三重大学海女研究センター

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アーカイブ資料/画像資料アーカイブ

画像資料アーカイブPhotograph

海女研究センターが「アーカイブ・データベース事業」で構築してきた文献・画像のデータベースから詳細検索ができます。こちらでは鳥羽市立海の博物館が所蔵する海女や漁村に関する画像について、名称や撮影場所、撮影年、写されている内容を閲覧できます。

418 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-3
©鳥羽市立海の博物館

5799 志島の海女船4-1-3
©鳥羽市立海の博物館

5434 波切わらじ祭1-4
©鳥羽市立海の博物館

967 菅島(しろんご祭)3-6-3
©鳥羽市立海の博物館

418 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-3
©鳥羽市立海の博物館

5799 志島の海女船4-1-3
©鳥羽市立海の博物館

A16390(波切 わらじ)
©鳥羽市立海の博物館

967 菅島(しろんご祭)3-6-3
©鳥羽市立海の博物館

No. 資料の名称(画像タイトル) 内容(キャプション) 撮影場所 撮影年(西暦)
1741 石鏡かずきおり(潜き下り)5-5 頬被りをし、潜き下りに前浜に来た老海女。長年、海女を生業としてきたのであろう、顔は赤銅色に日焼けしているが、優しい眼差しを向ける。スライド枠には「2.2.16(石鏡潜き下り)」と記される。 鳥羽市石鏡町 1990.02.16
1742 石鏡かずきおり(潜き下り)5-6 頬被りをし、潜き下りに前浜に来た老海女。長年、海女を生業としてきたのであろう、顔は赤銅色に日焼けしているが、優しい眼差しを向ける。スライド枠には「2.2.16(石鏡潜き下り)」と記される。 鳥羽市石鏡町 1990.02.16
1743 石鏡かずきおり(潜き下り)5-7 頬被りをし、潜き下りに前浜に来た老海女。長年、海女を生業としてきたのであろう、顔は赤銅色に日焼けしているが、優しい眼差しを向ける。スライド枠には「2.2.16(石鏡潜き下り)」と記される。 鳥羽市石鏡町 1990.02.16
1744 石鏡かずきおり(潜き下り)5-8 潜き下りに前浜に来た老海女。スライド枠には「2.2.16(石鏡潜き下り)」と記される。 鳥羽市石鏡町 1990.02.16
1745 石鏡かずきおり(潜き下り)5-9 潜き下りに前浜に来た老海女達。今は埋め立てられ漁港用地となっているが、老海女達が目にする先は、彼女達が若かりし頃にはまだ砂浜で青い渚が広がっていたはずである。スライド枠には「2.2.16(石鏡潜き下り)」と記される。 鳥羽市石鏡町 1990.02.16
1746 石鏡かずきおり(潜き下り)5-10 潜き下りに前浜に来た老海女達。今は埋め立てられ漁港用地となっているが、老海女達が目にする先は、彼女達が若かりし頃にはまだ砂浜で青い渚が広がっていたはずである。スライド枠には「2.2.16 石鏡かずきおり(石鏡潜き下り)」と記される。 鳥羽市石鏡町 1990.02.16
1747 石鏡3-4-5 当時は家で葬式が執り行われていたので、葬儀関係者の食事や精進落し等の料理は親戚や隣近所の人々が作ったものである。写真のテントの下では、手拭いを被った女性たちが、煮崩れを防ぐための、竹を薄く剥ぎ組み合わせた笊状の道具を使って大鍋で煮物をしている。傍らには「ヤマ吉」の屋号が記された桶や、隣の建物には「名物荒磯料理/釣舟案内/浜乃家旅館」の看板が見られる。女性たちは朝の4~5時くらいから準備をし、賑やかな声が町内に響いたそうだ。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡/葬式共同調理場」と記される。 鳥羽市石鏡町 1977.7.1
1748 石鏡3-4-6 「水」は集落の生活に必要不可欠なものの一つであるが、急峻な背後地に家々が密集する石鏡では生活用水を川に依存することは難しい。そのため、幾つもの共同井戸が作られ、一年に一度は村人が協働で井戸の水替え等が行われてきた。当時は井戸に近い家しか風呂を設置できなかったので、風呂は屋外におかれ、「もらい湯」として近所の人も使っていた(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より)。奥山川の表流水を使って石鏡町に簡易水道が竣工したのは昭和38年。上水道が整備され、簡易水道が廃止されるのは昭和47年である。参考文献:『鳥羽市史 下巻』平成3年発行。アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡/共同井戸」と記される。 鳥羽市石鏡町 1977.7.1
1749 石鏡3-5-1 全国的には小正月の後に外されることが多いようであるが、鳥羽志摩地域地では一年中飾る所が多く、石鏡町ではその家に不幸事が起こるまで毎年新しい注連縄が重ねられていく。また、最近は、市販されている物を飾る家も多くなったが、ここでは今も家人が思いを込めて作った注連縄を見ることができ、木札の表には「七福即生 七難即滅 蘇民将来子孫門」、裏には「急々如律令」と「魔除印=ドーマン・セーマン」が記される。アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡/玄関〆縄」と記される。 鳥羽市石鏡町 1977.7.1
1750 石鏡3-5-2 現在(2023年)ではメモリアルホールの様な商業施設が多く利用されるが、それまで農山漁村では何処とも自宅で通夜が営まれ、翌日行列を組んで寺院へと向かい葬儀を行うのが通例であった。通夜の準備か出棺の用意か不明であるが、玄関口に置かれた生花からは「御供 福井賢■/田畑起■/鳥羽市老人クラブ連合会」等の名前が読み取れる。アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡/生花」と記される。 鳥羽市石鏡町 1977.7.1
1751 石鏡3-5-3 『鳥羽市史 下巻 民俗編』には、明治から昭和期に至る「鳥羽市の鍛冶屋一覧表」が記載されるが、これらの農具も本市域で作られてきた物だろうか(要調査)。アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡/クワ・農具」と記される。 鳥羽市石鏡町 1977.7.1
1752 石鏡3-5-4 臼には「挽き臼」と「搗き臼」があるが、写真は御影石製の搗き臼である。今はもう使われていない様であるが、かつては年の暮れになると、村のあちこちで餅米を蒸す湯気が上がり、餅を搗く杵の音が聞こえた物である。アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡/石ウス」と記される。 鳥羽市石鏡町 1977.7.1
1753 石鏡3-5-5 臼には「挽き臼」と「搗き臼」があるが、写真は御影石製の挽き臼であろう。我が国には奈良時代に伝わり、室町時代から江戸時代にかけて普及したとも言われるようであるが、かつてはアワやヒエ、コメやムギ等を粉にするために、多くの家に備えられていた生活必需品であった。アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡/ヒキウス」と記される。 鳥羽市石鏡町 1977.7.1
1754 石鏡3-5-6 海女が海底で獲った獲物を入れるための用具である。浮樽(磯樽)に取付けたり、腰スカリ等は体に括り付けたりして使用する。網漁で用いる網の糸で編まれている。 アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡/スカリ(漁具)」と記される。 鳥羽市石鏡町 1977.7.1
1755 石鏡3-6-1 自宅での葬儀風景である。玄関口に並ぶ生花からは「御供 海野 大西忠/大王町波切 旅館東洋一■・モヘジ■・大王荘」等の名前が見て取れる。アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡」と記される。 鳥羽市石鏡町 1977.7.1
1756 石鏡3-6-2 下から2/3程の所に穴が開けられ、ローブが括り付けられるように加工されているが、御影石製の物と思われる。アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡/おもり(漁具)」と記される。 鳥羽市石鏡町 1977.7.1
1757 石鏡3-6-3 御影石製の石柱であるが、何かの供養塔かと思われる(要調査)。アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡」と記される。 鳥羽市石鏡町 1977.7.1
1758 石鏡3-6-4 煮崩れや取り出すときに形が壊れないように、竹を薄く剥いで十字に組み合わせた笊状の道具にサンマを重ね合わせ、落し蓋をし、鉄製の簡易竈で大鍋を使って煮る。数十匹程が入っていそうである。アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡/葬式料理・サンマの煮つけ」と記される。 鳥羽市石鏡町 1977.7.1
1759 石鏡3-6-5 煮崩れや取り出すときに形が壊れないように、竹を薄く剥いで十字に組み合わせたザル状の道具にサンマを重ね合わせ、落し蓋をし、鉄製の簡易竈で大鍋を使って煮る。数十匹程が入っていそうである。 アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡」と記される。 鳥羽市石鏡町 1977.7.1
1760 石鏡3-6-6 盛り付けの煮崩れを防ぐために、炊き上がった煮付けのサンマは、しばらく冷まされる。サンマの下に敷かれているのは、焦げつきや取り出し時の型崩れを防止するのため竹を薄く剥いで十字に組み合わせた笊状の道具。他には豆の煮物やがんもどき、こんにゃくと豆腐の白和えもあったそう。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より)アルバムのデータ記載欄には「S52.7.1 石鏡」と記される。 鳥羽市石鏡町 1977.7.1
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