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アーカイブ資料/画像資料アーカイブ
画像資料アーカイブPhotograph
海女研究センターが「アーカイブ・データベース事業」で構築してきた文献・画像のデータベースから詳細検索ができます。こちらでは鳥羽市立海の博物館が所蔵する海女や漁村に関する画像について、名称や撮影場所、撮影年、写されている内容を閲覧できます。地域の方、学生の方、研究者の方、メディアの方々で、画像にご関心がある場合は「資料の問い合わせについて」もあわせてご覧ください。
画像資料
検索方法について
No. | 資料の名称(画像タイトル) | 内容(キャプション) | 撮影場所 | 撮影年(西暦) |
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901 | 和具の海女5-2-3 | 志摩町和具の海岸風景。波間に岩礁が顔を出す。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
902 | 和具の海女5-2-4 | 志摩町和具の海岸風景。漁港の堤防に漁師が一人立つ。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
903 | 和具の海女5-2-5 | 志摩町和具の海岸、波打際の風景。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
904 | 和具の海女5-2-6 | 志摩町和具の海岸風景。砂浜に張られた簡易なテントの中で、漁師らしき男が一人、あぐらを組み海を見つめる。 | 志摩市志摩町和具 | 1974.09.20 |
905 | 和具の海女(複写写真)6-4-1 | アルバムのデータ記載欄には「91.3月複写。和具、河村まさの、三郎 舟人海女。S15~20頃の写真。和具沖にて」と記される。個人が所有する紙焼き写真を、博物館資料として複写した物である。 | 志摩市志摩町和具 | 1940~1945 |
906 | 石鏡の海女1-1-1 | イソマゲは海女が潜水する時の髪型で、頭髪を上に引きつめ小さく巻き結んだもの。イソグル、サンテマゲとも呼ばれたりする。石鏡の女性は髪を伸ばし、椿油でなでつけて結っていた。観音髷と呼ばれ、海中でもほどけない結い方だった。潜るのに邪魔なので、次第に髪を短くしてパーマをあてるようになったが、最後まで髪が長かったのがこの女性。写真は海女の後ろを写したもの。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) アルバムのデータ記載欄には「石鏡 48.7.11 イソマゲ」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
907 | 石鏡の海女1-1-2 | イソマゲは海女が潜水する時の髪型で、頭髪を上に引きつめ小さく巻き結んだもの。イソグル、サンテマゲとも呼ばれたりする。石鏡の女性は髪を伸ばし、椿油でなでつけて結っていた。観音髷と呼ばれ、海中でもほどけない結い方だった。潜るのに邪魔なので、次第に髪を短くしてパーマをあてるようになったが、最後まで髪が長かったのがこの女性。写真は海女の正面を写したもの。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) アルバムのデータ記載欄には「石鏡 48.7.11 イソマゲ」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
908 | 石鏡の海女1-1-3 | アルバムのデータ記載欄には「石鏡 ネガネカゴ」と記される。磯メガネの保管には一般的には木製の眼鏡箱が多く用いられていると思われるが、これは竹篭で木製の蓋が付けられている。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
909 | 石鏡の海女1-1-4 | アルバムのデータ記載欄には「石鏡 ネガネカゴ」と記される。鳥羽志摩地域の磯眼鏡の導入は明治22年頃(三重県答志郡漁業組合規約)とされる。ここ石鏡町には磯眼鏡の製作に携わる城山巳治男氏がおり、ゴム枠の両側に針金をあてがい、きつい労働で顔が痩せてもその針金で枠を補強し顔に合わせられるように工夫した「城山式メガネ」と呼ばれる物が広く普及したと言う。参考文献:『鳥羽市史 下巻』平成3年・鳥羽市発行 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
910 | 石鏡の海女1-1-5 | 海女漁で使われた漁具である。竹で編まれており、漁の間は船上に置いておく。磯眼鏡の導入は明治22年頃(三重県答志郡漁業組合規約)とされる。ここ石鏡町には磯眼鏡を製作する城山巳治男氏がおり、ゴム枠の両側に針金をあてがい、きつい労働で顔が痩せてもその針金で枠を補強し顔に合わせられるように工夫した「城山式メガネ」と呼ばれる物が広く普及したと言う。アルバムのデータ記載欄には「石鏡 ネガネカゴ」と記される。 参考文献:『鳥羽市史 下巻』平成3年・鳥羽市発行 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
911 | 石鏡の海女1-1-6 | 石鏡町の海女の出漁風景である。海女の用具を入れた磯篭や袋を肩に船揚場の斜路を歩く海女達が写される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
912 | 石鏡の海女1-2-1 | 石鏡町の海女の出漁風景である。ノリアイや舟人と思われる海女船が石鏡漁港を出港する。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
913 | 石鏡の海女1-2-2 | 石鏡町の海女の出漁風景である。一斉に船が出るところ。船の大群が走る姿を子どもながらに壮観だと思った、という語りがあった。写真左奥や、右奥の崖下に連なる小さな建物は海女小屋(かまど、あたり小屋とも呼ぶ)。写真中央右の帆のある船は、釣り漁や網漁、海女漁などに使ったとみられる。海女漁の際、手漕ぎが大変だったので風のある日は帆を張って進行を助けたという話があった。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
914 | 石鏡の海女1-2-3 | 写真は石鏡漁港を出港する海女船の景観である。海上安全と豊漁を願うのか、一人の海女が沖に向かって手を合わせる。アルバムのデータ記載欄には「出漁に拝む海女」と記される。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
915 | 石鏡の海女1-2-4 | 石鏡町の海女の出漁風景である。ノリアイや舟人と思われる海女船が石鏡漁港を出港する。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
916 | 石鏡の海女1-2-5 | 石鏡町の海女の出漁風景である。ノリアイや舟人と思われる海女船が石鏡漁港を出港する。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
917 | 石鏡の海女1-2-6 | 石鏡町の海女の出漁風景である。ノリアイの海女を乗せた海女船が港内で出港の準備を進める。 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
918 | 石鏡の海女1-3-1 | 石鏡町の海女の帰港風景である。午前の操業を終えたのであろう、石鏡漁港に帰港する海女船。平成22年の調査では、石鏡の夏の海女漁は午前午後各一潜、70分の操業と定められている。参考文献:『平成23・24年度調査 海女習俗基礎調査報告書』三重県教育委員会編・平成26年発行 | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
919 | 石鏡の海女1-3-2 | 鳥羽から磯部町的矢に至る海岸線に点在する集落は、何処も陸の孤島と呼ばれるほど交通の便が悪い。鳥羽~石鏡間の市営定期船が廃止されるのは、パールロードの陸路が整備される昭和50年に入ってからであった。写真は昭和48年7月の石鏡町の集落景観である。集落の前の湾は「前浜」と呼ばれるが、今は公有水面の埋め立てが行われて漁港が整備され、漁業組合が建ち周囲は荷上場となっている。ただ、今もこの堤防の一部は残され、集落と前浜の境には村の人達が「海の神様が祀られている」とか「村を守る神様が海に向かって立っている」と言う石柱が立てられており、海女の祭事「イソオリアワセ」や「カズキオリ」の祭には海女達が供え物を欠かさない。写真手前の崖と海にある道(海岸道路と呼ばれた)がとても狭く、よく波がかかるため、住民は波が引いたタイミングで一気に走り抜けた。写真中央手前の桟橋は巡航船が停泊する場所で、桟橋の左側にある小さな白いコンクリートの小屋が、巡航船の待合室である。写真中央の浜は今は埋め立てられているが、子どもが海水浴をし、禁漁区ではあるがおやつ用のアワビやサザエを獲ることがあった。ヒジキも群生し、豊かな浜だった。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |
920 | 石鏡の海女1-3-3 | 石鏡町の海女の帰港風景である。海女漁から帰還するところ。この写真では「子どもの頃、左の堤防から右の堤防まで泳いだ」という話で大いに盛り上がった。写真のように堤防の間を船が通り、白い波が立ったときに合わせて飛び込み、泳ぐのがスリリングで楽しかったが、よく船上の大人に「危ない!」と怒られた。「毎日が海水浴やった」と笑う声もあった。中学校入学までに堤防間を泳ぎきれないと一人前とみなされない、という子どものしきたりもあったようだ。灯台下の大きな船は大敷網の船である。写真中央にある小舟は、岸から船まで移動するのに用いた。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) | 鳥羽市石鏡町 | 1973.07.11 |