【フィールドワーク通信】77. 浦口楠一さんに魅せられて(3)

こちらの記事の続きです。(続きの掲載が遅くなったことをお詫び申し上げます、編集担当・吉村)

次は田辺京子さん(昭和30年生)に会いに行きました。
京子さんは『志摩の海女』に収録されている「海女 京子」のモデルです。

撮影時の裏話に話がはずみます。(左:京子さん、中央:通訳の大塚万紗子さん、右:ソニアさん)

小学5年生頃、当時海産物商を営んでいた祖父が子ども用の小さな磯桶を買ってくれました。母と叔母が海女だったので、ごく自然に海女になりました。17歳の時カチド海女のおばさんと一緒に稽古作業に入って、3年目にオケド海女として10人ほどの先輩といっしょに海女船に乗り込むようになりました。(京子さん)

京子さんが海女を始めた昭和40(1965)年代、布施田では景気のいい真珠養殖に携わる人が多かったため、新しく海女になる人は少なく、ほとんどの海女が50歳を超えていたといいます。
そのため、海女組合から新しい磯メガネやノミなどの道具が支給されるなど大事にしてもらったそうです。

京子さんは、2年前に海女を引退しています。

『志摩の海女』海女 京子 より

浦口さんは撮影する時は、いつも京子ちゃん今日はいい?と聞いてくれて、私たちの漁の邪魔をしないようにと、気を遣ってくれていました。画家やいろんな人にも会わせてもらって、赤福のコマーシャルにも出たことありますよ。

と京子さん。浦口さんのことを「家族に近い存在だった」とも振り返っていました。

『志摩の海女』より

京子さん「海中の海女は浦口さんも一緒に潜って撮ったんやよ」

楠一さんの息子、望さん「うちの親父は泳げんと思っとたけどなぁ。海女さんと一緒に沈みながら撮ったんやろか…」

浦口楠一さんは写真集に、

潜水作業というきびしい労働に精出しているひとたちに、自分の楽しみでカメラを向けることの、ひけ目、気がね、は絶えずつきまとう。何ほどか記録としての価値があるとしても、撮られる側にとっては何の益もないこと、なかには写真を撮られるのが嫌いなひともあろうし、作業の邪魔になることでもあろう。(中略) それでもなお撮りたい、どうしても撮らずにいられない、写真的魅力があったのは事実である。

という文章を寄せています。

そうして撮影された浦口さんの作品が、キュレーターのソニアさんの心を掴み、モデルになった海女さんたちとの出会いがありました。改めて、写真の持つ力を実感する日々でした。

(﨑川由美子)