三重大学海女研究センター

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アーカイブ資料/画像資料アーカイブ

画像資料アーカイブPhotograph

海女研究センターが「アーカイブ・データベース事業」で構築してきた文献・画像のデータベースから詳細検索ができます。こちらでは鳥羽市立海の博物館が所蔵する海女や漁村に関する画像について、名称や撮影場所、撮影年、写されている内容を閲覧できます。

418 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-3
©鳥羽市立海の博物館

5799 志島の海女船4-1-3
©鳥羽市立海の博物館

5434 波切わらじ祭1-4
©鳥羽市立海の博物館

967 菅島(しろんご祭)3-6-3
©鳥羽市立海の博物館

418 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-3
©鳥羽市立海の博物館

5799 志島の海女船4-1-3
©鳥羽市立海の博物館

A16390(波切 わらじ)
©鳥羽市立海の博物館

967 菅島(しろんご祭)3-6-3
©鳥羽市立海の博物館

No. 資料の名称(画像タイトル) 内容(キャプション) 撮影場所 撮影年(西暦)
1901 (志摩町)和具の海女A-4-4 スライド枠には「47.8.28」と記される。和具漁港の堤防だろうか。乾燥されたと思われるアラメらしき海藻を、女性が丸太を担い棒代わりにして運ぶ。 志摩市志摩町和具 1973.08.28
1902 (志摩町)和具の海女A-4-5 スライド枠には「47.8.28」と記される。和具漁港の堤防だろうか。乾燥されたと思われるアラメらしき海藻を、女性が丸太を担い棒代わりにして運ぶ。 志摩市志摩町和具 1973.08.28
1903 (志摩町)和具の海女A-4-6 スライド枠には「47.8.28」と記される。和具漁港の堤防下の浜辺だろうか。乾燥されたと思われるアラメらしき海藻を女性がワラ縄で括り、積上げている。 志摩市志摩町和具 1973.08.28
1904 (志摩町)和具の海女A-4-7 スライド枠には「47.8.28」と記される。海女小屋の風景である。すでに漁を終え、暖も取り終えたのであろう、火床の火は消され金属製のタライが被されている。操業から戻ると、ウエットスーツや脚ヒレ、磯メガネ、ノミ、磯オケ、タンポ、スカリ等は水洗いされ、次の操業に備えて乾燥させる。 志摩市志摩町和具 1973.08.28
1905 (志摩町)和具の海女A-4-8 スライド枠には「47.8.28」と記される。海女小屋の風景である。すでに漁を終え、暖も取り終えたのであろう、火床の火は消され、後始末でもしているのか海女が一人しゃがみこむ。小屋の天井に作られた物干竿には、ウエットスーツや磯手拭い、スカリ等が干されている。 志摩市志摩町和具 1973.08.28
1906 (志摩町)和具の海女A-4-9 スライド枠には「47.8.28」と記される。海女小屋の風景である。一潜目を終えた後であろう、磯着に着替えた海女達が、丸太を立て白布などで日除けの天井を設えた簡易な小屋で暖を取り休憩している。周囲には黄色のウエットスーツや、黒の足ヒレ、磯桶等か干されている。 志摩市志摩町和具 1973.08.28
1907 (志摩町)和具の海女A-4-10 スライド枠には「47.8.28」と記される。海女小屋の風景である。すでに漁を終え、暖も取り終えたのであろう、火床の火は消されているようにも見えるが、後始末でもしているのか海女が一人座っている。小屋の天井に作られた物干竿には、ウエットスーツや磯着、スカリ等が所狭しと干されている。 志摩市志摩町和具 1973.08.28
1908 (志摩町)和具の海女A-4-11 スライド枠には「47.8.28」と記される。船揚げ風景である。和具の港は明治の中期頃まで深い湾形を保ち天然の良港であったが、明治末から大正中期にかけて打続く台風により浜洲が体積。漁港機能が全く果たし得ない状態になったという。昭和14年から県営事業として修築事業が着工され、戦中に一時中断はしたものの第1次整備計画以降、毎年漁港整備が続けられてきた。現在と違って、漁港整備がまだ十分でなかった時代は漁から戻った漁船は陸へと引き揚げられた。丸太のコロを船底に敷いて、船に乗り合わせた海女や村人達が協力し人力で引き揚げたものである。(参考文献:『三重の漁港1971/1995』) 志摩市志摩町和具 1973.08.28
1909 (志摩町)和具の海女A-4-12 スライド枠には「47.8.28」と記される。船揚げ風景である。船の引き上げを終えたのであろう、海女小屋か自宅へと戻る海女達。漁港が十分に整備されていない時代、漁から戻った漁船は陸へと引き揚げられた。丸太のコロを船底に敷いて、船に乗り合わせた海女や村人達が協力し人力で引き揚げたものである。 志摩市志摩町和具 1973.08.28
1910 (志摩町)和具の海女A-4-13 スライド枠には「47.8.28」と記される。船揚げ風景である。船の引き上げを終えたのであろう、海女小屋か自宅へと戻る海女達。漁港が十分に整備されていない時代、漁から戻った漁船は陸へと引き揚げられた。丸太のコロを船底に敷いて、船に乗り合わせた海女や村人達が協力し人力で引き揚げたものである。 志摩市志摩町和具 1973.08.28
1911 (志摩町)和具の海女A-4-14 スライド枠には「47.8.28」と記される。丸太のコロを敷き、陸に引揚げられた船影で寛ぐ海女達。傍らには黄色のウエットスーツが入ったイソカゴが置かれている。 志摩市志摩町和具 1973.08.28
1912 (志摩町)和具の海女A-4-15 スライド枠には「47.8.28」と記される。和具漁港の船揚場に作られた海女小屋かと思われる。古材を柱に、トタン葺きの小屋が長屋の様に並ぶ。小屋の前には一輪車や磯桶と共に海女らしき女性が一人見て取れる。写真手前下にはアラメやカジメらしい海藻の間に船を引き揚げる為の丸太のコロが並べられている。 志摩市志摩町和具 1973.08.28
1913 (志摩町)和具の海女A-4-16 スライド枠には「47.8.28」と記される。和具漁港の船揚場風景かと思われる。写真手前下にはアラメやカジメらしき海藻の間に船を引き揚げる為の丸太のコロが置かれている。引揚げられた漁船の前を、これから出漁するのか海女達がウエットスーツやイソカゴを手に歩いて行く。 志摩市志摩町和具 1973.08.28
1914 (志摩町)和具の海女A-4-17 スライド枠には「47.8.28」と記される。一潜目を終え、海女船から降り立ったノリアイ海女か、もしくは徒人の海女だろうか。波打際で黄色のウエットスーツを脱ぎ磯着へと着替える海女達。傍らには、イソカゴやスカリ、薪等が見て取れる。 志摩市志摩町和具 1973.08.28
1915 和具の海女(舟人)A-5-1 このスライドの前にはめ込まれるタイトルスライドには「和具の海女(舟人) A-5」と記され、スライド枠には「和具浦 2.3.30」と記される。志摩町和具の漁港風景かと思われる。和具の海女漁の口開けは3月中旬からとされるので、撮影時には、すでに漁は始まっているのであろうが、接岸されている新盛丸と書かれた漁船の前には刺網の束が置かれている。(『海女習俗基礎調査報告書 平成22・23年度調査』) 志摩市志摩町和具 1990.03.30
1916 和具の海女(舟人)A-5-2 スライド枠には「和具浦 2.3.30」と記される。志摩町和具の漁港風景かと思われる。刺網の破れを夫婦の漁師が繕っている。特に伊勢海老や磯魚を獲る刺網は、岩礁近くに仕掛けるため網が破れる事が多い。網はナルにかけられ、少しずつ横にずらしながら点検をし、破れた箇所はアバリと呼ばれる道具を使って一目一目手で繕っていく。 志摩市志摩町和具 1990.03.30
1917 和具の海女(舟人)A-5-3 スライド枠には「和具浦 2.3.30」と記される。志摩町和具の漁港風景かと思われる。刺網の破れを夫婦の漁師が繕っている。特に伊勢海老や磯魚を獲る刺網は、岩礁近くに仕掛けるため網が破れる事が多い。網はナルにかけられ、少しずつ横にずらしながら点検をし、破れた箇所はアバリと呼ばれる道具を使って一目一目手で繕っていく。 志摩市志摩町和具 1990.03.30
1918 和具の海女(舟人)A-5-4 スライド枠には「和具浦 2.3.30」と記される。漁師の夫婦だろうか。№1927の写真と合わせて見てみると、女性はまだ現役の海女のようである。 志摩市志摩町和具 1990.03.30
1919 和具の海女(舟人)A-5-5 スライド枠には「和具浦 2.3.30」と記される。網の修理道具である。破れた網を繕うための「アバリ」や糸を切るための小刀、けがをしたときの為の絆創膏などが入れられている。アバリは糸の太さや、色などによって幾種類も用意される。また、アバリは孟宗竹等を割って作られるが、以前は使い勝手がいいように、それぞれの漁師が自作したという。 志摩市志摩町和具 1990.03.30
1920 和具の海女(舟人)A-5-6 スライド枠には「和具浦 2.3.30」と記される。網の修理道具。破れた網を繕うための「アバリ」や糸を切るための小刀、けがをしたときの為の絆創膏などが入れられている。アバリは糸の太さや、色などによって幾種類も用意される。また、アバリは孟宗竹等を割って作られるが、以前は使い勝手がいいように、それぞれの漁師が自作したという。 志摩市志摩町和具 1990.03.30
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