 石鏡の門神5-1-2 | 各家々では玄関口の門飾りと合わせて、持ち船にもアセビ・椎・松、ヒイラギの枝、ウラジロ等を注連縄で絡げ、庶民将来子孫■と記された木札とツボキを括り付けた飾りを取付ける。アルバムのデータ記載欄には「S62.1.2日(石鏡の門神)/舟玉かざり」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1987.01.02 |
1794 | 石鏡(後産)5-1-5 | 後産(あとざん・のちざん)の処理の方法は鳥羽市でも集落によって差があり、神島・浦村・国崎・相差・答志の様に決められた浜に埋ける所と加茂地区・石鏡・桃取の様に井戸や専用の瓶が埋めてあってその中に捨てる所があったと言う。参考文献:『鳥羽市史 下巻』平成3年発行。 写真中央の松の背後にある蓋のついた瓶(かめ)は、後産(産後に出た胎盤)を捨てるために使われた。埋め墓下の広場の片隅に置かれていたが、平成初期の墓地の整備工事とともになくなった。後産だけでなく、水子やへその緒も捨てられた。瓶(かめ)の底はなく、地面に接しており、捨てられたものは腐って土に還った。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) アルバムのデータ記載欄には「S62.6月 石鏡後産/後産を捨てた井戸」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1987.06 |
1795 | 石鏡(後産)5-1-6 | 後産(あとざん・のちざん)の処理の方法は本市でも集落によって差があり、神島・浦村・国崎・相差・答志の様に決められた浜に埋ける所と加茂地区・石鏡・桃取の様に井戸や専用の瓶が埋めてあってその中に捨てる所があったと言う。参考文献:『鳥羽市史 下巻』平成3年発行。アルバムのデータ記載欄には「S62.6月 石鏡後産/後産を捨てた井戸」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1987.06 |
1796 | 石鏡(民具)5-2-1 | 一輪車に乗せられた二つのフゴに入れられているのは甘藷である。集落は海へと落ちる急峻な山腹に密集するが、浦村町へと続く県道沿いにわずかながら農地が広がる。栽培される農作物は自家用の物が中心であるが、中でも甘藷は煮て乾燥させたキンコや薄切りにして乾燥させ、芋粉にした物を小麦粉等と混ぜて蒸す芋餅等の保存食の食材としても重宝された。アルバムのデータ記載欄には「S62.11.12(石鏡)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1987.11.12 |
1797 | 石鏡(民具)5-2-2 | 背中に背負う竹製の運搬具で、背負子(ショイカゴとも言う)である。昭和50年頃に、石鏡から伊豆への出稼ぎによって導入されたので、鳥羽市内の他の地域には伝わっておらず、画像№1804のようなショイコが用いられることが一般的だった。石鏡には竹製のオンビカゴ(アワビカゴ)を編む人もいたが、この背負いカゴは当時の金額で1万円ほどした。伊豆から送ってもらうには当時の金額で2,000?3,000円ほどしたそうだ。参考文献:『鳥羽市史 下巻 第3章交易・開運・運搬』平成3年発行。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より)。アルバムのデータ記載欄には「S62.11.12(石鏡)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1987.11.12 |
1798 | 石鏡(民具)5-2-3 | 写真の女性は木村春枝さん、海女である。海女小屋で手拭いの巻き方を教わった写真。ホッカブリ(ホオカムリ)と地元では呼ばれた。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) アルバムのデータ記載欄には「S62.11.12(石鏡)/ホッカブリ<冬>」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1987.11.12 |
1799 | 石鏡(民具)5-2-4 | 写真の女性は木村春枝さん、海女である。海女小屋で手拭いの巻き方を教わった写真。アネサンと地元では呼ばれた。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) アルバムのデータ記載欄には「S62.11.12(石鏡)/ホッカブリ<冬>」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1987.11.12 |
1800 | 石鏡(民具)5-2-5 | 写真の女性は木村春枝さん、海女である。海女小屋で手拭いの巻き方を教わった写真。ハチマキと地元では呼ばれた。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) アルバムのデータ記載欄には「S62.11.12(石鏡)/ホッカブリ<冬>」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1987.11.12 |
1801 | 石鏡(民具)5-2-6 | 出漁風景であるが詳細は不明(要調査)。アルバムのデータ記載欄には「S62.11.12(石鏡)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1987.11.12 |
1802 | 石鏡(民具)5-3-1 | 防寒具として使用されるが、海女地区では夏冬問わず、海から上がって体を温めるために火に当たる時に着用したと言う。アルバムのデータ記載欄には「S63.1月(石鏡)/ヨッチ<綿入ハンテンのこと>」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1988.1 |
1803 | 石鏡(民具)5-3-2 | 防寒具として使用されるが、海女地区では夏冬問わず、海から上がって体を温めるために火に当たる時に着用したと言う。アルバムのデータ記載欄には「S63.1月(石鏡)/ヨッチ<綿入ハンテンのこと>」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1988.1 |
1804 | 石鏡(民具)5-3-3 | 背中に背負って物を運ぶ運搬用具である。乾燥アラメを運ぶ様子。後方の、藁がかかっているのがアラメ塚である。この海女さんは木製のショイコを使ってアラメを背負っているが、昔はよく頭に載せて物を運んだ。乾燥アラメを頭に載せることもあったという。現在(2023年)でも、浜などで拾った木や竹を海女が杖代わりにして歩く姿がみられる。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) アルバムのデータ記載欄には「(S63.1月 石鏡)/ショイコ<運搬>」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1988.01) |
1805 | 石鏡(民具)5-3-4 | 全国的には小正月の後に外されることが多いようであるが、鳥羽志摩地域地では一年中飾る所が多く、石鏡町ではその家に不幸事が起こるまで毎年新しい注連縄が重ねられていく。また、最近は、市販されている物を飾る家も多くなったが、ここでは今も家人が思いを込めて作った注連縄を見ることができ、木札の表には「七福即生 七難即滅 蘇民将来子孫門」、裏には「急々如律令」と「魔除印=ドーマン・セーマン」が記される。表札からは「寺本重平」の名前が確認できる。アルバムのデータ記載欄には「(S63.1月 石鏡)/〆縄<重ねがけ>」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1988.01) |
1806 | 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-4-1 | 海の博物館の旧館における民具の整理作業風景である。一点一点清掃、修復、計測、撮影が行われ目録が作製されていく。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1975.05) |
1807 | 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-4-2 | 志摩の突取り捕鯨の歴史は古く、本市域では相差、石鏡、国崎にその痕跡が残されている。ここ石鏡町には市の文化財に指定されている慶安二(1649)年の「鯨船他もやい申定之事」の文書が残され、また「延宝九(1681)年目録之控」(石鏡漁協文書)によれば石鏡村は4隻の鯨船を所持していたと記されるが、宝永四(1707)年の大津波で大被害を受け、国崎村は同六年に廃絶。石鏡村も鰹船に転化していったとされる。写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事であるが、土中から鯨の骨が発見された。参考文献:『鳥羽市史 下巻』平成3年発行。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1975.05) |
1808 | 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-4-3 | 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事であるが、土中から鯨の骨が発見された。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1975.05) |
1809 | 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-4-4 | 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事であるが、土中から鯨の骨が発見された。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1975.05) |
1810 | 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-4-5 | 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事であるが、土中から鯨の骨が発見された。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1975.05) |
1811 | 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-4-6 | 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事であるが、土中から鯨の骨が発見された。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1975.05) |
1812 | 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-5-1 | 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事であるが、土中から鯨の骨が発見された。写真上部には、石鏡の漁港と太平洋へと続く海域が見える。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1975.05) |
1813 | 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-5-2 | 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事であるが、土中から鯨の骨が発見された。写真上部には、石鏡の漁港と太平洋へと続く海域が見える。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1975.05) |
1814 | 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-5-3 | 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事であるが、土中から鯨の骨が発見された。写真上部には、石鏡の漁港と太平洋へと続く海域が見える。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1975.05) |
1815 | 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-5-4 | 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事であるが、土中から鯨の骨が発見された。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1975.05) |
1816 | 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-5-5 | 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事であるが、土中から鯨の骨が発見された。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1975.05) |
1817 | 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-5-6 | 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事であるが、土中から鯨の骨が発見された。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1975.05) |
1818 | 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-6-1 | 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事であるが、土中から鯨の骨が発見された。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1975.05) |
1819 | 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-6-2 | 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事中に土中から発見された鯨の骨。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1975.05) |
1820 | 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-6-3 | 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事中に土中から発見された鯨の骨。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1975.05) |
1821 | 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-6-4 | 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事中に土中から発見された鯨の骨。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1975.05) |
1822 | 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-6-5 | 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事中に土中から発見された鯨の骨。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1975.05) |
1823 | 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-6-6 | 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事中に土中から発見された鯨の骨。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1975.05) |
1824 | 石鏡木村弁助宅出土鯨骨6-1-1 | 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事中に土中から発見された鯨の骨。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1975.05) |
1825 | 石鏡木村弁助宅出土鯨骨6-1-2 | 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事中に土中から発見された鯨の骨。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1975.05) |
1826 | 石鏡木村弁助宅出土鯨骨6-1-3 | 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事中に土中から発見された鯨の骨。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1975.05) |
1827 | 石鏡木村弁助宅出土鯨骨6-1-4 | 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事中に土中から鯨の骨と一緒にアワビやニシ等の貝殻類も発見された。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1975.05) |
1828 | 石鏡木村弁助宅出土鯨骨6-1-5 | 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事中に土中から鯨の骨と一緒にアワビやニシ等の貝殻類も発見された。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | (1975.05) |
1829 | 石鏡木村弁助宅出土鯨骨6-1-6 | アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。写真は曹洞宗鳥羽常安寺の末寺である鳥羽市浦村町本浦の生浦山清岩庵である。開山は祖麟和尚とされるが、安政五(1858)年の火災で寺宝、記録、その他の什器に至るまで消失したと言う。参考文献:『鳥羽市史 下巻』平成3年発行。 | 鳥羽市浦村町本浦 | (1975.05) |
1830 | 石鏡辻札・正月始6-2-1 | 古来から辻は現世と来世の境界になっているとの説があり、魔物の「辻神」が住みつきやすいと言われる。ここ石鏡町では御堂・山の坂・西口ドラシ・バンタガ坂の四ヶ所には悪霊が集落の中に入り込むのを防ぐために「大般若経宝牘守護」と書かれた紙札と「ダテンコウ札」が「辻の札」として立てられる。アルバムのデータ記載欄には「S63.12.13 (石鏡)/辻札・正月始・札書」/辻札立」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1988.12.13 |
1831 | 石鏡辻札・正月始6-2-2 | 古来から辻は現世と来世の境界になっているとの説があり、魔物の「辻神」が住みつきやすいと言われる。ここ石鏡町では御堂・山の坂・西口ドラシ・バンタガ坂の四ヶ所には悪霊が集落の中に入り込むのを防ぐために「大般若経宝牘守護」と書かれた紙札と「ダテンコウ札」が「辻の札」として立てられる。アルバムのデータ記載欄には「S63.12.13 (石鏡)/辻札・正月始・札書」/ダテンコウ鬼主 場所ミド」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1988.12.13 |
1832 | 石鏡辻札・正月始6-2-3 | 古来から辻は現世と来世の境界になっているとの説があり、魔物の「辻神」が住みつきやすいと言われる。ここ石鏡町では御堂・山の坂・西口ドラシ・バンタガ坂の四ヶ所には悪霊が集落の中に入り込むのを防ぐために「大般若経宝牘守護」と書かれた紙札と「ダテンコウ札」が「辻の札」として立てられる。アルバムのデータ記載欄には「S63.12.13 (石鏡)/辻札・正月始・札書」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1988.12.13 |
1833 | 石鏡木村弁助宅資料6-4-1 | 木村家に残されてきた史料で「仕切状 一、生貝 三百八十七籠・・・」と記され、軸装がされている。アルバムのデータ記載欄には「64.1.3日 石鏡/木村弁助宅資料」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1989.01.03 |
1834 | 石鏡木村弁助宅資料6-4-2 | 木村家に残されてきた史料で「仕切状 一、生貝 三百八十七籠・・・」と記され、軸装がされている。アルバムのデータ記載欄には「64.1.3日 石鏡/木村弁助宅資料」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1989.01.03 |
1835 | 石鏡木村弁助宅資料6-4-3 | 用途は不明であるが楕円形に形取られた木表には「安政三丙辰年 石鏡村 木村弁助用」と彫られる。アルバムのデータ記載欄には「64.1.3日 石鏡/木村弁助宅資料」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1989.01.03 |
1836 | 石鏡木村弁助宅資料6-5-1 | 木村家に残されてきた史料で「文化十三子十一月 往来一札之事 一、鮑四百籠・・・」と記され、軸装がされている。アルバムのデータ記載欄には「64.1.3日 石鏡/木村弁助宅資料」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1989.01.03 |
1837 | 石鏡木村弁助宅資料6-5-2 | 木村家に残されてきた史料で「文化十三子十一月 往来一札之事 一、鮑四百籠・・・」と記され、軸装がされている。アルバムのデータ記載欄には「64.1.3日 石鏡/木村弁助宅資料」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1989.01.03 |
1838 | 石鏡木村弁助宅資料6-5-3 | 木村家に残されてきた史料で「大正9年旧6月4日 富士浅間大権現」と記される幟旗である。アルバムのデータ記載欄には「64.1.3日 石鏡/木村弁助宅資料/富士講の旗 大正9年6月4日」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1989.01.03 |
1839 | 石鏡木村弁助宅資料6-5-4 | 木村家に残されてきた史料で「嘉永七年とら霜月四日 此可心得也」と記される。アルバムのデータ記載欄には「64.1.3日 石鏡/木村弁助宅資料/嘉永七年津波記録」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1989.01.03 |
1840 | 石鏡木村弁助宅資料6-5-5 | 木村家に残されてきた史料の内№1839の中身で「覚 嘉永七年とら年霜月四日ひる四ツ時大志しんすぐにつなみ・・・・・」と記される。アルバムのデータ記載欄には「64.1.3日 石鏡/木村弁助宅資料/嘉永七年津波記録」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1989.01.03 |
1841 | 石鏡木村弁助宅資料6-5-6 | 木村家に残されてきた史料の内№1839の中身で「今浦本浦のこらずながれたり・・・」と記される。アルバムのデータ記載欄には「64.1.3日 石鏡/木村弁助宅資料/嘉永七年津波記録」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1989.01.03 |
1842 | 石鏡木村弁助宅資料6-6-1 | 木村家に残されてきた史料の内№1839の中身で「なみたかし六月七月八月廿一日大しけ也・・・・・」と記される。アルバムのデータ記載欄には「64.1.3日 石鏡/木村弁助宅資料/嘉永七年津波記録」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1989.01.03 |
1843 | 石鏡木村弁助宅資料6-6-2 | 8月16日に新亡の霊や祖先の霊を送る石鏡町の精霊送り「アミダーボ」で大老等年寄衆が太鼓と鉦を打ち鳴らしながら唱える「ミダタノム」の文句である。「ヒトワアワヨノ月ナリヤー クモハレネエド ニシユク アミダーボー・・・・・」の文句が記される。アルバムのデータ記載欄には「64.1.3日 石鏡/木村弁助宅資料」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1989.01.03 |
1844 | 石鏡木村弁助宅資料6-6-3 | アルバムのデータ記載欄には「64.1.3日 石鏡/木村弁助宅資料/エビス貝 この変形貝をとった時、6貫のアワビの大漁だった。その後祀っている」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1989.01.03 |
1845 | 石鏡木村弁助宅資料6-6-4 | アルバムのデータ記載欄には「64.1.3日 石鏡/木村弁助宅資料/エビス貝 この変形貝をとった時、6貫のアワビの大漁だった。その後祀っている」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1989.01.03 |
1846 | 石鏡木村弁助宅資料6-6-5 | 辻札である。古来から辻は現世と来世の境界になっているとの説があり、魔物の「辻神」が住みつきやすいと言われる。ここ石鏡町では御堂・山の坂・西口ドラシ・バンタガ坂の四ヶ所には悪霊が集落の中に入り込むのを防ぐために「大般若経宝牘守護」と書かれた紙札と「ダテンコウ札」が「辻の札」として立てられる。アルバムのデータ記載欄には「64.1.3日 石鏡/木村弁助宅資料」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1989.01.03 |
1847 | 石鏡木村弁助宅資料6-6-6 | 辻札である。古来から辻は現世と来世の境界になっているとの説があり、魔物の「辻神」が住みつきやすいと言われる。ここ石鏡町では御堂・山の坂・西口ドラシ・バンタガ坂の四ヶ所には悪霊が集落の中に入り込むのを防ぐために「大般若経宝牘守護」と書かれた紙札と「ダテンコウ札」が「辻の札」として立てられる。アルバムのデータ記載欄には「64.1.3日 石鏡/木村弁助宅資料」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1989.01.03 |
1848 | 石鏡木村弁助宅資料7-1-1 | 辻札である。古来から辻は現世と来世の境界になっているとの説があり、魔物の「辻神」が住みつきやすいと言われる。ここ石鏡町では御堂・山の坂・西口ドラシ・バンタガ坂の四ヶ所には悪霊が集落の中に入り込むのを防ぐために「大般若経宝牘守護」と書かれた紙札と「ダテンコウ札」が「辻の札」として立てられる。アルバムのデータ記載欄には「64.1.3日 石鏡/木村弁助宅資料」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1989.01.03 |
1849 | 石鏡木村弁助宅資料7-1-2 | 辻札である。古来から辻は現世と来世の境界になっているとの説があり、魔物の「辻神」が住みつきやすいと言われる。ここ石鏡町では御堂・山の坂・西口ドラシ・バンタガ坂の四ヶ所には悪霊が集落の中に入り込むのを防ぐために「大般若経宝牘守護」と書かれた紙札と「ダテンコウ札」が「辻の札」として立てられる。アルバムのデータ記載欄には「64.1.3日 石鏡/木村弁助宅資料」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1989.01.03 |
1850 | 石鏡木村弁助宅資料7-1-3 | 辻札である。古来から辻は現世と来世の境界になっているとの説があり、魔物の「辻神」が住みつきやすいと言われる。ここ石鏡町では御堂・山の坂・西口ドラシ・バンタガ坂の四ヶ所には悪霊が集落の中に入り込むのを防ぐために「大般若経宝牘守護」と書かれた紙札と「ダテンコウ札」が「辻の札」として立てられる。アルバムのデータ記載欄には「64.1.3日 石鏡/木村弁助宅資料」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1989.01.03 |
1851 | 石鏡木村弁助宅資料7-1-4 | 全国的には小正月の後に外されることが多いようであるが、鳥羽志摩地域地では一年中飾る所が多く、石鏡町ではその家に不幸事が起こるまで毎年新しい注連縄が重ねられていく。また、最近は、市販されている物を飾る家も多くなったが、ここでは今も家人が思いを込めて作った注連縄を見ることができ、木札の表には「七福即生 七難即滅 蘇民将来子孫門」、裏には「急々如律令」と「魔除印=ドーマン・セーマン」が記される。アルバムのデータ記載欄には「64.1.3日 石鏡/木村弁助宅資料」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1989.01.03 |
1852 | 石鏡海女の潜き下り7-1-5 | 毎年、海女漁が始まる前に海上安全と豊漁を祈願して行われる海女の神事である。当日午後「カズキオリを始める」旨の町内放送が流されると、白木の膳と一升枡を手にした海女達がそれぞれ、かつては集落前の海浜であったであろう前浜の堤防で、小石の上に赤飯・タツクリ等を供え神酒を注ぎ、アワビオコシで一升枡の角を二三度叩いてから海に向かって手を合わせて海上安全と大漁満足を祈願する。前浜での御供えが終わると、八大龍神の祭壇に、重ね餅や小石、アズキ飯等を供え、膳に載せられた黒・赤一対のアワビをアワビオコシ(磯ノミ)で起こす仕草をし、手を合わせて操業の安全と大漁を祈願する。その後、集落の入口近くに立つ石柱、三界萬霊塔、六地蔵に供え物を済ませた後、海女船を持つ海女達は自家船にも御供をして回る。写真は、八大龍神の掛軸である。アルバムのデータ記載欄には「90.2.16 (石鏡)海女の潜きおり(潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1853 | 石鏡海女の潜き下り7-1-6 | 八大龍神の掛軸である。重ね餅や小石、赤飯・タツクリ等を供え海上安全と豊漁を祈願する。アルバムのデータ記載欄には「90.2.16 (石鏡)海女の潜きおり(潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1854 | 石鏡海女の潜き下り7-2-1 | 八大龍神の掛軸を掛け、その下に膳に入れられた黒と赤一対の鮑と、神酒を注ぐための器、アワビを起こす仕草に使うノミ(アワビオコシ)が置かれた祭壇が設えられる。アルバムのデータ記載欄には「90.2.16 (石鏡)海女の潜きおり(潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1855 | 石鏡海女の潜き下り7-2-2 | 八大龍神の掛軸を掛け、その下に膳に入れられた黒と赤一対の鮑と、神酒を注ぐための器、アワビを起こす仕草に使う磯ノミ(アワビオコシ)が置かれた祭壇が設えられる。アルバムのデータ記載欄には「90.2.16 (石鏡)海女の潜きおり(潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1856 | 石鏡海女の潜き下り7-2-3 | 八大龍神の掛軸の下に設えられる祭壇である。膳に入れられた黒と赤一対の鮑と、神酒を注ぐための器、アワビを起こす仕草に使う磯ノミ(アワビオコシ)が置かれている。アルバムのデータ記載欄には「90.2.16 (石鏡)海女の潜きおり(潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1857 | 石鏡海女の潜き下り7-2-4 | 白木の膳と一升枡を手にした海女達が前浜の堤防で、小石の上に赤飯・タツクリ等を供え終えた後、八大龍神の祭壇に、重ね餅や小石、アズキ飯等を供え、膳に載せられた黒・赤一対のアワビをアワビオコシ(磯ノミ)で起こす仕草をし、手を合わせて操業の安全と大漁を祈願する。アルバムのデータ記載欄には「90.2.16 (石鏡)海女の潜きおり(潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1858 | 石鏡海女の潜き下り7-2-5 | 白木の膳と一升枡を手にした海女達が前浜の堤防で、小石の上に赤飯・タツクリ等を供え終えた後、八大龍神の祭壇に、重ね餅や小石、アズキ飯等を供え、膳に載せられた黒・赤一対のアワビをアワビオコシ(磯ノミ)で起こす仕草をし、手を合わせて操業の安全と大漁を祈願する。アルバムのデータ記載欄には「90.2.16 (石鏡)海女の潜きおり(潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1859 | 石鏡海女の潜き下り7-2-6 | 八大龍神の祭壇に供えられた重ね餅や小石、赤飯(小豆飯)、タツクリなど。アルバムのデータ記載欄には「90.2.16 (石鏡)海女の潜きおり(潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1860 | 石鏡海女の潜き下り7-3-1 | 白木の膳と一升枡を手にした海女達が前浜の堤防で、小石の上に赤飯・タツクリ等を供え終えた後、八大龍神の祭壇に、重ね餅や小石、アズキ飯等を供え、膳に載せられた黒・赤一対のアワビをアワビオコシ(磯ノミ)で起こす仕草をし、手を合わせて操業の安全と大漁を祈願する。アルバムのデータ記載欄には「90.2.16 (石鏡)海女の潜きおり(潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1861 | 石鏡海女の潜き下り7-3-2 | 白木の膳と一升枡を手にした海女達が前浜の堤防で、小石の上に赤飯・タツクリ等を供え終えた後、八大龍神の祭壇に、重ね餅や小石、アズキ飯等を供え、膳に載せられた黒・赤一対のアワビをアワビオコシ(磯ノミ)で起こす仕草をし、手を合わせて操業の安全と大漁を祈願する。アルバムのデータ記載欄には「90.2.16 (石鏡)海女の潜きおり(潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1862 | 石鏡海女の潜き下り7-3-3 | かつては集落前の海浜であったであろう前浜の堤防に供えられた、小石や赤飯・タツクリ、神酒等である。海女達はお供えを終えると、アワビオコシで一升枡の角を二三度叩いてから海に向かって手を合わせて海上安全と大漁満足を祈願する。アルバムのデータ記載欄には「90.2.16 (石鏡)海女の潜きおり(潜き下り)」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1990.02.16 |
1863 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-1-1 | このスライドの前にはめ込まれるタイトルスライド枠には「和具 A1 栗原達男」と記され、スライド枠には「47.8.28/ウエットスーツへの着替え」と記される。志摩町和具のノリアイ海女の船上風景である。5人の海女が写されるが、全員が黄色のウエットスーツを身に着ける。傍らには磯桶が積まれている。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1864 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-1-2 | スライド枠には「47.8.28」と記される。志摩町和具のノリアイ海女の船上風景である。黄色のウエットスーツへと着替えをする海女が写されるが、左前の海女はスーツの綻びを接着剤で補修している。傍らにはイソカゴが置かれ、スカリらしき物も見受けられる。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1865 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-1-3 | スライド枠には「47.8.28」と記される。志摩町和具のノリアイ海女の船上風景である。黄色のウエットスーツへと着替え、ゴム製の足袋を履く海女や髪を結ぶ海女達が写される。傍らには磯桶やスカリらしき物が置かれている。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1866 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-1-4 | スライド枠には「47.8.28」と記される。志摩町和具のノリアイ海女の船上風景である。黄色のウエットスーツへと着替える海女や、髪を整える海女等5人が写される。傍らにはイソカゴや磯桶やスカリらしき物が置かれている。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1867 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-1-5 | スライド枠には「和具 S47/47.8.28/ウエットスーツヒレ」と記される。志摩町和具のノリアイ海女の船上風景である。磯場へと到着し、操業開始の合図が出されたのであろう。艫の後方の海上には4個の磯桶が浮かんでいる。船上では黄色のウエットスーツに磯メガネと黒の足ヒレを付け、桶綱を手にした海女が海へ入る準備を進める。すでに磯桶は海面に浮いている。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1868 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-1-6 | スライド枠には「和具 S47/47.8.28/ウエットスーツヒレ」と記される。志摩町和具のノリアイ海女の船上風景である。磯場へと到着し、操業開始の合図が出されたのであろう。艫側の海上には磯桶に掴まる二人の海女が、船上では左手に桶綱を持ち、足から海に飛び込む瞬間の海女や桶綱を腰のベルトに結ぶ海女達が写される。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1869 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-1-7 | スライド枠には「和具 47.8.28」と記される。志摩町和具のノリアイ海女達の休憩風景である。場所は和具大島かと思われる。浜辺に柱を立て、白布の様な物で夏の日差しを遮るために作られた簡易な海女小屋である。一潜目が終わると海女達は、海女小屋に戻り磯着に着替えて躰を温め、昼食をとる。写真中央の海女はアルマイト製の弁当箱に白米を入れ、干物をおかずに昼食をとる。和具では海女達が暖をとるために薪を燃やすところをヒドコと呼ぶが、傍らにはイソカゴやフゴが置かれ、外には二潜目に備えてウエットスーツが干されている。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1870 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-1-8 | スライド枠には「47.8.28」と記される。志摩町和具のノリアイ海女達の休憩風景である。場所は和具大島かと思われる。浜辺に柱を立て、白布の様な物で夏の日差しを遮るために作られた簡易な海女小屋である。一潜目が終わると海女達は、海女小屋に戻り磯着に着替えて躰を温め、昼食をとる。和具における夏の海女漁の操業時間は、午前9時30分~11時、午後2時~3時30分までと定められている(『海女習俗基礎調査報告書 平成22・23年度調査』)。昼は3時間ほどの休憩時間が取られることから、食事の後ヒドコの回りで一眠りする海女達も少なくない。傍らにはイソカゴやスカリ等が置かれている。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1871 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-1-9 | スライド枠には「47.8.28」と記される。志摩町和具のノリアイ海女達の休憩風景である。場所は和具大島かと思われる。浜辺に柱を立て、白布の様な物で夏の日差しを遮るために作られた簡易な海女小屋である。一潜目が終わると海女達は、海女小屋に戻り磯着に着替えて躰を温め、昼食をとる。写真中央の海女はアルマイト製の弁当箱に白米を入れ、干物をおかずに昼食をとる。和具では海女達が暖をとるために薪を燃やすところをヒドコと呼ぶが、傍らにはイソカゴやフゴが置かれ、外には二潜目に備えてウエットスーツが干されている。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1872 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-1-10 | スライド枠には「47.8.28」と記される。志摩町和具のノリアイ海女達の休憩風景である。場所は和具大島かと思われる。浜辺に柱を立て、白布の様な物で夏の日差しを遮るために作られた簡易な海女小屋である。一潜目が終わると海女達は、海女小屋に戻り磯着に着替えて躰を温め、昼食をとる。和具における夏の海女漁の操業時間は、午前9時30分~11時、午後2時~3時30分までと定められている(『海女習俗基礎調査報告書 平成22・23年度調査』)。昼は3時間ほどの休憩時間が取られることから、食事の後ヒドコの回りで一眠りする海女達も少なくない。傍らにはイソカゴやスカリ等が置かれている。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1873 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-1-11 | スライド枠には「和具 47.8.28」と記される。刺網の修繕風景である。岩礁域に仕掛ける刺網は岩や貝殻等で破れる事も多い。漁師達は漁の合間をぬってアバリと呼ばれる修理道具で破れた部分を一目一目修繕していく。写真はアバリを口にくわえ、刺網を修繕する漁師。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1874 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-1-12 | スライド枠には「和具 47.8.28」と記される。刺網の修繕風景である。岩礁域に仕掛ける刺網は岩や貝殻等で破れる事も多い。漁師達は漁の合間をぬってアバリと呼ばれる修理道具で破れた部分を一目一目修繕していく。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1875 | (国崎町の舟人海女)A-2-1 | 国崎漁港は昭和28年に漁港指定を受け、昭和38年度以降、整備計画漁港として修築事業を進めてきた。この撮影年次は、第4次計画が終了し、翌48年度から第5次計画に基づく漁港整備が始まる年であるが、まだ漁船を直接係留する程の漁港整備はされておらず、漁船は丸太のコロを使って陸へ引揚げられた。写真は、漁を終え帰港した海女船を陸へと引揚げる作業風景であろう。左上の建物は熨斗鮑調製所で、写されてはいないがその左側には海女小屋が建てられている。スライド枠には「47.8.17」と記される。国崎町鎧崎の船揚場風景である。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.08.17 |
1876 | (国崎町の舟人海女)A-2-2 | 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業をする事から「ととかか舟」とも呼ぶが、海底の海女から合図があったのであろう、船上の船頭はイソグルマにかけた命綱を一気に手繰上げる。スライド枠には「47.8.17」と記される。国崎町舟人海女の操業風景である。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.08.17 |
1877 | (国崎町の舟人海女)A-2-3 | 漁を終え帰港した国崎町の舟人海女達。鎧崎の船揚場、前の浜であろう。黒のウエットスーツを着け、磯手拭いを被り、左手にスカリ、右手でイソカゴを肩に掛けた海女が波打際から陸へと向かう。波打際で艫綱を持つ海女は、これから船の引揚げ作業かも知れない。スライド枠には「47.8.17」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.08.17 |
1878 | (国崎町の舟人海女)A-2-4 | 漁を終え帰港した国崎町の舟人海女達。鎧崎の船揚場、前の浜であろう。磯黒のウエットスーツを着け、磯手拭いを被り、イソカゴを手にする海女が波打際から陸へと向かう。スライド枠には「47.8.17/ウエットスーツ」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.08.17 |
1879 | (国崎町の舟人海女)A-2-5 | 国崎町舟人海女が磯場へと向かう船上風景である。黒のウエットスーツを身につけ、鉛のベルトと命綱を腰に巻き磯場へと向かう。傍らには、イカシカゴやメガネ箱に入った磯メガネ、軍手等が置かれている。スライド枠には「47.8.17/頭かぶりつきウエットスーツ」と記される。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.08.17 |
1880 | (国崎町の舟人海女)A-2-6 | 漁を終え帰港した海女達は、採ってきた鮑を漁業協同組合に出荷する。アワビは種類や大きさ、キズ等の点検が行われた後、職員によって計量され、記録されていく。海女が頭に被る磯手拭いからは「国崎町」の文字が読み取れる。スライド枠には「47.8.17」と記される。国崎町の海女の出荷風景である。 | 鳥羽市国崎町 | 1973.08.17 |
1881 | (志摩町和具の海女)A-2-7 | スライド枠には「47.8.24」と記される。海女小屋の火床で薪を燃し、暖を取る海女達の風景である。一潜目の漁を終えた後だろうか。磯着に着替え暖をとる海女の傍らに置かれた新聞紙の上には、傷が付いて出荷が出来ないのか、焼かれた鮑がのせられている。何を話すのか、笑顔で話す海女達の顔は明るい。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.24 |
1882 | (志摩町和具の海女)A-2-8 | スライド枠には「47.8.28」と記される。海女小屋で暖を取る海女の風景である。漁を終えたのか、磯着に着替え暖をとる海女の周囲にはウエットスーツや磯着等が所狭しと干されている。ウエットスーツの色から、志摩町和具の海女では無いかと思われる。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1883 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-3-1 | このスライドの前にはめ込まれる紙製のタイトルスライドには「和具 A3 47.8.28」と記される。和具漁港の船揚場風景かと思われる。写真手前下にはアラメやカジメらしき海藻の間に船を引き揚げる為の丸太のコロが並べられている。引揚げられた漁船の前を、これから出漁するのか数人の海女達がウエットスーツやイソカゴを手に歩いて行く。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1884 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-3-2 | スライド枠には「和具 47.8.28」と記される。和具のノリアイ海女の操業風景である。磯オケに掴まり体を休めながら、次に潜水する場所を見極めるために海底を探る。右手にはカギノミが握られている。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1885 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-3-3 | スライド枠には「和具 47.8.28」と記される。和具の海女の操業風景である。ウエットスーツの上から白の磯着を着た海女が、タンポに掴まりながら、次の潜水の為に息を整える。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1886 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-3-4 | スライド枠には「和具 47.8.28」と記される。志摩町和具のノリアイ海女の船上風景である。黄色のウエットスーツへと着替えた海女達が操業の準備を進める。傍らには磯桶やスカリらしき物が置かれている。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1887 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-3-5 | スライド枠には「和具 47.8.28」と記される。志摩町和具のノリアイ海女の船上風景である。黄色のウエットスーツへと着替える海女等5人が写される。傍らにはイソカゴや磯桶等が置かれている。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1888 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-3-6 | スライド枠には「和具 47.8.28」と記される。和具漁港の船揚場かと思われる。打ち上げられている海藻は、アラメかカジメのようであるが、これらの海藻は鮑や栄螺の餌となり、海女漁が行われる海域の豊かさを示すバロメーターとも言われる。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1889 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-3-7 | スライド枠には「和具 47.8.28」と記される。採ってきた海藻を天日干しさせているのであろうか。アラメやヒジキ等の海藻は集落の人々の食材として活用され、また半農半漁の集落ではホンダワラ等の海藻は畑の肥料としても利用される。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1890 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-3-8 | スライド枠には「和具 47.8.28」と記される。採ってきた海藻を天日干しさせているのであろうか。アラメやヒジキ等の海藻は集落の人々の食材として活用され、また半農半漁の集落ではホンダワラ等の海藻は畑の肥料としても利用される。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1891 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-3-9 | スライド枠には「47.8.28」と記される。志摩町和具のノリアイ海女の船上風景である。黄色のウエットスーツへと着替える海女等が写される。傍らにはイソカゴや磯桶等が置かれている。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1892 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-3-10 | スライド枠には「47.8.28」と記される。志摩町和具のノリアイ海女達である。一潜目を終えて休憩に入るものと思われる。浜辺に着けた海女船から海女達が磯桶やイソカゴを持って陸へと上がる。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1893 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-3-11 | スライド枠には「47.8.28」と記される。志摩町和具のノリアイ海女達である。一潜目を終えて休憩に入るものと思われる。磯桶やイソカゴを持って陸に上がり、これから海女小屋へと向かうのであろう。波打際には、海藻取りに出かけていたのか、ウエットスーツの上から白の磯着を身に付け、足ヒレと大量のアラメらしき海藻を持つ海女が写されている。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1894 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-3-12 | スライド枠には「和具 47.8.28/ウエットスーツのアマ」と記される。志摩町和具のノリアイ海女の船上風景である。黄色のウエットスーツへと着替え、ゴム製の足袋を履く海女や髪を整えようとする海女達が写される。傍らには磯桶が積まれている。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1895 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-3-13 | スライド枠には「和具 47.8.28」と記される。志摩町和具のノリアイ海女の船上風景である。これから操業に入るのか、磯場を見つめるノリアイ海女達であるが、磯メガネをかける海女、磯メガネの曇り止めをする海女、鉛の腰ベルトを持つ海女等が写される。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1896 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-3-14 | スライド枠には「和具 47.8.28」と記される。志摩町和具のノリアイ海女の船上風景である。磯場に到着したのであろう。黄色のウエットスーツに着替える海女や、すでに磯メガネをかけ、磯桶を船縁に出して準備を終えた海女達が写される。足下には黒の足ヒレが置かれている。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1897 | 志摩町和具(ノリアイ海女)A-3-15 | スライド枠には「和具 47.8.28」と記される。志摩町和具のノリアイ海女の船上風景である。一潜目を終えて船上に上がってきたところだろうか。黄色のウエットスーツも頭に巻いた磯手拭いも濡れている。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1898 | (志摩町)和具の海女A-4-1 | このスライドの前にはめ込まれる紙製のタイトルスライドには「和具の海女 栗原達男 A-4 47.8.28」と記される。志摩町和具のノリアイ海女の船上風景である。これから磯場へと向かう船上で、黄色のウエットスーツに着替える海女や、操業の準備をする海女達が写される。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1899 | (志摩町)和具の海女A-4-2 | スライド枠には「47.8.28」と記される。和具漁港の堤防だろうか。乾燥されたと思われるアラメらしき海藻を、女性が担い棒で運ぶ。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1900 | (志摩町)和具の海女A-4-3 | スライド枠には「47.8.28」と記される。和具漁港の堤防だろうか。乾燥されたと思われるアラメらしき海藻を、男性が丸太を担い棒代わりにして運ぶ。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1901 | (志摩町)和具の海女A-4-4 | スライド枠には「47.8.28」と記される。和具漁港の堤防だろうか。乾燥されたと思われるアラメらしき海藻を、女性が丸太を担い棒代わりにして運ぶ。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1902 | (志摩町)和具の海女A-4-5 | スライド枠には「47.8.28」と記される。和具漁港の堤防だろうか。乾燥されたと思われるアラメらしき海藻を、女性が丸太を担い棒代わりにして運ぶ。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1903 | (志摩町)和具の海女A-4-6 | スライド枠には「47.8.28」と記される。和具漁港の堤防下の浜辺だろうか。乾燥されたと思われるアラメらしき海藻を女性がワラ縄で括り、積上げている。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1904 | (志摩町)和具の海女A-4-7 | スライド枠には「47.8.28」と記される。海女小屋の風景である。すでに漁を終え、暖も取り終えたのであろう、火床<ヒドコ>の火は消され金属製のタライが被されている。操業から戻ると、ウエットスーツや脚ヒレ、磯メガネ、ノミ、磯オケ、タンポ、スカリ等は水洗いされ、次の操業に備えて乾燥させる。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1905 | (志摩町)和具の海女A-4-8 | スライド枠には「47.8.28」と記される。海女小屋の風景である。すでに漁を終え、暖も取り終えたのであろう、火床<ヒドコ>の火は消され、後始末でもしているのか海女が一人しゃがみこむ。小屋の天井に作られた物干竿には、ウエットスーツや磯手拭い、スカリ等が干されている。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1906 | (志摩町)和具の海女A-4-9 | スライド枠には「47.8.28」と記される。海女小屋の風景である。一潜目を終えた後であろう、磯着に着替えた海女達が、丸太を立て白布などで日除けの天井を設えた簡易な小屋で暖を取り休憩している。周囲には黄色のウエットスーツや、黒の足ヒレ、磯桶等か干されている。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1907 | (志摩町)和具の海女A-4-10 | スライド枠には「47.8.28」と記される。海女小屋の風景である。すでに漁を終え、暖も取り終えたのであろう、火床<ヒドコ>の火は消されているようにも見えるが、後始末でもしているのか海女が一人座っている。小屋の天井に作られた物干竿には、ウエットスーツや磯着、スカリ等が所狭しと干されている。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1908 | (志摩町)和具の海女A-4-11 | スライド枠には「47.8.28」と記される。船揚げ風景である。和具の港は明治の中期頃まで深い湾形を保ち天然の良港であったが、明治末から大正中期にかけて打続く台風により浜洲が体積。漁港機能が全く果たし得ない状態になったという。昭和14年から県営事業として修築事業が着工され、戦中に一時中断はしたものの第1次整備計画以降、毎年漁港整備が続けられてきた。現在と違って、漁港整備がまだ十分でなかった時代は漁から戻った漁船は陸へと引き揚げられた。丸太のコロを船底に敷いて、船に乗り合わせた海女や村人達が協力し人力で引き揚げたものである。(参考文献:『三重の漁港1971/1995』) | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1909 | (志摩町)和具の海女A-4-12 | スライド枠には「47.8.28」と記される。船揚げ風景である。船の引き上げを終えたのであろう、海女小屋か自宅へと戻る海女達。漁港が十分に整備されていない時代、漁から戻った漁船は陸へと引き揚げられた。丸太のコロを船底に敷いて、船に乗り合わせた海女や村人達が協力し人力で引き揚げたものである。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1910 | (志摩町)和具の海女A-4-13 | スライド枠には「47.8.28」と記される。船揚げ風景である。船の引き上げを終えたのであろう、海女小屋か自宅へと戻る海女達。漁港が十分に整備されていない時代、漁から戻った漁船は陸へと引き揚げられた。丸太のコロを船底に敷いて、船に乗り合わせた海女や村人達が協力し人力で引き揚げたものである。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1911 | (志摩町)和具の海女A-4-14 | スライド枠には「47.8.28」と記される。丸太のコロを敷き、陸に引揚げられた船影で寛ぐ海女達。傍らには黄色のウエットスーツが入ったイソカゴが置かれている。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1912 | (志摩町)和具の海女A-4-15 | スライド枠には「47.8.28」と記される。和具漁港の船揚場に作られた海女小屋かと思われる。古材を柱に、トタン葺きの小屋が長屋の様に並ぶ。小屋の前には一輪車や磯桶と共に海女らしき女性が一人見て取れる。写真手前下にはアラメやカジメらしい海藻の間に船を引き揚げる為の丸太のコロが並べられている。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1913 | (志摩町)和具の海女A-4-16 | スライド枠には「47.8.28」と記される。和具漁港の船揚場風景かと思われる。写真手前下にはアラメやカジメらしき海藻の間に船を引き揚げる為の丸太のコロが置かれている。引揚げられた漁船の前を、これから出漁するのか海女達がウエットスーツやイソカゴを手に歩いて行く。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1914 | (志摩町)和具の海女A-4-17 | スライド枠には「47.8.28」と記される。一潜目を終え、海女船から降り立ったノリアイ海女か、もしくは徒人の海女だろうか。波打際で黄色のウエットスーツを脱ぎ磯着へと着替える海女達。傍らには、イソカゴやスカリ、薪等が見て取れる。 | 志摩市志摩町和具 | 1973.08.28 |
1915 | 和具の海女(舟人)A-5-1 | このスライドの前にはめ込まれるタイトルスライ |