三重大学海女研究センター

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アーカイブ資料/画像資料アーカイブ

画像資料アーカイブPhotograph

海女研究センターが「アーカイブ・データベース事業」で構築してきた文献・画像のデータベースから詳細検索ができます。こちらでは鳥羽市立海の博物館が所蔵する海女や漁村に関する画像について、名称や撮影場所、撮影年、写されている内容を閲覧できます。

418 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-3
©鳥羽市立海の博物館

5799 志島の海女船4-1-3
©鳥羽市立海の博物館

5434 波切わらじ祭1-4
©鳥羽市立海の博物館

967 菅島(しろんご祭)3-6-3
©鳥羽市立海の博物館

418 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-3
©鳥羽市立海の博物館

5799 志島の海女船4-1-3
©鳥羽市立海の博物館

A16390(波切 わらじ)
©鳥羽市立海の博物館

967 菅島(しろんご祭)3-6-3
©鳥羽市立海の博物館

No. 資料の名称(画像タイトル) 内容(キャプション) 撮影場所 撮影年(西暦)
1801 石鏡(民具)5-2-6 出漁風景であるが詳細は不明(要調査)。アルバムのデータ記載欄には「S62.11.12(石鏡)」と記される。 鳥羽市石鏡町 1987.11.12
1802 石鏡(民具)5-3-1 防寒具として使用されるが、海女地区では夏冬問わず、海から上がって体を温めるために火に当たる時に着用したと言う。アルバムのデータ記載欄には「S63.1月(石鏡)/ヨッチ」と記される。 鳥羽市石鏡町 1988.1
1803 石鏡(民具)5-3-2 防寒具として使用されるが、海女地区では夏冬問わず、海から上がって体を温めるために火に当たる時に着用したと言う。アルバムのデータ記載欄には「S63.1月(石鏡)/ヨッチ」と記される。 鳥羽市石鏡町 1988.1
1804 石鏡(民具)5-3-3 背中に背負って物を運ぶ運搬用具である。乾燥アラメを運ぶ様子。後方の、藁がかかっているのがアラメ塚である。この海女さんは木製のショイコを使ってアラメを背負っているが、昔はよく頭に載せて物を運んだ。乾燥アラメを頭に載せることもあったという。現在(2023年)でも、浜などで拾った木や竹を海女が杖代わりにして歩く姿がみられる。(「浜の遠声 石鏡の暮らし写真展」報告書より) アルバムのデータ記載欄には「(S63.1月 石鏡)/ショイコ」と記される。 鳥羽市石鏡町 -1988.01
1805 石鏡(民具)5-3-4 全国的には小正月の後に外されることが多いようであるが、鳥羽志摩地域地では一年中飾る所が多く、石鏡町ではその家に不幸事が起こるまで毎年新しい注連縄が重ねられていく。また、最近は、市販されている物を飾る家も多くなったが、ここでは今も家人が思いを込めて作った注連縄を見ることができ、木札の表には「七福即生 七難即滅 蘇民将来子孫門」、裏には「急々如律令」と「魔除印=ドーマン・セーマン」が記される。表札からは「寺本重平」の名前が確認できる。アルバムのデータ記載欄には「(S63.1月 石鏡)/〆縄」と記される。 鳥羽市石鏡町 -1988.01
1806 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-4-1 海の博物館の旧館における民具の整理作業風景である。一点一点清掃、修復、計測、撮影が行われ目録が作製されていく。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 鳥羽市石鏡町 -1975.05
1807 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-4-2 志摩の突取り捕鯨の歴史は古く、本市域では相差、石鏡、国崎にその痕跡が残されている。ここ石鏡町には市の文化財に指定されている慶安二(1649)年の「鯨船他もやい申定之事」の文書が残され、また「延宝九(1681)年目録之控」(石鏡漁協文書)によれば石鏡村は4隻の鯨船を所持していたと記されるが、宝永四(1707)年の大津波で大被害を受け、国崎村は同六年に廃絶。石鏡村も鰹船に転化していったとされる。写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事であるが、土中から鯨の骨が発見された。参考文献:『鳥羽市史 下巻』平成3年発行。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 鳥羽市石鏡町 -1975.05
1808 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-4-3 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事であるが、土中から鯨の骨が発見された。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 鳥羽市石鏡町 -1975.05
1809 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-4-4 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事であるが、土中から鯨の骨が発見された。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 鳥羽市石鏡町 -1975.05
1810 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-4-5 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事であるが、土中から鯨の骨が発見された。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 鳥羽市石鏡町 -1975.05
1811 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-4-6 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事であるが、土中から鯨の骨が発見された。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 鳥羽市石鏡町 -1975.05
1812 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-5-1 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事であるが、土中から鯨の骨が発見された。写真上部には、石鏡の漁港と太平洋へと続く海域が見える。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 鳥羽市石鏡町 -1975.05
1813 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-5-2 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事であるが、土中から鯨の骨が発見された。写真上部には、石鏡の漁港と太平洋へと続く海域が見える。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 鳥羽市石鏡町 -1975.05
1814 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-5-3 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事であるが、土中から鯨の骨が発見された。写真上部には、石鏡の漁港と太平洋へと続く海域が見える。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 鳥羽市石鏡町 -1975.05
1815 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-5-4 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事であるが、土中から鯨の骨が発見された。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 鳥羽市石鏡町 -1975.05
1816 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-5-5 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事であるが、土中から鯨の骨が発見された。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 鳥羽市石鏡町 -1975.05
1817 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-5-6 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事であるが、土中から鯨の骨が発見された。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 鳥羽市石鏡町 -1975.05
1818 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-6-1 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事であるが、土中から鯨の骨が発見された。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 鳥羽市石鏡町 -1975.05
1819 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-6-2 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事中に土中から発見された鯨の骨。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 鳥羽市石鏡町 -1975.05
1820 石鏡木村弁助宅出土鯨骨5-6-3 写真は、昭和50年に工事が進められた石鏡町・木村弁助氏宅の基礎工事中に土中から発見された鯨の骨。アルバムのデータ記載欄には「S50.5月 石鏡/木村弁助宅出土鯨骨」と記される。 鳥羽市石鏡町 -1975.05
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