三重大学海女研究センター

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アーカイブ資料/画像資料アーカイブ

画像資料アーカイブPhotograph

海女研究センターが「アーカイブ・データベース事業」で構築してきた文献・画像のデータベースから詳細検索ができます。こちらでは鳥羽市立海の博物館が所蔵する海女や漁村に関する画像について、名称や撮影場所、撮影年、写されている内容を閲覧できます。

418 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-3
©鳥羽市立海の博物館

5799 志島の海女船4-1-3
©鳥羽市立海の博物館

5434 波切わらじ祭1-4
©鳥羽市立海の博物館

967 菅島(しろんご祭)3-6-3
©鳥羽市立海の博物館

418 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-3
©鳥羽市立海の博物館

5799 志島の海女船4-1-3
©鳥羽市立海の博物館

A16390(波切 わらじ)
©鳥羽市立海の博物館

967 菅島(しろんご祭)3-6-3
©鳥羽市立海の博物館

No. 資料の名称(画像タイトル) 内容(キャプション) 撮影場所 撮影年(西暦)
2701 国崎町(海女)3-3-4 鳥羽市国崎町の鎧崎である。漁を終え船の引揚げも終えたのであろう。磯手拭を被り、黒のウエットスーツを身に着け、まだ着替えをしていない海女達が、採取物をイソカゴ(イカシカゴとも言う)に入れて、堤防から吊し畜養する。大半は子供や孫など身内のための食材として、自家消費される物が多いと言う。 鳥羽市国崎町 1972.夏
2702 国崎町(海女)3-3-5 鳥羽市国崎町の鎧崎である。漁を終え船の引揚げも終えたのであろう。磯手拭を被り、黒のウエットスーツを身に着け、まだ着替えをしていない海女達が、採取物をイソカゴ(イカシカゴとも言う)に入れて、堤防から吊し畜養する。大半は子供や孫など身内のための食材として、自家消費される物が多いと言う。 鳥羽市国崎町 1972.夏
2703 国崎町(海女)3-3-6 鳥羽市国崎町の鎧崎である。漁を終え船の引揚げも終えたのであろう。磯手拭を被り、黒のウエットスーツを身に着け、まだ着替えをしていない海女達が、採取物をイソカゴ(イカシカゴとも言う)に入れて、堤防から吊し畜養する。大半は子供や孫など身内のための食材として、自家消費される物が多いと言う。 鳥羽市国崎町 1972.夏
2704 国崎町(海女)4-1-1 鳥羽市国崎町の鎧崎である。漁を終え船の引揚げも終えたのであろう。磯手拭を被り、黒のウエットスーツを身に着け、まだ着替えをしていない海女達が、採取物をイソカゴ(イカシカゴとも言う)に入れて、堤防から吊し畜養する。大半は子供や孫など身内のための食材として、自家消費される物が多いと言う。 鳥羽市国崎町 1972.夏
2705 国崎町(海女)4-1-2 鳥羽市国崎町の鎧崎である。漁を終え船の引揚げも終えたのであろう。磯手拭を被り、黒のウエットスーツを身に着け、まだ着替えをしていない海女達が、採取物をイソカゴ(イカシカゴとも言う)に入れて、堤防から吊し畜養する。大半は子供や孫など身内のための食材として、自家消費される物が多いと言う。 鳥羽市国崎町 1972.夏
2706 国崎町(海女)4-1-3 鳥羽市国崎町の鎧崎である。漁を終え船の引揚げも終えたのであろう。磯手拭を被り、黒のウエットスーツを身に着け、まだ着替えをしていない海女達が、採取物をイソカゴ(イカシカゴとも言う)に入れて、堤防から吊し畜養する。大半は子供や孫など身内のための食材として、自家消費される物が多いと言う。網袋に入れられているのは、今では見ることも少なくなったという、大量のイノカイである。 鳥羽市国崎町 1972.夏
2707 国崎町(海女)4-1-4 鳥羽市国崎町の鎧崎である。漁を終え船の引揚げも終えたのであろう。磯手拭を被り、黒のウエットスーツを身に着け、まだ着替えをしていない海女達が、採取物をイソカゴ(イカシカゴとも言う)に入れて、堤防から吊し畜養する。大半は子供や孫など身内のための食材として、自家消費される物が多いと言う。網袋に入れられているのは、今では見ることも少なくなったという、大量のイノカイである。 鳥羽市国崎町 1972.夏
2708 国崎町(海女)4-1-5 鳥羽市国崎町の鎧崎である。漁を終え船の引揚げも終えたのであろう。磯手拭を被り、黒のウエットスーツを身に着け、まだ着替えをしていない海女達が、採取物をイソカゴ(イカシカゴとも言う)に入れて、堤防から吊し畜養する。大半は子供や孫など身内のための食材として、自家消費される物が多いと言う。網袋に入れられているのは、今では見ることも少なくなったという、大量のイノカイである。 鳥羽市国崎町 1972.夏
2709 国崎町(海女)4-1-6 鳥羽市国崎町の鎧崎である。漁を終え船の引揚げも終えたのであろう。磯手拭を被り、黒のウエットスーツを身に着け、まだ着替えをしていない海女達が、採取物をイソカゴ(イカシカゴとも言う)に入れて、堤防から吊し畜養する。大半は子供や孫など身内のための食材として、自家消費される事が多いと言う。 鳥羽市国崎町 1972.夏
2710 国崎町(海女)4-2-1 鳥羽市国崎町の鎧崎である。漁を終え船の引揚げも終えたのであろう。磯手拭を被り、黒のウエットスーツを身に着け、まだ着替えをしていない海女達が、採取物をイソカゴ(イカシカゴとも言う)に入れて、堤防から吊し畜養する。大半は子供や孫など身内のための食材として、自家消費される物が多いと言う。豊かな海である。堤防下の海面には、アラメかカジメらしき海藻が多数顔を出している。 鳥羽市国崎町 1972.夏
2711 国崎町(海女)4-2-2 鳥羽市国崎町の鎧崎である。漁を終え船の引揚げも終えたのであろう。磯手拭を被り、黒のウエットスーツを身に着け、まだ着替えをしていない海女達が、採取物をイソカゴ(イカシカゴとも言う)に入れて、堤防から吊し畜養する。大半は子供や孫など身内のための食材として、自家消費される物が多いと言う。豊かな海である。堤防下の海面には、アラメかカジメらしき海藻が多数顔を出している。 鳥羽市国崎町 1972.夏
2712 国崎町(海女)4-2-3 鳥羽市国崎町の鎧崎である。漁を終え船の引揚げも終えたのであろう。磯手拭を被り、黒のウエットスーツを身に着け、まだ着替えをしていない海女達が、採取物をイソカゴ(イカシカゴとも言う)に入れて、堤防から吊し畜養する。大半は子供や孫など身内のための食材として、自家消費される物が多いと言う。豊かな海である。堤防下の海面には、アラメかカジメらしき海藻が多数顔を出している。 鳥羽市国崎町 1972.夏
2713 国崎町(海女)4-2-4 国崎町の街並み景観である。国崎町はかつて大津波で集落が流されたため、漁港である大津浜から鎧崎の前の浜に至る小高い丘の上に現在(2023年)の集落が築かれたと言われる。斜面を敷地として活用するため、集落の随所にこのような石積みが見られる。石積みの隙間に棒を刺して物干し竿を掛け、洗濯物が干されている。路上では漁師だろうか、二人の男性が談笑する。 鳥羽市国崎町 1972.夏
2714 国崎町(海女)4-2-5 国崎町の街並み景観である。国崎町はかつて大津波で集落が流されたため、漁港である大津浜から鎧崎の前の浜に至る小高い丘の上に現在(2023年)の集落が築かれたと言われる。斜面を敷地として活用するため、集落の随所にこのような石積みが見られる。狭い敷地を補うためか石積みの隙間に棒を刺して物干し竿を掛け、洗濯物が干されている。路上では漁師だろうか、二人の男性が談笑する。 鳥羽市国崎町 1972.夏
2715 国崎町(海女)4-2-6 国崎町の街並み景観である。国崎町はかつて大津波で集落が流されたため、漁港である大津浜から鎧崎の前の浜に至る小高い丘の上に現在(2023年)の集落が築かれたと言われる。斜面を敷地として活用するため、集落の随所にこのような石積みが見られる。狭い敷地を補うためか石積みの隙間に棒を刺して物干し竿を掛け、洗濯物が干されている。路上では漁師だろうか、二人の男性が談笑する。 鳥羽市国崎町 1972.夏
2716 国崎町(海女)4-3-1 石積みの前で談笑する男性たち。国崎町はかつて大津波で集落が流されたため、漁港である大津浜から鎧崎の前の浜に至る小高い丘の上に現在(2023年)の集落が築かれたと言われる。斜面を敷地として活用するため、石積みがみられたが、現在ではわずかばかり。石積みは住民が作ったり、志摩市大王町波切から職人を呼んだりしていた。限られたスペースを有効活用するためか、石積みの隙間に刺した棒に物干し竿がかけられ、洗濯物が干されている。(「海辺の毎日 国崎の暮らし写真展」報告書より) 鳥羽市国崎町 1972.夏
2717 国崎町(海女)4-3-2 国崎町の街並み景観である。国崎町はかつて大津波で集落が流されたため、漁港である大津浜から鎧崎の前の浜に至る小高い丘の上に現在(2023年)の集落が築かれたと言われる。斜面を敷地として活用するため、集落の随所にこのような石積みが見られる。狭い敷地を補うためか石積みの隙間に棒を刺して物干し竿を掛け、洗濯物が干されている。路上では漁師だろうか、二人の男性が談笑する。その左端には、見事な小麦色に日焼けした少年が顔を見せる。 鳥羽市国崎町 1972.夏
2718 国崎町(海女)4-3-3 国崎町の街並み景観である。国崎町はかつて大津波で集落が流されたため、漁港である大津浜から鎧崎の前の浜に至る小高い丘の上に現在(2023年)の集落が築かれたと言われる。斜面を敷地として活用するため、集落の随所にこのような石積みが見られる。狭い敷地を補うためか石積みの隙間に棒を刺して物干し竿を掛け、洗濯物が干されている。路上では漁師だろうか、二人の男性が談笑する。 鳥羽市国崎町 1972.夏
2719 国崎町(海女)4-3-4 国崎町の街並み景観である。国崎町はかつて大津波で集落が流されたため、漁港である大津浜から鎧崎の前の浜に至る小高い丘の上に現在(2023年)の集落が築かれたと言われる。斜面を敷地として活用するため、集落の随所にこのような石積みが見られる。狭い敷地を補うためか石積みの隙間に棒を刺して物干し竿を掛け、洗濯物が干されている。路上では漁師だろうか、二人の男性が談笑する。写真左横の看板は民宿か食堂か不明であるが、イセエビの図案と「■理/■■園」の文字が見て取れる。 鳥羽市国崎町 1972.夏
2720 国崎町(海女)5-1-1 鳥羽市国崎町鎧崎の船揚場である。波打際の少し上に引揚げられた漁船の上では二人の漁師が刺網の準備を進める。その船の前をイナイボウ(担い棒)を肩にした婦人が通る。 鳥羽市国崎町 1972.夏
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