三重大学海女研究センター

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アーカイブ資料/画像資料アーカイブ

画像資料アーカイブPhotograph

海女研究センターが「アーカイブ・データベース事業」で構築してきた文献・画像のデータベースから詳細検索ができます。こちらでは鳥羽市立海の博物館が所蔵する海女や漁村に関する画像について、名称や撮影場所、撮影年、写されている内容を閲覧できます。

418 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-3
©鳥羽市立海の博物館

5799 志島の海女船4-1-3
©鳥羽市立海の博物館

5434 波切わらじ祭1-4
©鳥羽市立海の博物館

967 菅島(しろんご祭)3-6-3
©鳥羽市立海の博物館

418 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-3
©鳥羽市立海の博物館

5799 志島の海女船4-1-3
©鳥羽市立海の博物館

A16390(波切 わらじ)
©鳥羽市立海の博物館

967 菅島(しろんご祭)3-6-3
©鳥羽市立海の博物館

No. 資料の名称(画像タイトル) 内容(キャプション) 撮影場所 撮影年(西暦)
5621 波切わらじ祭3-2-2 県の重要無形文化財である、わらじ曳き神事の場面。神事当日は、頭家(とうや)が1人で拝殿にこもり神様と朝食をとったあと、岬で柏手を打ち帰ってくる。当時、その食事は松井家の女性がユリカゴに入れた御膳(ご飯、刺身、アカグロの煮つけ、汁物)を頭にいただいて波切神社へ運んだ。「御膳を上げる」と言い、ユリカゴは途中で落とさないように帯で頭に固定した。その後わらじ曳き神事が始まり、写真のように 5 人の稚児が三味線、太鼓、鼓の三役にあわせて舞う。稚児の後ろにいる介添え役が祭文を唱える。介添え役は、当時は役場の職員だったが現在(2023年)は父親が担う。幼い稚児が神社の階段を上れず、親がおぶって行く姿もあった。稚児は3~5歳の男子で、かつては漁師を中心とする特定の家から選ばれていたが、現在(2023年)はそれ以外の生業に就く家も可能である。舞の奉納が終わると稚児がわらじの鼻緒に結んだ綱を持ち、「ヤア」と掛け声をして西(山側)から東(海側)に向かってわらじを曳く。稚児は男子から選ばれた。(「丘端の記憶 波切の暮らし写真展」報告書より) 志摩市大王町波切 1978.9.7
5622 波切わらじ祭3-2-3 いよいよわらじ曳き神事が始まる。介添え役の役場の職員と共に日の丸の扇を広げる5人の稚児役。 志摩市大王町波切 1978.9.7
5623 波切わらじ祭3-2-4 いよいよわらじ曳き神事が始まる。介添え役の役場の職員と共に日の丸の扇を広げる5人の稚児役。 志摩市大王町波切 1978.9.7
5624 波切わらじ祭3-2-5 県の重要無形文化財である、わらじ曳き神事の場面。神事当日は、頭家(とうや)が1人で拝殿にこもり神様と朝食をとったあと、岬で柏手を打ち帰ってくる。当時、その食事は松井家の女性がユリカゴに入れた御膳(ご飯、刺身、アカグロの煮つけ、汁物)を頭にいただいて波切神社へ運んだ。「御膳を上げる」と言い、ユリカゴは途中で落とさないように帯で頭に固定した。その後わらじ曳き神事が始まり、写真のように 5 人の稚児が三味線、太鼓、鼓の三役にあわせて舞う。稚児の後ろにいる介添え役が祭文を唱える。介添え役は、当時は役場の職員だったが現在(2023年)は父親が担う。幼い稚児が神社の階段を上れず、親がおぶって行く姿もあった。稚児は3~5歳の男子で、かつては漁師を中心とする特定の家から選ばれていたが、現在(2023年)はそれ以外の生業に就く家も可能である。舞の奉納が終わると稚児がわらじの鼻緒に結んだ綱を持ち、「ヤア」と掛け声をして西(山側)から東(海側)に向かってわらじを曳く。稚児は男子から選ばれた。(「丘端の記憶 波切の暮らし写真展」報告書より) 志摩市大王町波切 1978.9.7
5625 波切わらじ祭3-2-6 5人の稚児役が曳き綱を持って、鼓打ちが唱える祭文と三味線、太鼓、鼓に合わせ、「ヤア」と掛声を発して、西(山方)から東(海方)へわらじを曳く。介添えは舞いと綱を曳く手助けをする。 志摩市大王町波切 1978.9.7
5626 波切わらじ祭3-3-1 わらじ曳きが終了し、舞台に整列する介添え役の役場の職員と5人の稚児役。 志摩市大王町波切 1978.9.7
5627 波切わらじ祭3-3-2 須場の浜で松井兵太夫家当主、5人の稚児役と介添え、三役、町の有志が並ぶ。高齢女性7人がわらじの周りに立ち、祝い唄エレワカやサンヤレなどを唄う。堤防の上も見学者であふれている。 志摩市大王町波切 1978.9.7
5628 波切わらじ祭3-3-3 須場の浜で松井兵太夫家当主、5人の稚児役と介添え、三役、町の有志が並ぶ。高齢女性7人がわらじの周りに立ち、祝い唄エレワカやサンヤレなどを唄う。堤防の上も見学者であふれている。 志摩市大王町波切 1978.9.7
5629 波切わらじ祭3-3-4 須場の浜で松井兵太夫家当主、5人の稚児役と介添え、三役、町の有志が並ぶ。高齢女性7人がわらじの周りに立ち、祝い唄エレワカやサンヤレなどを唄う。堤防の上も見学者であふれている。 志摩市大王町波切 1978.9.7
5630 波切わらじ祭3-3-5 須場の浜で松井兵太夫家当主、5人の稚児役と介添え、三役、町の有志が並ぶ。高齢女性7人がわらじの周りに立ち、祝い唄エレワカやサンヤレなどを唄う。堤防の上も見学者であふれている。 志摩市大王町波切 1978.9.7
5631 波切わらじ祭3-3-6 須場の浜で松井兵太夫家当主、5人の稚児役と介添え、三役、町の有志が並ぶ。高齢女性7人がわらじの周りに立ち、祝い唄エレワカやサンヤレなどを唄う。堤防の上も見学者であふれている。 志摩市大王町波切 1978.9.7
5632 波切わらじ祭3-4-1 須場の浜で松井兵太夫家当主、5人の稚児役と介添え、三役、町の有志が並ぶ。高齢女性7人がわらじの周りに立ち、祝い唄エレワカやサンヤレなどを唄う。堤防の上も見学者であふれている。 志摩市大王町波切 1978.9.7
5633 波切わらじ祭3-4-2 須場の浜で松井兵太夫家当主と稚児、介添え、三役、町の有志が並ぶ。七人婆(しちにんばあ)がわらじの周りに立ち祝い唄などを唱える。 堤防の上にも人が溢れ、足を突き出して座る姿が写っている。(「丘端の記憶 波切の暮らし写真展」報告書より) 志摩市大王町波切 1978.9.7
5634 波切わらじ祭3-4-3 須場の浜で松井兵太夫家当主、5人の稚児役と介添え、三役、町の有志が並ぶ。高齢女性7人がわらじの周りに立ち、祝い唄エレワカやサンヤレなどを唄う。堤防の上も見学者であふれている。 志摩市大王町波切 1978.9.7
5635 波切わらじ祭3-4-4 須場の浜での神事が終わり、わらじを担いで海に入る4人の若者。 志摩市大王町波切 1978.9.7
5636 波切わらじ祭3-4-5 4人の若者がわらじを200m沖合まで泳いで大王島へ向けて流す。この頃沖には大王島方向への潮流があるといわれている。沖では、更に沖へと流しに行く船が待機しており、大王島の沖まで船で曳いて流してくる。 志摩市大王町波切 1978.9.7
5637 波切の海女7-1-1 漁を終え、須場の浜で休む2人のカチド海女とタンポや足ひれなどの道具を担いで石段を上がる、2人のカチド海女。 志摩市大王町波切 1978.9.7
5638 波切の海女7-1-2 漁を終え、手押し車に道具を乗せて帰るカチド海女の後ろ姿。 志摩市大王町波切 1978.9.7
5639 志島浅間祭1-1-1 志島の広岡の浜で行われる浅間祭。総垢離(そうごうり)とも言う。古くは旧歴5月28日に海蔵寺薬師堂を拠点に行われ、12年目の丑年ごとに富士参りを行っていた。祭の前日に講元が造った砂の祭壇に、小枝を残した真竹へ大しでをつけたもの8本、その間へ「富士浅間大権現」と大書した幟を4本立てる。午後になって集まったステテコ姿やふんどし姿の男たちが、数珠を繰りながら垢離をとる。砂の祭壇に海水で清めた小石を供えた後、ヨウヨウヨウと3回唱え鈴を振りながら呪文を唱える。写真は砂の祭壇に小石を供える男たち。参考文献:『阿児町史』昭和52年発行(以下キャプションは同文献を参照) 志摩市阿児町志島 1986.6.28
5640 志島浅間祭1-1-2 海水で清めた小石を砂の祭壇に供える男たち。アルバムのデータ記載欄には「海に浸した石を1つずつ供える」と記される。 志摩市阿児町志島 1986.6.28
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