三重大学海女研究センター

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アーカイブ資料/画像資料アーカイブ

画像資料アーカイブPhotograph

海女研究センターが「アーカイブ・データベース事業」で構築してきた文献・画像のデータベースから詳細検索ができます。こちらでは鳥羽市立海の博物館が所蔵する海女や漁村に関する画像について、名称や撮影場所、撮影年、写されている内容を閲覧できます。地域の方、学生の方、研究者の方、メディアの方々で、画像にご関心がある場合は「資料の問い合わせについて」もあわせてご覧ください。

418 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-3
©鳥羽市立海の博物館

5799 志島の海女船4-1-3
©鳥羽市立海の博物館

5434 波切わらじ祭1-4
©鳥羽市立海の博物館

967 菅島(しろんご祭)3-6-3
©鳥羽市立海の博物館

418 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-3
©鳥羽市立海の博物館

5799 志島の海女船4-1-3
©鳥羽市立海の博物館

A16390(波切 わらじ)
©鳥羽市立海の博物館

967 菅島(しろんご祭)3-6-3
©鳥羽市立海の博物館

No. 資料の名称(画像タイトル) 内容(キャプション) 撮影場所 撮影年(西暦)
7561 越賀の大念仏1-2 前浜に祭壇を設け、総牌(一年間で死亡した檀徒の名前)を祀り、三か寺の僧侶が読経のあと、中学生6人による、鉦、太鼓、笛の音とともに地謡(じぶた)百万が唱えられる。その間に名乗り手が新亡者の名を読み上げる。写真は、浜に集まった新亡者の家族。スライド枠には「3.8.13 越賀」の印が捺される。/参考:『志摩町史 改訂版』平成16年9月発行 志摩市志摩町越賀 1991.8.13
7562 越賀の大念仏1-3 夜になり、村の人びとも祭壇の総牌に線香を上げる。スライド枠には「越賀 62.8.13」の印が捺される。 志摩市志摩町越賀 1987.8.13
7563 越賀の大念仏1-4 夜になり、村の人びとも祭壇の総牌に線香を上げる。スライド枠には「越賀 62.8.13」の印が捺される。 志摩市志摩町越賀 1987.8.13
7564 越賀の大念仏1-5 前浜に設けられた祭壇。スライド枠には「越賀 62.8.13」の印が捺される。 志摩市志摩町越賀 1987.8.13
7565 越賀の大念仏1-6 前浜で行われる、盆踊り。輪になって踊っているのは、新亡者の家族だろうか、全員礼服を着ている。スライド枠には「越賀 62.8.13」の印が捺される。 志摩市志摩町越賀 1987.8.13
7566 越賀の大念仏1-7 輪の外で踊りを見ている人びと。スライド枠には「越賀 62.8.13」の印が捺される。 志摩市志摩町越賀 1987.8.13
7567 越賀の大念仏1-8 前浜で行われる、盆踊り。輪になって踊っているのは、新亡者の家族だろうか、全員礼服を着ている。スライド枠には「越賀 62.8.13」の印が捺される。 志摩市志摩町越賀 1987.8.13
7568 越賀の大念仏1-9 前浜で行われる、盆踊り。輪になって踊っているのは、新亡者の家族だろうか、全員礼服を着ている。スライド枠には「越賀 62.8.13」の印が捺される。 志摩市志摩町越賀 1987.8.13
7569 波切の墓地2-1 波切墓地の全景。昔は二墓制で、遺体を埋めるのは大西と小西、参り墓は、西ノ岡(堂の山)であった。死後7日以後は、参り墓で法事をした。昭和11年1月24日付で波切字須賀地内に移転の許可を受け、昭和12年4月15日墓地新設工事完成、同年7月12日移転式が挙行された。さらに、昭和37年に西側部分、昭和53年に南側部分を一部拡張補修し、現在(2023年)に至っている。スライド枠には「波切 61.8.14」の印が捺される。参考:『私の大慈寺史』秀森潤子著(平成19年8月発行)/『大王町史』(平成6年8月発行)/(以下キャプションは同文献に拠る) 志摩市大王町波切 1986.8.14
7570 波切の墓地2-2 波切墓地の全景。スライド枠には「波切 61.8.14」の印が捺される。 志摩市大王町波切 1986.8.14
7571 波切の大念仏2-3 大念仏は、三カ寺(大慈寺・仙遊寺・桂昌寺)の檀家の新亡者の精霊を迎え、合同で念仏を唱え供養する行事である。孟宗竹に吊るされた招き提灯。提灯は一年間に亡くなった人の数だけ吊るす。会場入口の左右に立てる。この頃は、墓地の弔い場で行われていた。スライド枠には「波切 61.8.14」の印が捺される。 志摩市大王町波切 1986.8.14
7572 波切の大念仏2-4 傘ぶくを持つ新亡者の家族。波切で亡くなり、葬式をした人が一人に一本の傘ぶくを出す。傘ぶくは、番傘の周りに一巾の布を巻き、中に遺品を吊るしたものである。布には、新亡者の戒名、俗名、亡くなった年齢、屋号を記す。男性は、印鑑、角帯、小刀、数珠、煙草入れ、しきみ、毛抜き、爪切り、玉結び腰ひも、小提灯、扇子、茄子、ささげを、女性は鏡、くし、かんざし、玉結びひも、数珠、毛抜き、小提灯、遺髪、ハサミ、すず袋、茄子、ささげ等を傘の中に吊るす。スライド枠には「波切 61.8.14」の印が捺される。 志摩市大王町波切 1986.8.14
7573 波切の大念仏2-5 大念仏の会場に祭壇を設け、祭壇には総牌(一年間で死亡した檀徒の名前)、遺影、霊供膳(新亡者の数だけ用意する)、香炉、高杯盛物、素麺、生花等を祀る。総牌の前の遺影は、元屋(もとや)と呼ばれるその年に亡くなった男性の年長者の家である。元屋には総牌をまつり、七日盆から二十日盆までその年に亡くなった全員の霊供膳(レイクゼン)を造り、供えなければならなかった。そのためオンナシ(女性)がたくさんいて、経済力のある家が務めることが多かったという。大念仏の日に総牌を広場の小屋に移す。(元屋制度は、平成4年に廃止された。)三カ寺(大慈寺・仙遊寺・桂昌寺)の詠歌衆が鈴を持ち、両側に向かい合って座る。その背後に座っているのは、「警護」と呼ばれる新亡者の家族である。スライド枠には「波切 61.8.14」の印が捺される。 志摩市大王町波切 1986.8.14
7574 波切の大念仏2-6 大念仏の会場に祭壇を設け、祭壇には総牌(一年間に死亡した檀徒の名前)、遺影、霊供膳(新亡者の数だけ用意する)、香炉、高杯盛物、素麺、生花等を祀る。三カ寺(大慈寺・仙遊寺・桂昌寺)の詠歌衆が鈴を持ち、両側に向かい合って座る。その背後に座っているのは、「警護」と呼ばれる新亡者の家族である。スライド枠には「波切 61.8.14」の印が捺される。 志摩市大王町波切 1986.8.14
7575 波切の墓地2-7 波切墓地の全景。スライド枠には「波切 61.8.14」の印が捺される。 志摩市大王町波切 1986.8.14
7576 波切の墓地2-8 波切墓地の全景。スライド枠には「波切 61.8.14」の印が捺される。 志摩市大王町波切 1986.8.14
7577 波切の大念仏2-9 大念仏の会場に祭壇を設け、祭壇には総牌(一年間で死亡した檀徒の名前)、遺影、霊供膳(新亡者の数だけ用意する)、香炉、高杯盛物、素麺、生花等を祀る。三か寺(大慈寺・仙遊寺・桂昌寺)の詠歌衆が鈴を持ち、両側に向かい合って座る。その背後に座っているのは、「警護」と呼ばれる新亡者の家族である。スライド枠には「波切 61.8.14」の印が捺される。 志摩市大王町波切 1986.8.14
7578 波切の大念仏2-10 午後3時頃、カサブクを持って会場に集まった新亡者の家族。法名を書いた紙の幟幡を持った子ども達も従う。爺爺等(じじら)と呼ばれる年寄5人衆が鉦を打ち、念仏を唱えた。名呼びが新亡者の名を呼び、一霊ごとに打ち役が 66回楽(大太鼓)を打つ。楽に合わせてゆっくりと左回りに総碑屋形の周りを回り、紙でできた幟幡を持った男児が内側を回る。カサブクを持つのは男性。全ての名を呼び終わるまで長時間回るため、近親者だけでなく親族や知人も集まって順次交代していく。円の周囲で待機するのは彼らである。大念仏はかつて爺爺等が世話していたが、今は三カ寺が引き継いでいる。(「丘端の記憶 波切の暮らし写真展」報告書より)スライド枠には「波切 61.8.14」の印が捺される。 志摩市大王町波切 1986.8.14
7579 波切の大念仏2-11 午後3時ころ、傘ぶくを持って会場に集まった新亡者の家族。法名を書いた紙の幟幡を持った子どもたちも従う。「爺爺等(じじら)」と呼ばれる年寄5人衆が鉦を打ち、念仏を唱える。名呼びが新亡者の名を呼び、一霊ごとに打ち役が66回楽(大太鼓)を打つ。楽に合わせてゆっくりと左回りに総碑屋形の周りを回り、内側を幟幡を持った子どもが回る。スライド枠には「波切 61.8.14」の印が捺される。 志摩市大王町波切 1986.8.14
7580 波切の大念仏2-12 午後3時ころ、傘ぶくを持って会場に集まった新亡者の家族。法名を書いた紙の幟幡を持った子どもたちも従う。「爺爺等(じじら)」と呼ばれる年寄5人衆が鉦を打ち、念仏を唱える。名呼びが新亡者の名を呼び、一霊ごとに打ち役が66回楽(大太鼓)を打つ。楽に合わせてゆっくりと左回りに総碑屋形の周りを回り、内側を幟幡を持った子どもが回る。スライド枠には「波切 61.8.14」の印が捺される。 志摩市大王町波切 1986.8.14
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