三重大学海女研究センター

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アーカイブ資料/画像資料アーカイブ

画像資料アーカイブPhotograph

海女研究センターが「アーカイブ・データベース事業」で構築してきた文献・画像のデータベースから詳細検索ができます。こちらでは鳥羽市立海の博物館が所蔵する海女や漁村に関する画像について、名称や撮影場所、撮影年、写されている内容を閲覧できます。

418 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-3
©鳥羽市立海の博物館

5799 志島の海女船4-1-3
©鳥羽市立海の博物館

5434 波切わらじ祭1-4
©鳥羽市立海の博物館

967 菅島(しろんご祭)3-6-3
©鳥羽市立海の博物館

418 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-3
©鳥羽市立海の博物館

5799 志島の海女船4-1-3
©鳥羽市立海の博物館

A16390(波切 わらじ)
©鳥羽市立海の博物館

967 菅島(しろんご祭)3-6-3
©鳥羽市立海の博物館

No. 資料の名称(画像タイトル) 内容(キャプション) 撮影場所 撮影年(西暦)
5521 波切わらじ祭9-5 当日漁師たちは波切漁港内に船を出し、木製のカツオをつけた釣り竿でカツオ一本釣りの所作を披露して祭を盛り上げる。旧波切市場は多くの見学者で賑わっている。スライド枠には「48.9.9」の印が捺されている。※スライドにはカビが付着している。 志摩市大王町波切 1973.9.9
5522 波切わらじ祭9-6 当日漁師たちはイベントとして波切漁港内に船を出し、木製のカツオをつけた釣り竿でカツオ一本釣りの所作を披露して祭を盛り上げる。旧波切市場は多くの見学者で賑わっている。写真の右端にあるのは三重漁連の製氷所。当時製氷所があったのは鳥羽と波切で、この近辺を通る船は波切に立ち寄る必要があったため、そういう理由もあり、波切の漁港は賑わっていた。木造の建物群にはカツオブシ屋や魚問屋などがあった。(「丘端の記憶 波切の暮らし写真展」報告書より)スライド枠には「48.9.9」の印が捺されている。※スライドにはカビが付着している。 志摩市大王町波切 1973.9.9
5523 波切わらじ祭9-7 当日漁師たちはイベントとして波切漁港内に船を出し、木製のカツオをつけた釣り竿でカツオ一本釣りの所作を披露して祭を盛り上げる。旧波切市場は多くの見学者で賑わっている。船には漁師以外も乗れた。写真正面に写る石積みからは、波切の石工の技術力の高さがわかる。石積みの穴は当時の生活排水の排水溝である。また、現在(2023年)は埋め立てられたために見ることはできないが、排水溝の近くには溜池があり、その石積みが波切で最も見事だった。(「丘端の記憶 波切の暮らし写真展」報告書より)スライド枠には「48.9.9」の印が捺されている。※スライドにはカビが付着している。 志摩市大王町波切 1973.9.9
5524 波切わらじ祭9-8 当日漁師たちは波切漁港内に船を出し、木製のカツオをつけた釣り竿でカツオ一本釣りの所作を披露して祭を盛り上げる。旧波切市場は多くの見学者で賑わっている。スライド枠には「48.9.9」の印が捺されている。※スライドにはカビが付着している。 志摩市大王町波切 1973.9.9
5525 波切わらじ祭9-9 松井兵太夫家当主を先頭に、わらじを担いで波切神社の石段を下りる4人の若者。その後ろに高齢女性7人や見学者が続く。石段には工事用の仮設レールが設置されている。スライド枠には「48.9.9」と記される。※スライドにはカビが付着し、変色している。 志摩市大王町波切 1973.9.9
5526 波切わらじ祭9-10 4人の若者に担がれるわらじを見ようと集まった多くの人びと。スライド枠には「48.9.9」の印が捺されている。 志摩市大王町波切 1973.9.9
5527 波切わらじ祭9-11 松井兵太夫家当主を先頭に、わらじを担いで須場の浜へ続く坂道を下りる4人の若者。その後ろに高齢女性7人や見学者が続く。スライド枠には「48.9.9」と記される。※スライドにはカビが付着し、変色している。 志摩市大王町波切 1973.9.9
5528 波切わらじ祭9-12 4人の若者がわらじを200m沖合まで泳いで大王島へ向けて流す。この頃沖には大王島方向への潮流があるといわれている。沖では、更に沖へと流しに行く船が待機しており、大王島の沖まで船で曳いて流してくる。スライド枠には「48.9.9」と記される。※スライドにはカビが付着し変色している。 志摩市大王町波切 1973.9.9
5529 波切わらじ祭9-13 4人の若者がわらじを200m沖合まで泳いで大王島へ向けて流す。この頃沖には大王島方向への潮流があるといわれている。沖では、更に沖へと流しに行く船が待機しており、大王島の沖まで船で曳いて流してくる。スライド枠には「48.9.9」と記される。※スライドにはカビが付着し変色している。 志摩市大王町波切 1973.9.9
5530 波切わらじ祭9-14 須場の浜で松井兵太夫家当主、5人の稚児役と介添え、三役、町の有志が並ぶ。高齢女性7人がわらじの周りに座り、祝い唄エレワカやサンヤレなどを唄う。その後わらじにナマス、洗米が供えられオミキが注がれる。多くの見学者がその様子を見守る。スライド枠には「祝い唄」と記される。 志摩市大王町波切 1973.9.9
5531 波切わらじ祭9-15 須場の浜で神事の準備をする男性。スライド枠には「48.9.9」と記される。※スライドにはカビが付着し変色している。 志摩市大王町波切 1973.9.9
5532 波切わらじ祭9-16 4人の若者がわらじを200m沖合まで泳いで大王島へ向けて流す。この頃沖には大王島方向への潮流があるといわれている。沖では、更に沖へと流しに行く船が待機しており、大王島の沖まで船で曳いて流してくる。スライド枠には「48.9.9」と記される。※スライドにはカビが付着し変色している。 志摩市大王町波切 1973.9.9
5533 波切わらじ祭9-17 4人の若者がわらじを200m沖合まで泳いで大王島へ向けて流す。この頃沖には大王島方向への潮流があるといわれている。沖では、更に沖へと流しに行く船が待機しており、大王島の沖まで船で曳いて流してくる。スライド枠には「48.9.9」と記される。※スライドにはカビが付着し変色している。 志摩市大王町波切 1973.9.9
5534 波切わらじ祭9-18 4人の若者がわらじを200m沖合まで泳いで大王島へ向けて流す。この頃沖には大王島方向への潮流があるといわれている。沖では、更に沖へと流しに行く船が待機しており、大王島の沖まで船で曳いて流してくる。 志摩市大王町波切 1973.9.9
5535 波切汗かき地蔵まつり10-1 現在(2023年)の堂宇は、嘉永2年(1849)10月の再建で、右に不動明王、左に乾漆製の曼胎万体地蔵を安置する。「吉事があると白い汗を、凶事には自ら大衆に代わって苦を受け、その汗は黒くなる。」と伝えられている。2月24日の縁日は、露店商人が参集して門前には市が立ち、町内のみならず近郊からの参詣者で終日賑わう。写真は地蔵さんにお参りする子どもたち。スライド枠には「波切あせかき」と記される 志摩市大王町波切 1973.2.24
5536 波切汗かき地蔵まつり10-2 参道の両側には多くの汗かき地蔵尊の幟幡が立てられる。スライド枠には「48.2.24」の印が捺されている。 志摩市大王町波切 1973.2.24
5537 波切汗かき地蔵まつり10-3 門前には露店商人が参集して市が立つ。定期バスのルートも変更され、終日多くの参詣人で賑わう。スライド枠には「48.2.24」の印が捺されている。 志摩市大王町波切 1973.2.24
5538 波切汗かき地蔵まつり10-4 汗かき地蔵は「吉事があると白い汗を、凶事には自ら大衆に代わって苦を受け、その汗は黒くなる」と伝えられている。2月24日の汗かき地蔵まつりでは、露店商人が参集して門前には市が立ち、町内のみならず近郊からの参詣者で終日賑わった。「24日の市」とも呼ばれた。写真は参詣人で賑わう境内。堂内では三カ寺(仙遊寺・大慈寺・桂昌寺)住職により海上安全、大漁満足、家内安全、家業繁盛などの祈祷会が行われる。祈祷では三カ寺の御詠歌衆も参加する。参詣人は御札を買うという。参詣人には和服姿の女性もいる。写真に写る女性の髪型は皆パーマである。写真右で子どもをおんぶする女性が着用しているのは「ロウショ」と呼ばれ、子どもと一緒に着るための綿入れ半纏の一種である。この日は学校が午後休みで露店は賑わった。付き合いのある家にアコヤ餅やウイロなどを配り、嫁はそれを実家の仏壇へ供える風習があった。(「丘端の記憶 波切の暮らし写真展」報告書より)スライド枠には「48.2.24」の印が捺されている。 志摩市大王町波切 1973.2.24
5539 波切汗かき地蔵まつり10-5 参詣人で賑わう境内。和服姿の女性も多い。堂内では三カ寺(仙遊寺・大慈寺・桂昌寺)住職により海上安全、大漁満足、家内安全、家業繁盛などの祈祷会が行われる。縁日の土産菓子は、アコヤ・ウイロなどで、嫁は実家の仏壇へ供える風習があった。スライド枠には「48.2.24」の印が捺されている。 志摩市大王町波切 1973.2.24
5540 波切の景観1-1-1 宝門(ほも)の浜沿いの道、外国人の女性が写る。奥には大王埼燈灯台が見える。 志摩市大王町波切 1985.8.3
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