三重大学海女研究センター

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アーカイブ資料/画像資料アーカイブ

画像資料アーカイブPhotograph

海女研究センターが「アーカイブ・データベース事業」で構築してきた文献・画像のデータベースから詳細検索ができます。こちらでは鳥羽市立海の博物館が所蔵する海女や漁村に関する画像について、名称や撮影場所、撮影年、写されている内容を閲覧できます。

418 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-3
©鳥羽市立海の博物館

5799 志島の海女船4-1-3
©鳥羽市立海の博物館

5434 波切わらじ祭1-4
©鳥羽市立海の博物館

967 菅島(しろんご祭)3-6-3
©鳥羽市立海の博物館

418 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-3
©鳥羽市立海の博物館

5799 志島の海女船4-1-3
©鳥羽市立海の博物館

A16390(波切 わらじ)
©鳥羽市立海の博物館

967 菅島(しろんご祭)3-6-3
©鳥羽市立海の博物館

No. 資料の名称(画像タイトル) 内容(キャプション) 撮影場所 撮影年(西暦)
1581 国崎(海女)10-4-4 国崎町舟人海女の船上風景である。命綱か分銅のロープを手繰る写真の船頭は世古昌生さんかと思われる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 鳥羽市国崎町 1972.07.31~1
1582 国崎(海女)10-4-5 国崎町舟人海女の船上風景である。命綱か分銅のロープを手繰る写真の船頭は世古昌生さんかと思われる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 鳥羽市国崎町 1972.07.31~1
1583 国崎(海女)10-4-6 国崎町舟人海女の船上風景である。黒のウエットスーツを着込み、白い磯手拭いを被る写真の海女は世古昌生夫妻の海女船かと思われる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 鳥羽市国崎町 1972.07.31~1
1584 国崎(海女)10-5-1 国崎町舟人海女の船上風景である。命綱か分銅のロープを手繰る写真の船頭は世古昌生さんかと思われる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 鳥羽市国崎町 1972.07.31~1
1585 国崎(海女)10-5-2 国崎町舟人海女の船上風景である。命綱か分銅のロープを手繰る写真の船頭は世古昌生さんかと思われる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 鳥羽市国崎町 1972.07.31~1
1586 国崎(海女)10-5-3 国崎町舟人海女の船上風景である。磯場に着き、操業開始の合図を待っているのであろう。写真右上山腹に白く写るのはパールロードである。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 鳥羽市国崎町 1972.07.31~1
1587 国崎(海女)10-5-4 国崎熨斗鰒づくり。白装束に身を包んだ老人が乾燥した熨斗アワビを束ねているが、「身取鰒」づくりかと思われる。「身取鰒」は片連10枚、双連20枚にした「大身取鰒」と、片連3枚と2枚、合わせて5枚を藁紐で綴って1連とした「小身取鰒」がある。参考文献:『国崎の熨斗鰒づくり調査報告書』国崎町内会 2011年発行 アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎/10.10」と記される。 鳥羽市国崎町 (1973.10.10)
1588 国崎(海女)10-5-5 国崎熨斗鰒づくり。白装束に身を包んだ老人が乾燥した熨斗アワビを束ねているが、「玉貫鰒」づくりかと思われる。「玉貫鰒」は乾燥させた鰒の小片を編んだ藁紐に片連12枚、双連24枚を梯子のように横に挟んで一連とした物である。参考文献:『国崎の熨斗鰒づくり調査報告書』国崎町内会 2011年発行 アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎/10.10」と記される。 鳥羽市国崎町 (1973.10.10)
1589 国崎(海女)10-6-1 男性のポートレート当時の国崎漁協専務かと思われる(要調査)。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 鳥羽市国崎町 1972.07.31~1
1590 国崎(海女)10-6-2 若い女性のポートレート(要調査)。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 鳥羽市国崎町 1972.07.31~1
1591 国崎(海女)10-6-3 鉢巻を締め、斧らしき物を手にする年配の男性が写る(要調査)。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 鳥羽市国崎町 1972.07.31~1
1592 国崎(海女)10-6-4 石鏡漁港の南側に位置する港内風景かと思われる。特に石鏡地区は外海に面し、風波の影響が大きいことから、漁港整備が完備されるまでは、このように漁を終えた漁船は全て陸へと引き揚げられた。写真右端の木柱には「釣船 新屋」の看板が見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 鳥羽市石鏡町 1972.07.31~1
1593 国崎(海女)10-6-5 女児2人、男児1人のポートレート(要調査)。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 鳥羽市国崎町 1972.07.31~1
1594 国崎(海女)10-6-6 男児のポートレート(要調査)。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 鳥羽市国崎町 1972.07.31~1
1595 国崎(海女)10-6-7 女児3人、男児1人のポートレート(要調査)。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 鳥羽市国崎町 1972.07.31~1
1596 国崎(海女)10-6-8 漁業協同組合の市場風景かと思われる。順番を待つ十数人の女性達は海女を生業とする人々かも知れない(要調査)。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 鳥羽市国崎町 1972.07.31~1
1597 国崎(海女)10-6-9 男性のポートレート。当時の国崎漁協組合長太田ヤスオさん。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31~1 AM 国崎」と記される。 鳥羽市国崎町 1972.07.31~1
1598 国崎11-1-1 通称「オオツハマ(大津浜)」と呼ばれる国崎漁港の景観である。国崎の海域は「伊勢の神前、国崎の鎧、波切大王なけりゃよい」とまで船乗り達に恐れられた海の難所である。昭和28年に漁港指定がされ、昭和38年度に整備計画漁港の指定を受けて第3、4次計画で防波堤・物揚場・船揚場等を造成。昭和48年度からは第5次整備計画の基で修築事業が進められた。係留船舶からは「■勝丸」、「寿洋丸/ME3-34425」等の船名が確認できる。(参考文献:『三重の漁港1971/1995』) アルバムのデータ記載欄には「48.10.10 国崎」と記される。 鳥羽市国崎町 1973.10.10
1599 国崎11-1-2 通称「オオツハマ(大津浜)」と呼ばれる国崎漁港の景観である。引き揚げられた漁船の側で子供達が遊ぶ。アルバムのデータ記載欄には「48.10.10 国崎」と記される。 鳥羽市国崎町 1973.10.10
1600 国崎11-1-3 通称「オオツハマ(大津浜)」と呼ばれる国崎漁港の景観である。丸太のコロを敷いて引き揚げられた漁船の側で、漁師が刺網(要調査)の破れを繕う。波打際では、これから漁に出るのか、小船が一艘その準備を進めている。アルバムのデータ記載欄には「48.10.10 国崎」と記される。 鳥羽市国崎町 1973.10.10
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