三重大学海女研究センター

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アーカイブ資料/画像資料アーカイブ

画像資料アーカイブPhotograph

海女研究センターが「アーカイブ・データベース事業」で構築してきた文献・画像のデータベースから詳細検索ができます。こちらでは鳥羽市立海の博物館が所蔵する海女や漁村に関する画像について、名称や撮影場所、撮影年、写されている内容を閲覧できます。

418 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-3
©鳥羽市立海の博物館

5799 志島の海女船4-1-3
©鳥羽市立海の博物館

5434 波切わらじ祭1-4
©鳥羽市立海の博物館

967 菅島(しろんご祭)3-6-3
©鳥羽市立海の博物館

418 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-3
©鳥羽市立海の博物館

5799 志島の海女船4-1-3
©鳥羽市立海の博物館

A16390(波切 わらじ)
©鳥羽市立海の博物館

967 菅島(しろんご祭)3-6-3
©鳥羽市立海の博物館

No. 資料の名称(画像タイトル) 内容(キャプション) 撮影場所 撮影年(西暦)
1981 神島 灯台・風俗A-9-7 スライド枠には「47.8.4」と記される。灯台の方向から集落へと帰る婦人達である。現在の神島灯台は無人島台であるが、この当時は灯台長を始め、何人かの職員が勤務していた。灯台の一段下がったところには官舎も建てられていた。 鳥羽市神島町 1972.08.04
1982 神島 灯台・風俗A-9-8 スライド枠には「47.8.4」と記される。昭和42年3月に一部改築がされた後の神島灯台である。明治42年に建設が始まり翌43年5月1日に点灯。当時の灯台光源は石油灯が主力であったが、この灯台は明治34年に点灯した青森県の尻屋崎灯台に次ぐ第2号として自家発電による画期的な電気灯であった。また、32ワットのタングステン・フィラメントの白熱電球を用いた我が国最初の灯台でもあった。 鳥羽市神島町 1972.08.04
1983 神島 灯台・風俗A-9-9 スライド枠には「47.8.4」と記される。昭和42年3月に一部改築がされた後の神島灯台である。明治42年に建設が始まり翌43年5月1日に点灯。当時の灯台光源は石油灯が主力であったが、この灯台は明治34年に点灯した青森県の尻屋崎灯台に次ぐ第2号として自家発電による画期的な電気灯であった。また、32ワットのタングステン・フィラメントの白熱電球を用いた我が国最初の灯台でもあった。 鳥羽市神島町 1972.08.04
1984 神島 灯台・風俗A-9-10 スライド枠には「47.8.4」と記される。昭和42年3月に一部改築がされた後の神島灯台の屋根上に取付けられた風向計である。明治42年に建設が始まり翌43年5月1日に点灯。当時の灯台光源は石油灯が主力であったが、この灯台は明治34年に点灯した青森県の尻屋崎灯台に次ぐ第2号として自家発電による画期的な電気灯であった。また、32ワットのタングステン・フィラメントの白熱電球を用いた我が国最初の灯台でもあった。 鳥羽市神島町 1972.08.04
1985 神島 灯台・風俗A-9-11 スライド枠には「47.8.4」と記される。昭和42年3月に一部改築がされた後の神島灯台である。明治42年に建設が始まり翌43年5月1日に点灯。当時の灯台光源は石油灯が主力であったが、この灯台は明治34年に点灯した青森県の尻屋崎灯台に次ぐ第2号として自家発電による画期的な電気灯であった。また、32ワットのタングステン・フィラメントの白熱電球を用いた我が国最初の灯台でもあった。写真、左の建物は旧神島無線方位信号所である。 鳥羽市神島町 1972.08.04
1986 神島 灯台・風俗A-9-12 スライド枠には「47.8.4」と記される。昭和42年3月に一部改築がされた後の神島灯台である。明治42年に建設が始まり翌43年5月1日に点灯。当時の灯台光源は石油灯が主力であったが、この灯台は明治34年に点灯した青森県の尻屋崎灯台に次ぐ第2号として自家発電による画期的な電気灯であった。また、32ワットのタングステン・フィラメントの白熱電球を用いた我が国最初の灯台でもあった。写真、左の建物は旧神島無線方位信号所である。 鳥羽市神島町 1972.08.04
1987 神島 灯台・風俗A-9-13 スライド枠には「47.8.4」と記される。集落を一望する高台に建てられていた旧神島小学校の跡地である。神島小学校は、明治9年に島内の廃寺を校舎として創設された。校舎は昭和45年に集落の南側・古里の浜近くに小・中を合わせた新校舎が完成し移転するが、跡地はバレーボールなど島民の憩いの場として利用されてきた。 鳥羽市神島町 1972.08.04
1988 神島 灯台・風俗A-9-14 スライド枠には「47.8.4」と記される。集落を一望する高台に建てられていた旧神島小学校の跡地である。神島小学校は、明治9年に島内の廃寺を校舎として創設された。校舎は昭和45年に集落の南側・古里の浜近くに小・中を合わせた新校舎が完成し移転するが、跡地はバレーボールなど島民の憩いの場として利用されてきた。 鳥羽市神島町 1972.08.04
1989 5神島 灯台・風俗A-9-15 スライド枠には「47.8.4」と記される。集落を一望する高台に建てられていた旧神島小学校の跡地である。神島小学校は、明治9年に島内の廃寺を校舎として創設された。校舎は昭和45年に集落の南側・古里の浜近くに小・中を合わせた新校舎が完成し移転するが、跡地はバレーボールなど島民の憩いの場として利用されてきた。 鳥羽市神島町 1972.08.04
1990 神島 灯台・風俗A-9-16 スライド枠には「47.8.4」と記される。集落を一望する高台に建てられていた旧神島小学校の跡地である。神島小学校は、明治9年に島内の廃寺を校舎として創設された。校舎は昭和45年に集落の南側・古里の浜近くに小・中を合わせた新校舎が完成し移転するが、跡地はバレーボールなど島民の憩いの場として利用されてきた。 鳥羽市神島町 1972.08.04
1991 神島 灯台・風俗A-9-17 スライド枠には「47.8.4」と記される。神島町の集落風景である。子供のパンツを着替えさせる婦人。市道とは言え、島民にとって路地は日常の生活空間の場である。消防車など用をなさない離島では、島民によって結成されている消防団だけで頼りである。それだけに島の人達は火の始末に厳しい。写真の路地の奥にも、軒先に「消化器」と書かれた箱が見て取れる。 鳥羽市神島町 1972.08.04
1992 神島A-10-1 このスライドの前にはめ込まれる紙製のタイトルスライドには「神島 A-10 47.8.4」と記される。神島町の集落風景である。灯明山を背に、その山肌に張り付くように形成される集落は、家々が軒を連ね、階段と路地とで構成される。海浜に近い一部を除いて多くの家の人々は、この階段の上り下りが日常の生活である。 鳥羽市神島町 1972.08.04
1993 神島A-10-2 神島町の集落風景である。灯明山を背に、その山肌に張り付くように形成される集落は、家々が軒を連ね、階段と路地とで構成される。海浜に近い一部を除いて多くの家の人々は、この階段の上り下りが日常の生活である。 鳥羽市神島町 1972.08.04
1994 神島A-10-3 神島町の集落風景である。神島の朝刊は、朝一番の市営定期船で運ばれる。家々に新聞が届くのは午前9時頃であろうか。配達をする女性は、毎日何百段という階段を上り下りする。 鳥羽市神島町 1972.08.04
1995 神島A-10-4 神島町の集落風景である。鳥羽~答志~神島の海底送水管が完成するのは昭和54年である。その水道が完備するまでは貴重な水を大切に使うため、洗濯は島のほぼ中央を流れる表流水を利用した。写真は映画「潮騒」にも出てくるが、島で唯一の洗濯場である。左の階段を新聞の束を小脇に抱えた女性が上っていく。 鳥羽市神島町 1972.08.04
1996 神島A-10-5 神島町の集落風景である。神島の朝刊は、朝一番の市営定期船で運ばれる。家々に新聞が届くのは午前9時頃であろうか。配達をする女性は、毎日何百段という階段を上り下りする。 鳥羽市神島町 1972.08.04
1997 神島A-10-6 神島町の集落風景である。神島の朝刊は、朝一番の市営定期船で運ばれる。家々に新聞が届くのは午前9時頃であろうか。配達をする女性は、毎日何百段という階段を上り下りする。 鳥羽市神島町 1972.08.04
1998 神島A-10-7 神島町の集落風景である。斜面に建てられた家には、台形の半地下のような空間が出来る。その空間を、漁具などの物置として利用している家が多く見られる。 鳥羽市神島町 1972.08.04
1999 神島A-10-8 神島町の集落風景である。鳥羽~答志~神島の海底送水管が完成するのは昭和54年である。その水道が完備するまでは貴重な水を大切に使うため、洗濯は島のほぼ中央を流れる表流水を利用した。写真は映画「潮騒」にも出てくるが、島で唯一の洗濯場である。子守や洗濯、家事の手伝い等、子供達も大切な労働力であった、 鳥羽市神島町 1972.08.04
2000 神島A-10-9 神島町の集落風景である。鳥羽~答志~神島の海底送水管が完成するのは昭和54年である。その水道が完備するまでは貴重な水を大切に使うため、洗濯は島のほぼ中央を流れる表流水を利用した。写真は映画「潮騒」にも出てくるが、島で唯一の洗濯場である。島での生活はまだ手洗いが中心なのであろう、足でもみ洗いする姿を良く見かけた。 鳥羽市神島町 1972.08.04
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