三重大学海女研究センター

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アーカイブ資料/画像資料アーカイブ

画像資料アーカイブPhotograph

海女研究センターが「アーカイブ・データベース事業」で構築してきた文献・画像のデータベースから詳細検索ができます。こちらでは鳥羽市立海の博物館が所蔵する海女や漁村に関する画像について、名称や撮影場所、撮影年、写されている内容を閲覧できます。

418 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-3
©鳥羽市立海の博物館

5799 志島の海女船4-1-3
©鳥羽市立海の博物館

5434 波切わらじ祭1-4
©鳥羽市立海の博物館

967 菅島(しろんご祭)3-6-3
©鳥羽市立海の博物館

418 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-3
©鳥羽市立海の博物館

5799 志島の海女船4-1-3
©鳥羽市立海の博物館

A16390(波切 わらじ)
©鳥羽市立海の博物館

967 菅島(しろんご祭)3-6-3
©鳥羽市立海の博物館

No. 資料の名称(画像タイトル) 内容(キャプション) 撮影場所 撮影年(西暦)
2561 布施田(海女)E-5-11 スライド枠には「1.8.21 野呂純子 布施田」と記される。海女の操業風景である。漁を終えたのか、波打ち際に赤い小旗を立てたタンポ(布施田地区ではウキワとも呼ぶ)と胸元まで浸かった海女の姿が見える。 志摩市志摩町布施田 1989.08.21
2562 布施田(海女)E-5-12 スライド枠には「1.8.21 野呂純子 布施田」と記される。漁を終え、スカリを取付けたタンポ(布施田地区ではウキワとも呼ぶ)や足ヒレを手に、海女小屋へと向かう海女。沖にはノリアイの海女船も見て取れる。 志摩市志摩町布施田 1989.08.21
2563 布施田(海女)E-5-13 スライド枠には「1.8.21 野呂純子 布施田」と記される。漁を終え、スカリを付けたタンポ(布施田地区ではウキワとも呼ぶ)を肩に、足ヒレを手にした海女達が海女小屋へと向かう。顔の磯メガネはまだ付けたままである。沖には、磯グルマを取付けた舟人の海女船も見て取れる。 志摩市志摩町布施田 1989.08.21
2564 布施田(海女)E-5-14 スライド枠には「1.8.21 野呂純子 布施田」と記される。漁を終え、スカリを付けたタンポ(布施田地区ではウキワとも呼ぶ)を肩に、足ヒレを手にした海女達が海女小屋へと向かう。顔の磯メガネはまだ付けたままである。 志摩市志摩町布施田 1989.08.21
2565 布施田(海女)E-5-15 スライド枠には「1.8.21 野呂純子 布施田」と記される。漁を終え、スカリを付けたタンポ(布施田地区ではウキワとも呼ぶ)を肩に、足ヒレを手にした海女達が海女小屋へと向かう。顔の磯メガネはまだ付けたままである。 志摩市志摩町布施田 1989.08.21
2566 布施田(海女)E-5-16 スライド枠には「1.8.21 野呂純子 布施田」と記される。漁を終え、海女小屋に着いた海女。黒のウエットスーツの上から白の磯着を身に付けている。右肩にはスカリを付けたタンポ(布施田地区ではウキワとも呼ぶ)を、右手には足ヒレや磯メガネが持たれている。日除けのブルーシートの下に敷かれた茣蓙の上にはフゴやビニール製のカゴ等が置かれている。 志摩市志摩町布施田 1989.08.21
2567 布施田(海女)E-5-17 漁を終え、海女小屋へと向かう海女が、堤防の階段を上って行く。白い磯手拭を被り黒のウエットスーツの上から白の磯着を身に付けている。右肩にはスカリを取付けたタンポ(布施田地区ではウキワとも呼ぶ)を、左手には足ヒレが持たれている。磯メガネはまだ顔に付けたままである。 志摩市志摩町布施田 1989.08.21
2568 布施田(海女)E-5-18 スライド枠には「1.8.21 野呂純子 布施田」と記される。漁を終え、海女小屋に戻った海女。これから着替えて、暖を取り一休みするのであろう。海女は白い磯手拭を被り黒のウエットスーツの上から白の磯着を身に付けている。右肩にはスカリを付けたタンポ(布施田地区ではウキワとも呼ぶ)を掛けている。傍らには、潜水に用いる黄色の足ヒレが置かれている。 志摩市志摩町布施田 1989.08.21
2569 布施田(海女)E-5-19 スライド枠には「1.8.21 野呂純子 布施田」と記される。海女が使用する大小のカギノミと、ノリアイの海女や徒人の海女が使用する、発泡スチロール製の浮き輪にスカリを取付けたタンポ(布施田地区でウキワとも呼ぶ)である。ウキワには海女の腰に結ぶ綱が取り付けられていて、海面に上がった海女は綱をたぐり寄せ、取ってきた海産物をスカリに入れる。また、ウキワに掴まって息を整えながら、海底の磯場を覗き込み、次の潜水場所へと移動するのにも利用する。カギノミは、ステンレス製と鉄製の様である。 志摩市志摩町布施田 1989.08.21
2570 布施田(海女)E-5-20 スライド枠には「1.8.21 野呂純子 布施田」と記される。出荷の準備だろうか。取ってきたアワビやサザエをスカリに移す海女。その傍らで、興味深そうに二人の少女が覗き込んでいる。何気ない会話の中で、子供達は海で採れる海産物や海女に対する知識を自然と身に付けていくものと思われる。 志摩市志摩町布施田 1989.08.21
2571 志島の石経おらし1-1 このスライドの前のスライド枠には「志島の石経おらし 96.3.18」と記される。また、スライドファイルのポケットには「志島の石経/1996年3月18日 午後3時30分~4時/調査員平賀大藏」と記された調査記録が添えられている。写真は海藻が寄りついた志島の砂浜風景である。海の荒れた日や台風の翌日などは、海底の岩礁から剥がれた海藻類が打ち寄せられる。化学肥料が簡単に手に入らない時代は、これらの海藻類も貴重な田畑の肥料として利用された。 志摩市阿児町志島 1996.03.18
2572 志島の石経おらし1-2 海藻を拾い集める婦人。胴長靴を身に付け流れ寄った海藻を拾い集める。写真手前の女性が集めているのは天草又はホンダワラ、波打際の女性が集めているのは若布の様に見える。天草は石花菜とも書かれ、心太(トコロテン)や寒天の材料として利用される。 志摩市阿児町志島 1996.03.18
2573 志島の石経おらし1-3 モカケと呼ばれる藻採具である。海岸の波打ち際に打ち寄せる海藻類を拾う道具で、竹の先に松の木の枝を括り付けて作られている。 志摩市阿児町志島 1996.03.18
2574 志島の石経おらし1-4 般若心経が墨書された石経。「石経おらし」は志島の海女が、魚貝藻類の霊を供養し海の安全を祈願する行事である。海女達は朝から松尾町の青峯山正福寺に集まってゴマ祈祷を受けた後、地元住職が般若心経を墨書した262個の石と海女達が使う命綱や磯手拭いを志島の浜に設えた祭壇に置き、読経の中、香をあげ海に向かって手を合わせて操業の安全と豊漁を祈願する。読経が終わると、海女達は石経の石を一個ずつ手に持って海に投げ入れ、残った石経は漁船に積み込み志島の海岸に撒いていく。かつては旧暦2月18日の行事であったと言う。参考文献:平賀大藏調査「志島の石経」 志摩市阿児町志島 1996.03.18
2575 志島の石経おらし1-5 スライド枠には「志島の石経」と記される。浜辺に設えた祭壇の上には、海女達が使う命綱や磯手拭いが並べられ、その上に石経が一個ずつ置かれる。 志摩市阿児町志島 1996.03.18
2576 志島の石経おらし1-6 石経おらしの準備をする。地元住職の支持で浜に机を運び出した海女達は、命綱や磯手拭いを並べ、その上に石経を一個づつ置いていく。 志摩市阿児町志島 1996.03.18
2577 志島の石経おらし1-7 海に向かって作られた祭壇である。住職が墨書した262個の石経は、青いプラスチック製のケースに入れられて祭壇前に置かれ、机中央には香炉、その左右には石経が載せられたメガネ箱、命綱、磯手拭等が置かれている。また、祭壇手前下には線香立が置かれている。 志摩市阿児町志島 1996.03.18
2578 志島の石経おらし1-8 海に向かって作られた祭壇である。住職が墨書した262個の石経は、青いプラスチック製のケースに入れられて祭壇前に置かれ、机中央には香炉、その左右には石経が載せられたメガネ箱、命綱、磯手拭等が置かれている。 志摩市阿児町志島 1996.03.18
2579 志島の石経おらし1-9 スライド枠には「志島石経沈め」と記される。準備が整うと住職が祭壇の中央に立ち、海に向かって読経を始める。組合長以下漁協関係者は住職の右後ろに、海女達は左後ろに座り読経を見守る。 志摩市阿児町志島 1996.03.18
2580 志島の石経おらし1-10 準備が整うと住職が祭壇の中央に立ち、海に向かって読経を始める。組合長以下漁協関係者は住職の右後ろに、海女達は左後ろに座り読経を見守る。 志摩市阿児町志島 1996.03.18
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