三重大学海女研究センター

TOP

アーカイブ資料/画像資料アーカイブ

画像資料アーカイブPhotograph

海女研究センターが「アーカイブ・データベース事業」で構築してきた文献・画像のデータベースから詳細検索ができます。こちらでは鳥羽市立海の博物館が所蔵する海女や漁村に関する画像について、名称や撮影場所、撮影年、写されている内容を閲覧できます。地域の方、学生の方、研究者の方、メディアの方々で、画像にご関心がある場合は「資料の問い合わせについて」もあわせてご覧ください。

418 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-3
©鳥羽市立海の博物館

5799 志島の海女船4-1-3
©鳥羽市立海の博物館

5434 波切わらじ祭1-4
©鳥羽市立海の博物館

967 菅島(しろんご祭)3-6-3
©鳥羽市立海の博物館

418 神島ゴクアゲ(御供上げ)6-3
©鳥羽市立海の博物館

5799 志島の海女船4-1-3
©鳥羽市立海の博物館

A16390(波切 わらじ)
©鳥羽市立海の博物館

967 菅島(しろんご祭)3-6-3
©鳥羽市立海の博物館

No. 資料の名称(画像タイトル) 内容(キャプション) 撮影場所 撮影年(西暦)
1481 国崎7-3-2 国崎町鎧崎の船揚場近辺の景観黒く塗られた瓦葺きの小さな家屋は、漁具などを保管する漁師小屋かと思われる。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) 鳥羽市国崎町 (不明)
1482 国崎7-3-3 国崎町鎧崎の船揚場の風景である。漁に出ているのか陸に揚げられた漁船はわずかである。写真の右手堤防沿いに進めば国崎町の集落。写されてはいないが左側には海女小屋や熨斗鰒調製所が建てられている。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) 鳥羽市国崎町 (不明)
1483 国崎7-3-4 国崎町の集落景観である。道路左側の建物は漁具等を保管する漁師小屋で戸口には屋号が記されている。子供を背負った老婦人が歩く先は鎧崎である。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる) 鳥羽市国崎町 (不明)
1484 国崎7-3-5 かつては海女を生業としていたのだろうか。老婆が部屋で洗濯物をたたんでいる。孫か曽孫の物なのか、オシメの様である。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる)(№1402に写される老婆と同一人物) アルバムのデータ記載欄には「S46」と記される。 鳥羽市国崎町 (不明)
1485 国崎7-3-6 かつては海女を生業としていたのだろうか。老婆が部屋で洗濯物をたたんでいる。孫か曽孫の物なのか、オシメの様である。(緑色の斑紋など劣化の兆候が見受けられる)(№1402に写される老婆と同一人物) アルバムのデータ記載欄には「S46」と記される。 鳥羽市国崎町 (不明)
1486 国崎アラメ拾い7-4-1 国崎町鎧崎の前の浜であろう。昔から海の難所として恐れられてきた海域である。少しの気圧の変化でも海はうねり、海底を揺すり白波が岩場を洗う。アラメや天草などの海藻類も岩から剥がれたり千切れたりして海岸へ打ち寄せられるが、漁村地域ではそれらを拾い集めて、食材や田畑の肥料として活用してきた。 アルバムのデータ記載欄には「S47年不明 国崎アラメ拾い」と記される。  鳥羽市国崎町 1972
1487 国崎アラメ拾い7-4-2 国崎町鎧崎の前の浜であろう。昔から海の難所として恐れられてきた海域である。少しの気圧の変化でも海はうねり、海底を揺すり白波が岩場を洗う。アラメや天草などの海藻類も岩から剥がれたり千切れたりして海岸へ打ち寄せられるが、漁村地域ではそれらを拾い集めて、食材や田畑の肥料として活用してきた。 アルバムのデータ記載欄には「S47年不明 国崎アラメ拾い」と記される。  鳥羽市国崎町 1972
1488 国崎アラメ拾い7-4-3 国崎漁港を相差町寄りの浜からみた風景である。昔から海の難所として恐れられてきた海域である。少しの気圧の変化でも海はうねり、海底を揺すり白波が岩場を洗う。アラメや天草などの海藻類も岩から剥がれたり千切れたりして浜辺や海岸に打ち寄せられるが、漁村地域ではそれらを拾い集めて、食材や田畑の肥料として活用してきた。アルバムのデータ記載欄には「S47年不明 国崎アラメ拾い」と記される。 鳥羽市国崎町 1972
1489 国崎アラメ拾い7-4-4 国崎漁港を相差町寄りの浜からみた風景である。昔から海の難所として恐れられてきた海域である。少しの気圧の変化でも海はうねり、海底を揺すり白波が岩場を洗う。アラメや天草などの海藻類も岩から剥がれたり千切れたりして浜辺や海岸に打ち寄せられるが、漁村地域ではそれらを拾い集めて、食材や田畑の肥料として活用してきた。アルバムのデータ記載欄には「S47年不明 国崎アラメ拾い」と記される。 鳥羽市国崎町 1972
1490 国崎アラメ拾い7-4-5 昔から海の難所として恐れられてきた海域である。少しの気圧の変化でも海はうねり、海底を揺すり白波が岩場を洗う。アラメや天草などの海藻類も岩から剥がれたり千切れたりして浜辺や海岸に打ち寄せられるが、漁村地域ではそれらを拾い集めて、食材や田畑の肥料として活用してきた。アルバムのデータ記載欄には「S47年不明 国崎アラメ拾い」と記される。 鳥羽市国崎町 1972
1491 国崎アラメ拾い7-4-6 国崎漁港を相差町寄りの浜からみた風景である。昔から海の難所として恐れられてきた海域である。少しの気圧の変化でも海はうねり、海底を揺すり白波が岩場を洗う。アラメや天草などの海藻類も岩から剥がれたり千切れたりして浜辺や海岸に打ち寄せられるが、漁村地域ではそれらを拾い集めて、食材や田畑の肥料として活用してきた。アルバムのデータ記載欄には「S47年不明 国崎アラメ拾い」と記される。 鳥羽市国崎町 1972
1492 国崎アラメ拾い7-5-1 国崎漁港を相差町寄りの浜からみた風景である。昔から海の難所として恐れられてきた海域である。少しの気圧の変化でも海はうねり、海底を揺すり白波が岩場を洗う。アラメや天草などの海藻類も岩から剥がれたり千切れたりして浜辺や海岸に打ち寄せられるが、漁村地域ではそれらを拾い集めて、食材や田畑の肥料として活用してきた。アルバムのデータ記載欄には「S47年不明 国崎アラメ拾い」と記される。 鳥羽市国崎町 1972
1493 国崎アラメ拾い7-5-2 海が荒れるとアラメや天草などの海藻類が岩から剥がれたり千切れたりして浜辺に打ち寄せられる。漁村地域では昔からそれらの海藻類が打ち寄せられるのを拾い集めて、食材や田畑の肥料として活用してきた。アルバムのデータ記載欄には「S47年不明 国崎アラメ拾い」と記される。 鳥羽市国崎町 1972
1494 国崎アラメ拾い7-5-3 海が荒れるとアラメや天草などの海藻類が岩から剥がれたり千切れたりして浜辺に打ち寄せられる。漁村地域では昔からそれらの海藻類が打ち寄せられるのを拾い集めて、食材や田畑の肥料として活用してきた。アルバムのデータ記載欄には「S47年不明 国崎アラメ拾い」と記される。 鳥羽市国崎町 1972
1495 国崎アラメ拾い7-5-4 海が荒れるとアラメや天草などの海藻類が岩から剥がれたり千切れたりして浜辺に打ち寄せられる。漁村地域では昔からそれらの海藻類が打ち寄せられるのを拾い集めて、食材や田畑の肥料として活用してきた。アルバムのデータ記載欄には「S47年不明 国崎アラメ拾い」と記される。 鳥羽市国崎町 1972
1496 国崎アラメ拾い7-5-5 海が荒れるとアラメや天草などの海藻類が岩から剥がれたり千切れたりして浜辺に打ち寄せられる。漁村地域では昔からそれらの海藻類が打ち寄せられるのを拾い集めて、食材や田畑の肥料として活用してきた。アルバムのデータ記載欄には「S47年不明 国崎アラメ拾い」と記される。 鳥羽市国崎町 1972
1497 国崎アラメ拾い7-5-5 海が荒れるとアラメや天草などの海藻類が岩から剥がれたり千切れたりして浜辺に打ち寄せられる。漁村地域では昔からそれらの海藻類が打ち寄せられるのを拾い集めて、食材や田畑の肥料として活用してきた。アルバムのデータ記載欄には「S47年不明 国崎アラメ拾い」と記される。 鳥羽市国崎町 1972
1498 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-1-1 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。磯手拭いを被り、ウエットスーツに鉛のベルトを巻き、命綱を付けた海女が磯場へと向かう船上風景である。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 鳥羽市国崎町 1972.07.31
1499 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-1-2 国崎町では舟人海女の事を夫婦で操業する事から「ととかか舟」とも呼ぶ。磯場へと向かう出漁風景である。アルバムのデータ記載欄には「48.7.31 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 鳥羽市国崎町 1972.07.31
1500 鳥羽市国崎町(舟人海女)8-1-3 国崎町鎧崎灯台。鳥羽市国崎町の鎧崎に建つ。昭和38年2月27日点灯。八角形のコンクリート造りで高さ9.61m、平均水面からの高さ26.06m。灯質は明暗白光・明3秒暗3秒。実効光度110カンデラ。光達距離は5.5海里である。【参考文献】第四管区海上保安本部編・発行『航路標識一覧表』平成23年発行 アルバムのデータ記載欄には「48.7.31 AM 鳥羽市国崎町(舟人海女)」と記される。 鳥羽市国崎町 1972.07.31
TOP